第15話 夜のプール
宿舎に戻ったのは夕方だった。
報告を受けた内海さんは、「水銀朱だと!?」と色めき立ち、すぐに大学の研究室に電話をかけ始めた。土壌サンプルの成分分析を急がせるためだ。
夜。雨は上がり、雲の切れ間から月が顔を出していた。
蒸し暑い夜だった。
俺は寝付けず、校舎の外に出た。
カエルの合唱が響く中、校庭を横切り、プールのフェンスに寄りかかる。
防火用水として水が張られたままのプール。藻が繁殖して緑色に濁っているが、月明かりを反射してゆらゆらと光っている。
「……先輩も、眠れませんか?」
背後から声がした。
理香だ。
彼女はジャージ姿ではなく、Tシャツに短パンというラフな格好で、タオルを肩にかけていた。
お風呂上がりなのだろう。髪が少し濡れていて、石鹸の匂いがした。
「ああ。昼間のカツ丼が重くてな」
俺は適当な嘘をついた。本当は、あの二体の骨のことが頭から離れなかったのだ。
理香は隣に来て、フェンス越しにプールを眺めた。
「学校のプールって、夜に見ると怖いですよね。何か出そうで」
「ここには出ないさ。出るなら現場の方だろ」
「ですね」
理香は短く笑ったが、その笑顔はすぐに消えた。
「先輩、話していいですか」
「何をだ」
「私がなんで、こんなに『忘れられること』にこだわるのか」
唐突な問いかけだった。
俺はずっと気になっていたことだ。彼女の、あの異常なまでの執着の理由。
「……聞かせてくれ」
理香はプールに小石を投げ入れた。
ポチャン、と音がして、波紋が広がる。
「小学生の頃、親友がいたんです。ミイちゃんって言って、隣の家に住んでて、毎日一緒に遊んでました」
彼女は淡々と語り始めた。
「でも、ある日突然、ミイちゃんいなくなっちゃったんです。交通事故でした。あっという間でした」
「……そうか」
「お葬式が終わって、一週間もしないうちに、ミイちゃんの家は取り壊されました。更地になって、すぐに新しいアパートが建って、新しい家族が引っ越してきました」
理香の声が少し震える。
「学校でも、最初こそみんな泣いてましたけど、一ヶ月もすれば誰もミイちゃんの話をしませんでした。先生も、友達も、まるで最初からミイちゃんがいなかったみたいに、普通に笑って、普通に過ごしてて」
彼女は自分の腕を抱いた。
「私だけが、取り残されたみたいでした。ミイちゃんが好きだったキャラクターのシールとか、交換日記とか、そういうモノだけが手元に残ってて。でも、それもいつかゴミとして捨てられちゃうのかなって思ったら、怖くて」
彼女は俺の方を見た。
月の光を受けて、その瞳が濡れているのが見えた。
「人は二度死ぬって言いますよね。肉体の死と、誰からも忘れられた時の死。ミイちゃんは二度目の死を迎えようとしてた。それが耐えられなかったんです」
だから、彼女は考古学を選んだのか。
土の中に埋もれ、忘れ去られた人々の「生きた証」を掘り起こすこと。
それが、彼女なりの親友への弔いであり、自分自身が忘れられることへの恐怖に対する抵抗なのだ。
「だから、あの二人の骨を見た時、他人事とは思えなくて」
理香は涙を拭った。
「あんなに愛し合ってたのに、誰にも知られず、しかも『鬼』なんて呼ばれて……そんなの間違ってます。誰かが覚えててあげなきゃ、本当の意味で死んじゃう」
俺は黙って彼女の話を聞いていた。
かけるべき言葉が見つからなかった。
「元気出せよ」も「可哀想に」も、薄っぺらくて言えない。
俺にできることは、彼女のその「痛み」を否定せず、ただ受け止めることだけだ。
「……大丈夫だ」
俺は不器用に言った。
「俺たちは見つけた。お前の直感のおかげでな。あの二人はもう、忘れられた存在じゃない。俺たちが記録し、論文にし、博物館に残す。そうすれば、彼らは何度だって蘇る」
俺は理香の肩に手を置いた。
「俺はデータを信じる。でも、そのデータにお前がくれた『想い』ってやつを乗せれば、最強の記録になるはずだ。そうだろ?」
理香は驚いたように俺を見上げ、そして、くしゃっと笑った。
「……先輩、やっぱりロマンチストじゃないですか」
「うるさい。事実を述べただけだ」
「ありがとうございます。なんか、元気出ました」
彼女は大きく伸びをした。
「よーし! 明日は絶対、決定的な証拠見つけましょうね! あの村長たちを見返すくらいのやつ!」
「ああ。徹底的に掘り返してやる」
夜風が吹いた。
プールサイドの湿った空気の中で、俺たちは無言の約束を交わした。
明日は決戦だ。
三千年前の悲劇に、決着をつけるために。




