第1話 二十一歳の憂鬱
歴史というのは、往々にして美しい物語として語られがちだ。
英雄の英断が国を動かしたとか、悲劇の王女が愛に殉じたとか、教科書や小説に出てくる歴史はいつだってドラマチックに脚色されている。
けれど、実際に地面を掘り返して出てくる「歴史」の実体は、そんな綺麗なものじゃない。
それは、圧倒的な「生活の残りカス」だ。
俺の手元にあるのは、直径三センチほどの、茶色い破片。
数千年前の人間が使い、煮炊きをし、うっかり割り、そして捨てた、土器のカケラ。
俺はそれをタワシでゴシゴシとこすり、泥を落としていく。水は冷たく、指先の感覚はとっくに麻痺していた。ゴム手袋をつければいいだけの話なのだが、教授曰く「素手で触れてこそ分かる質感がある」とのことらしい。ブラック企業も裸足で逃げ出す精神論だ。
考古学とは、ロマンなどではない。
他人の家のゴミ箱を漁って、その日の夕飯のメニューを当てるような、地味で、根暗で、果てしない徒労だ。
「先輩、手が止まってますよ」
横から、呆れたような声が飛んできた。
視線を上げると、作業台の向かい側で、同じようにタワシを握りしめた女子学生が俺を見ている。
牧村理香。
俺と同じ、T大学文学部考古学研究室に所属する二年生。
髪を後ろで無造作に束ね、ジャージの上から茶色いエプロンという、色気もへったくれもない格好をしているが、目だけはやたらとキラキラしている。小動物のような、あるいは獲物を狙う肉食獣のような瞳だ。
「止まってない。考察していたんだ」
「へぇ。その単なる弥生土器の甕の破片から、どんな高尚な考察が得られたんですか? ぜひご教授願いたいものです」
「弥生人はもう少し、後の世の研究者のことを考えて土器を割るべきだった、という考察だ。なんでこんなに粉々なんだよ。パズルにもなりゃしない」
俺がため息交じりに言うと、理香は「もー」と頬を膨らませた。
「愛がないなぁ、須藤先輩は。いいですか? その破片には、太古の人々の息吹が詰まってるんですよ。土を練った時の指紋とか、火にくべた時の熱とか、家族のために料理を作った誰かの想いとか、そういうパッションを感じないんですか?」
「感じないな。感じるのは腰の痛みと、冷水の冷たさ、それにこの部屋のカビ臭さだけだ」
「枯れてる……二十一歳にして、心はすでに白亜紀の化石ですね」
理香は首を振り、再び手元の作業に戻った。
チャプ、チャプ、と水音が響く。
俺たちは今、大学の薄暗い地下実習室にこもっている。
世間では夏休みが始まったばかりだ。
普通の大学生なら、海に行ったり、バーベキューをしたり、あるいはエアコンの効いた部屋で惰眠を貪ったりしている時期だろう。
だが、俺たちは違う。
去年の発掘調査で出土した、コンテナ五十箱分の土器を洗浄しているのだ。
泥のついた破片を水で洗い、乾かし、番号を振り、接合する。その繰り返し。
これが終わらないと、単位は出ない。
窓のないこの部屋では、時間の感覚すら曖昧になる。壁に貼られた地層の断面図だけが、ここが時間の堆積する場所であることを無言で主張していた。
「そもそもさ、牧村」
俺は新しい破片を手に取りながら口を開いた。沈黙に耐えかねたわけではないが、口を動かしていないと眠気に負けそうだったからだ。
「お前、なんでこんな学科に来たんだ? もっとこう、華やかな学部もあっただろ。国際何ちゃらとか、経営何ちゃらとか」
「偏見がすごいですね。先輩こそ、なんで考古学なんですか?」
「俺は、消去法だ。数学ができない、英語も苦手、かといって哲学するほど頭も良くない。気づいたらここにいた」
「うわぁ、最低の動機」
理香はケラケラと笑う。
悪意のない笑い声だ。彼女のこういうところは、少しだけ羨ましいと思う。何の屈託もなく笑えるというのは、一種の才能だ。
「私はですね、忘れられるのが嫌なんです」
理香の手がふと止まる。
彼女は、洗い終わった土器片を、まるで宝石でも扱うようにタオルで拭き取っていた。
「人間って、死んだら終わりじゃないですか。肉体は消えるし、記憶も薄れる。百年も経てば、誰もその人のことを覚えてない。それって、すごく寂しいことだと思うんです」
「生物学的な宿命だな」
「でも、モノは残るんです」
彼女は土器片を掲げ、蛍光灯の光にかざした。
「この土器を使った人が、どんな顔をして、どんな声で笑っていたかは分からない。でも、この土器に残った『焦げ』を見れば、その人が何を食べていたかは分かる。料理を失敗したドジな人だったのかもしれないって、想像できる。それって、その人が生きていた証拠じゃないですか」
「……想像力が豊かだな」
「復元、と言ってください。私たちは、モノを通じて、かつてそこにいた誰かの『生』を復元してるんです。ロマンチックでしょう?」
理香は満足げに微笑むと、丁寧に土器片をトレイに並べた。
ロマン、か。
俺にはその感覚がよく分からない。
俺にとって土器はデータだ。形式分類を行い、年代を決定するための指標。そこに個人の感情やドラマを見出すのは、学問というよりは文学の領域だろう。
そう反論しようとして、俺は口をつぐんだ。
彼女の横顔が、いつになく真剣だったからだ。
普段の能天気な様子とは違う、どこか切実な光が、その瞳の奥に揺らめいているように見えた。
「ま、先輩には一生分からないでしょうけどねー」
次の瞬間、理香はいつもの調子に戻って、俺に水を跳ね飛ばしてきた。
「冷たっ! お前なぁ……」
「あはは! 目が覚めました? さぁ、あと三箱ですよ。今日中に終わらせないと、教授にドヤされますからね」
「分かってるよ」
俺はタオルで顔を拭き、再びタワシを握り直す。
地下実習室の時計は、午後四時を回っていた。
地上では太陽が照りつけているはずだが、ここは相変わらず湿った土の匂いが充満している。
俺たちの夏は、まだ始まったばかりだった。
そして、この退屈で平穏な「土器洗い」の日々が、嵐の前の静けさだったことを、俺はまだ知らなかったのだ。




