第32話 「譲れない線」
学内演奏会まで、あと一週間。
大学構内には、
目に見えない緊張が静かに漂っていた。
練習室の予約はすぐに埋まり、
廊下には楽器を抱えた学生たちの姿が増えている。
けれど――
悠花・刹那・希愛の周囲だけ、
どこか空気が違っていた。
(……見られてる)
そう感じる瞬間が、確実に増えていた。
それは、刹那のもとに届いた一本の連絡から始まった。
「……学生課から?」
差出人を見た瞬間、
刹那はわずかに眉をひそめる。
件名:学内演奏会に関する件
内容は、簡潔だった。
学内演奏会に関し、
保護者同席での進路確認を希望する申し出がありました。
日時については、後日改めてご連絡いたします。
“保護者”。
その単語が、
刹那の胸に静かに沈む。
(……紫苑のお母様だ)
直感で、そうわかった。
昼休み。
三人は中庭のベンチに集まっていた。
「……来たね」
悠花が、刹那のスマホを見て言う。
「ええ。
でも、逃げない」
刹那の声は落ち着いていた。
「刹那……
無理しなくていい……」
希愛が心配そうに言う。
刹那は首を横に振る。
「これは、
“私たち全員の問題”よ」
「紫苑の進路を、
“周りが決める”流れを止めるなら……
誰かが正面に立たないといけない」
悠花は、ぎゅっと唇を噛んだ。
(刹那……
覚悟、決まってる)
一方その頃。
紫苑は、学内の練習室で
一人、ピアノに向かっていた。
今日も、正確な指運び。
講師からの評価は高い。
「……とても安定しています」
「ありがとうございます」
紫苑は、いつも通りに答える。
表情も、姿勢も、言葉遣いも、
何ひとつ乱れはない。
(これでいい)
(私は、
求められている場所にいる)
そう思うことで、
自分を保っていた。
胸の奥で、
何かが静かに軋んでいることには
触れないようにして。
夕方。
悠花は一人、練習棟の外に立っていた。
夕焼けに染まる空を見上げながら、
深く息を吸う。
(音楽をやめろ、って言われるなら……)
(私は、やめない)
誰に言われても。
どんな立場の人にでも。
それが、
自分がここに立っている理由だから。
悠花は、ゆっくりとスマホを取り出し、
刹那にメッセージを送った。
私も一緒に行く。
一人で向き合わなくていい。
すぐに、短い返信が返ってくる。
ありがとう。
心強いわ。
そのやり取りだけで、
悠花の胸は少し軽くなった。
同じ頃、
教授室では静かな会話が交わされていた。
「……凛子さんが、
直接動き始めましたか」
「はい。
学内演奏会の件で」
教授は、書類に目を落としながら言う。
「学長も、
これ以上は黙っていられないでしょう」
「……衝突は?」
「避けられませんね」
その言葉は、
重く、しかし淡々としていた。
夜。
紫苑は自室で、
譜面を整えていた。
机の端に、
学内演奏会の日付が書かれた紙。
視線を落とすと、
ほんの一瞬だけ、
指が止まった。
(……私は、
あそこには立たない)
そう、心の中で繰り返す。
それが、
自分の選んだ道だと信じるために。
だが――
その選択が、
誰かの覚悟と正面からぶつかろうとしていることを、
紫苑はまだ知らない。
凛子が動き、
学長が動き、
悠花たちも、もう止まらない。
すべてが、
ひとつの舞台へと収束し始めていた。
指定された日時は、
学内演奏会の三日前だった。
場所は、学生課奥の小さな応接室。
必要最低限の机と椅子、
壁には大学の理念が額装されている。
刹那は一人で、その部屋に入った。
悠花は一緒にと言ったが、
刹那は首を横に振った。
「これは……
私が向き合うべき場面だから」
その言葉に、
悠花は何も言えなかった。
応接室には、すでに一人の女性が座っていた。
背筋を伸ばし、
完璧に整えられた所作。
碧山凛子。
世界的ピアニストとしての威厳が、
部屋の空気そのものを支配していた。
「……はじめまして、白鷺さん。」
凛子は穏やかな声で言った。
「娘の紫苑が、
あなた方と親しくしていると聞いています」
「はい」
刹那は短く答え、深く一礼する。
凛子は一瞬、刹那を観察するように見つめた。
「おかけになってください」
「失礼します」
凛子に促されて刹那は向かいに座った。
「あなた、ベースの方でしたね」
「ええ。
そして……ボーカルも務めています」
その瞬間、
凛子の眉が、ほんのわずかに動いた。
「……ボーカル?」
刹那は、はっきりと頷いた。
「はい。
今回の演奏会では」
凛子は、少しだけ溜め息をついた。
「なるほど。
やはり……ロックは、そういう方向へ行きますのね」
その声音には、
隠そうともしない軽蔑があった。
「はっきり申し上げます」
凛子は、静かに、しかし断定的に言った。
「ロックという音楽は、
感情に身を委ねすぎています」
「構造が粗く、
理性よりも衝動が先に立つ」
「……野蛮、と言われる理由です」
刹那は、息を吸った。
「ですが……
構造があるロックもあります」
「緻密で、
計算されたアンサンブルも」
凛子は、冷ややかに微笑んだ。
「それは“例外”です」
「そして例外に、
人生を賭けるべきではありません」
言葉は柔らかい。
だが、逃げ道はない。
「……私の母は、
海外でボーカリストをしています」
刹那は、静かに切り出した。
「ジャンルは違いますが、
“声”で生きてきた人です」
凛子は、少し意外そうに目を細めた。
「そう。
ですが……それと、娘の進路は別です」
「紫苑は、
世界に通用するクラシックの才能を持っています」
そう言ってクラシックに対する資料や、今後の方針の資料を刹那の前に並べた。
