30話「静かな包囲網」
立場、才能、影響力。
大学という場所では、それらが静かに、しかし確実に力を持ちます。
この話では、
「音楽でしか届かないもの」があること、
そして“声”という選択肢が浮かび上がります。
まだ四人は揃っていません。
それでも、歯車は動き始めました。
朝の大学構内は、いつもと変わらない風景だった。
行き交う学生、開く教室の扉、聞こえてくる楽器の音。
けれど――
悠花・刹那・希愛の三人にとって、その空気は重かった。
(紫苑……今、何してるんだろう)
誰も口には出さない。
けれど同じ名前が、同時に胸をよぎっていた。
一方その頃。
紫苑は、大学とは別棟にある
学長直轄の特別レッスン室にいた。
高い天井。
響きすぎるほど整えられた音響。
そこには、最低限の家具とグランドピアノだけ。
「……では、もう一度」
講師の声に、紫苑は静かに頷く。
指が鍵盤に触れた瞬間、
澄んだ音が空間を満たした。
正確で、無駄がなく、完成度の高い演奏。
――完璧。
だが、その音には
“迷い”も“揺らぎ”もなかった。
(これでいい……
これが、求められている音……)
紫苑は心の中でそう繰り返す。
(私が余計な感情を持たなければ……
誰も傷つかない)
演奏を終えると、
講師は満足そうに頷いた。
「素晴らしい。
学長も、きっと納得されるでしょう」
その言葉に、紫苑の胸が一瞬だけ締め付けられた。
(……学長)
名前を聞くだけで、
“逃げ場がなくなる”感覚があった。
同じ時間。
悠花・刹那・希愛の三人は、学生課の前に立っていた。
「……いきなり学長は、無理だよね」
悠花が苦笑気味に言う。
「当然よ。
学長は“学生が直接会える存在”じゃない」
刹那は冷静だった。
「紹介か何かがないと……無理……」
希愛がぽつりと呟く。
三人は改めて、
自分たちが“ただの学生”であることを思い知らされる。
(凛子さんは、世界的ピアニスト)
(学長は、その凛子さんと旧知の仲)
(私たちは……無名の学生)
立場の差は、あまりにも大きかった。
沈黙を破ったのは、刹那だった。
「……でも、おかしいわ」
「え?」
悠花と希愛が同時に顔を向ける。
「紫苑が、ここまで“従順”になるなんて。
あの子は……命令されて音楽をするタイプじゃない」
「……うん」
悠花も頷く。
「紫苑は……
納得しないと動かない人だよ」
「それなのに今は……
“何も考えないように”してる」
刹那の目が細くなる。
「それって……
納得じゃなくて、“諦め”よ」
その言葉が、三人の胸に重く落ちた。
学生課を離れたあと、
三人は食堂の端で遅めの昼食をとっていた。
すると、後ろの席から声が聞こえてくる。
「ねえ、碧山紫苑って知ってる?」
「学長のお気に入りでしょ?」
「クラシック科の“切り札”らしいよ」
希愛の手が、箸を持ったまま止まる。
「……聞きたくない……」
「でも、聞こえちゃうわね」
刹那が低く言う。
「学長が直接動いてるってことは……
もう“個人の問題”じゃなくなってる」
「紫苑……
大学の“象徴”にされかけてる……」
悠花はぎゅっと唇を噛んだ。
(紫苑……
そんな役目、望んでない……)
その頃、碧山凛子は
自宅の書斎で学長に一通のメールを送っていた。
先日の件、ありがとうございます。
紫苑は現在、余計な迷いを断ち切り
クラシックに集中しております。
一部の学生が、
彼女の進路に干渉しているようですが
学業に支障が出るようでしたら
ご判断はお任せします。
送信。
凛子は静かに紅茶を口に運んだ。
「……優しいだけでは、
一流にはなれないのよ、紫苑」
その瞳には、
一切の迷いがなかった。
同じ頃。
悠花はスマホを見つめていた。
「……ねえ、刹那。希愛」
「何?」
