第2話 教授室の悪魔
翌日の午後。
俺は大学の四階にある教授室の前に立っていた。
重厚な木の扉。そこには『権藤研究室』というプレートがかかっている。
考古学界の権威にして、我が大学の名物教授。そして、学生たちからは「歩く発掘マシーン」とか「単位を人質に取る悪魔」として恐れられている人物の部屋だ。
呼び出しを食らった理由は、おおよそ見当がついている。
前期の成績だ。
レポートの提出は遅れ、出席日数はギリギリ。テストのヤマは外れ、解答用紙には苦し紛れに埴輪のイラストを描いて提出した。
どう考えても、留年フラグが乱立している。
深呼吸を一つ。
覚悟を決めて、俺はノックをした。コンコン。
「入れ」
野太い声が響く。
扉を開けると、そこは本の迷宮だった。
床から天井まで、崩れ落ちそうなほど積み上げられた専門書、発掘報告書、そして未整理の図面。部屋の主はその奥、書類の塔に埋もれるようにして座っていた。
白髪交じりのボサボサ頭に、ヨレヨレの白衣。丸眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように鋭く光る。
権藤教授だ。
「失礼します……須藤です」
「おお、来たか須藤くん。座りたまえ。そこにある報告書をどかしてな」
俺は椅子の上に積まれていた『関東ローム層における火山灰の編年』という分厚い本を慎重に床に置き、浅く腰掛けた。
教授は手元の書類――おそらく俺の成績表だ――をじっと見つめ、フム、と鼻を鳴らした。
「須藤くん。君、前期の『考古学概論』の成績だがね」
「……はい」
「非常に、こう、独創的というか、アバンギャルドな点数だったよ。埴輪の絵は上手かったが、あれは加点対象外だ」
「……申し訳ありません」
終わった。
俺の脳裏に、留年、奨学金の停止、親の怒号、そしてコンビニバイトに明け暮れる来年の自分の姿が走馬灯のように駆け巡る。
「だがね」
教授はニタリと笑った。口の端が吊り上がり、目尻に深い皺が刻まれる。
「君に、起死回生のチャンスを与えよう」
「チャンス、ですか?」
「うむ。救済措置だ。慈悲深い私に感謝したまえ」
教授は机の引き出しから、一枚の地図を取り出し、俺の目の前に広げた。
等高線がびっしりと描かれた、山間部の地図だ。長野県の山奥らしい。
赤いマジックで囲まれた地点には、『緊急発掘調査区域』という文字が踊っている。
「ここだ」
教授が太い指で一点を指し示す。
「来週から、ここに行ってきてくれたまえ。ダム建設に伴う緊急発掘だ。工期が迫っていてね、とにかく人手が足りないのだよ」
「あの……期間は?」
「三週間」
俺は絶句した。
三週間。夏休みのほぼ半分が消し飛ぶ計算だ。しかも、こんな山奥で。
「宿舎はあるんですか?」
「廃校になった小学校を借りている。水洗トイレはないが、屋根はあるぞ。食事は自炊だ」
「虫は?」
「山だからな。カブトムシもいれば、スズメバチもいるだろう。熊も出るかもしれん」
笑顔で言うことではない。
俺は全力で拒否したかった。
エアコンの効いた部屋でゲームをして、たまにバイトに行く。それが俺の描いていた理想の夏休みだ。なぜスコップを持って山の中で泥にまみれなければならないのか。
「お断りし……」
「行けば、単位は『優』をあげよう」
教授が悪魔の囁きを投下した。
「さらに、日当も出る。割のいいバイトだと思えばいい。どうだね?」
選択肢など最初からなかったのだ。
これは取引ではない。強制労働の令状だ。
「……行かせて、いただきます」
俺が絞り出すように答えると、教授は満足げに頷いた。
「よろしい。ああ、それから」
教授は思い出したように付け加えた。
「一人だと寂しかろう。もう一人、志願者がいるから連れて行きたまえ」
「志願者?」
こんな地獄の労働に、自ら志願する奇特な人間がいるのか?
その時、開けっ放しの扉から、元気な声が飛び込んできた。
「失礼しまーす! 牧村です! 教授、現場の資料もらいに来ました!」
理香だ。
リュックを背負い、すでに遠足に行く小学生のようなテンションで入ってきた彼女は、俺の姿を見つけると、パァッと顔を輝かせた。
「あ、須藤先輩! 先輩も行くんですか? やったー! 一緒ですね!」
「……お前、志願したのか?」
「当たり前じゃないですか! だってここ、『鬼の墓』があるって噂の村ですよ?」
理香は興奮気味に、教授の机の上の地図を覗き込んだ。
「鬼の墓?」
「はい! 地元の伝承にあるんです。昔、山から下りてきた鬼が、村娘と恋に落ちて、最後は村人に殺されて埋められた場所だって。ロマンチックじゃないですか!」
「それはロマンチックじゃなくて、猟奇的と言うんだ」
俺のツッコミなど聞こえていないらしく、理香は教授と盛り上がっている。
「先生、人骨出ると思いますか?」
「出るかもしれんなぁ。縄文後期の包含層があるからね」
「うわぁ、楽しみ! 私、絶対に見つけますよ、愛の証!」
眩暈がした。
三週間。
このハイテンションな後輩と、人使いの荒い現場監督(おそらくドクターの先輩だろう)と、そして虫と熊に囲まれて過ごす日々。
それはもはや、一種の刑罰に近い。
「では、頼んだよ。出発は明後日だ」
教授は手をひらひらと振って、俺たちを部屋から追い出した。
廊下に出ると、大学の窓から見える空は、憎らしいほど晴れ渡っていた。
「先輩、楽しみですね!」
隣で理香が、満面の笑みで俺の背中を叩く。
「……お前な、遊びに行くんじゃないんだぞ」
「分かってますって。でも、何かが待ってる気がするんです。私の直感、当たりますよ?」
根拠のない自信。
だが、彼女のその「直感」というやつが、あながち馬鹿にできない精度を持っていることを、俺はこの時はまだ認めたくなかった。
こうして、俺の夏休みは粉砕された。
向かうは長野県、K村。
地図から消えゆく運命にあるその場所へ、俺たちは片道切符の旅に出ることになったのだ。