「今の紫苑にいちいち“遊び”に費やす理由はありません」
その言葉に、
刹那の胸が強く締め付けられた。
「……紫苑にとって、
音楽は“遊び”ではありません」
刹那の声は、震えていなかった。
「誰よりも真剣で、
誰よりも考えて音を出している」
「それは……
ロックでも、同じです」
凛子は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言う。
「あなたは、
娘の“何”を知っているの?」
その問いは、鋭かった。
刹那は、一瞬だけ迷ったあと、答えた。
「……音を出すときの、
呼吸の癖」
「音が重なった瞬間、
一番先に微笑むこと」
「そして……
誰かの音を、
自分の音より大切にする人だということ」
凛子の目が、
わずかに揺れた。
だが、すぐに表情は戻る。
「……それでも」
「娘は、
私の元で学ぶべきです」
「学長も、
その点は理解しています」
刹那は、はっきりと悟った。
(この人は……
折れない)
(説得じゃ、足りない)
「最後に、一つだけ」
凛子は、静かに言った。
「学内演奏会で、
もし娘の進路に“悪影響”があると判断されれば……」
一拍。
「大学として、
相応の対応を取っていただくことになります」
凛子は、それ以上何も言わなかった。
だが、
言葉以上に、すべてが伝わっていた。
応接室を出た刹那は、
廊下で深く息を吐いた。
足が、わずかに震える。
(……怖かった)
(でも……
言うべきことは、言った)
そのとき、
廊下の先に、悠花の姿が見えた。
「刹那……!」
悠花は駆け寄り、
何も聞かずに、ただ隣に立つ。
「……ありがとう」
刹那は、それだけ言った。
十分だった。
同じ時間。
紫苑は、別棟の廊下を歩いていた。
ふと、
誰かが話している声が聞こえる。
「……白鷺さん、
凛子さんと面談したらしいよ」
紫苑の足が、
一瞬だけ止まった。
(……刹那が?)
だが、
すぐに歩き出す。
(知らなくていい)
(私は……
決めたんだから)
そう自分に言い聞かせながら。
しかし――
胸の奥で、
小さな波紋が広がっていた。
話し合いは終わった。
けれど、
問題は何ひとつ解決していない。
むしろ、
譲れない線が、はっきりと引かれただけだった。
翌日。
大学構内は、いつもより静かだった。
学内演奏会を控え、
誰もが水面下で準備を進めている。
その静けさの中で――
一通の文書が、悠花たちのもとに届いた。
件名:学内演奏会に関する確認事項
学内演奏会は、本学の教育理念に基づき、
学生の健全な成長と進路形成を目的として実施されます。
演奏内容および活動が、
他学生の進路や学業に著しい影響を与える場合、
大学として相応の判断を行う可能性があります。
「……ついに、来たね」
悠花が低く呟く。
「“お願い”じゃない。
“通告”だわ」
刹那は冷静に言った。
「……名前は、出てない……」
希愛が文面を見つめる。
「でも……
誰のことかは、わかる」
三人の間に、重い沈黙が落ちた。
その日の午後。
刹那は、担当教授から呼び止められた。
「学長が、
君たちの演奏を正式に“確認”する」
「……確認、ですか」
「評価ではない。
だが……裁定に近い」
教授は、視線を逸らしながら続けた。
「彼は、
凛子さんの意見を無視できる立場ではない」
「ですが……
無条件で従う人でもない」
その言葉は、
希望とも警告とも取れた。
「一つだけ、覚えておいてほしい」
教授は、はっきり言った。
「学長は、
“言葉”より“音”を見る」
刹那は、静かに頷いた。
同じ頃。
紫苑は、特別レッスン室で
一人、鍵盤に向かっていた。
今日も完璧な演奏。
教師からの評価も高い。
「……素晴らしい集中力ですね」
「ありがとうございます」
そう答えながらも、
紫苑の胸は、どこか落ち着かなかった。
(……どうして)
演奏を終え、
ふと、廊下の掲示板が目に入る。
学内演奏会 — 学長出席予定
その文字を見た瞬間、
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
(……行かない)
(私は、関係ない)
そう思うはずなのに――
指先が、わずかに震えた。
(……刹那が、歌う)
噂で聞いた、その事実。
自分の知らないところで、
音楽が、動いている。
その感覚が、
紫苑の心を乱した。
夕方。
練習棟の外で、三人は集まっていた。
「……学長は、
もう逃がしてくれないね」
悠花が言う。
「ええ。
でも……それでいい」
刹那は、はっきり答えた。
「音で判断されるなら、
正面から行く」
「……紫苑さん……
聴いてくれるかな……」
希愛が小さく言う。
悠花は、空を見上げた。
「聴かなくてもいい」
二人が驚いたように悠花を見る。
「でも……
届く音にする」
「紫苑が選んだ道を、
否定しない」
「その上で……
“一緒に音を出す選択肢”があることだけ、
示したい」
刹那は、ゆっくりと頷いた。
「……それが、私たちのやり方ね」
夜。
紫苑は、自室で
静かに譜面を閉じた。
その脇に、
古いノートがある。
高校時代、
四人で音を書き留めたページ。
指でなぞりながら、
紫苑は小さく息を吐いた。
(……私は、間違ってない)
そう言い聞かせる。
けれど、
胸の奥の違和感は、
消えてはくれなかった。
学長が動き、
凛子が圧をかけ、
悠花たちは引かない。
そして紫苑は、
初めて“自分の選択”に、
小さな疑問を抱き始めていた。
その揺らぎは、
やがて――
大きな決断へと繋がっていく。