「どうしたの……?」
「ともちゃんが言ってた。
“学長に近いのは、教授だけじゃない”って」
二人が顔を上げる。
「“学長は、学生の演奏を直接聴く場には顔を出す”って」
「演奏……?」
希愛の声がわずかに弾む。
「うん。
公開レッスン、学内演奏会、推薦審査……」
刹那の目が、鋭く光った。
「……音楽で、会いに行く」
悠花は、強く頷いた。
「紫苑が……
音楽で閉じ込められるなら……
私たちは、音楽で連れ戻す」
まだ道は見えない。
けれど――
完全に塞がれてはいなかった。
昼下がりのキャンパス。
食堂を抜けた三人は、
練習棟の外階段に腰を下ろしていた。
誰も楽器を持っていない。
それでも、ここに集まると自然と“音楽の話”になる。
「……学内演奏会、来月あるよね」
刹那がぽつりと口を開いた。
「うん。
専攻ごとの公開発表みたいなやつ」
悠花が頷く。
「学長……来る、かな……?」
希愛が不安そうに聞く。
「来る可能性は高いわ」
刹那は静かに言った。
「特に“将来有望な学生”の演奏には、
必ず目を通すって聞いたことがある」
三人の脳裏に、
自然と紫苑の姿が浮かんだ。
(学長が来る=紫苑を見る)
(紫苑を見る=凛子さんの意向が絡む)
「……だったら」
悠花が言葉を選びながら続ける。
「私たちも……
“音楽”で、そこに立てないかな」
刹那がゆっくり顔を上げた。
「……本気?」
「うん。
学長が“音”を見る人なら……
言葉じゃなくて、音で伝えたい」
希愛が目を見開く。
「悠花……
それって……」
「紫苑を取り戻すため、だよ」
その言葉は、静かだけど迷いがなかった。
しばらく沈黙が流れたあと、
刹那がゆっくり息を吸った。
「……私が、歌う」
悠花と希愛が同時に刹那を見る。
「刹那……」
「中途半端な気持ちじゃ、無理なのはわかってる。
でも……今の状況で、
学長に“私たちの音楽”を届けるなら……」
刹那は胸に手を当てた。
「声が一番、早い」
その声には、揺らぎがなかった。
(刹那……
迷ってない……)
「でも……
刹那、ボーカルって……」
悠花が少し心配そうに言う。
「ええ。
ベースを弾きながら、歌う」
「……できるの?」
希愛が小さく聞く。
刹那は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「家に帰れば……
歌を見てくれる人がいるわ」
――母。
海外では名の知られたボーカリスト。
厳しいけれど、
“声を持つ者”の覚悟を誰よりも知っている人。
「本気でやるなら……
私は逃げない」
その言葉に、
悠花の胸が熱くなった。
「……私も、歌うよ」
悠花が、少し照れたように言った。
「え……?」
希愛が驚く。
「メインは刹那。
私は……サブでいい」
悠花は指で軽く比率を作る。
「7:3くらい。
刹那の声が軸で、
私の声は“寄り添う感じ”」
刹那が一瞬、目を見開き、
それから小さく息を吐いた。
「……悠花らしいわね」
「でしょ?」
悠花は笑う。
「私が前に出すぎると、
きっと音が散る。
でも……刹那の声を支えるなら、できる」
「希愛は……?」
刹那が聞く。
希愛は少し考えてから、
はっきりと答えた。
「……リズムで、支える。
歌が揺れないように……
体幹、任せて」
その言葉は短いけれど、
確かな自信があった。
(希愛……
リズムだけは……誰よりも強い)
同じ頃。
紫苑は再び特別レッスン室にいた。
鍵盤に触れる指は、
正確で、速く、迷いがない。
けれど――
音は、どこか“無色”だった。
「……感情表現を、もう少し抑えて」
講師の言葉に、紫苑は素直に頷く。
「はい」
(感情は……
いらない)
(感情があるから、
迷いが生まれる)
そう言い聞かせながら、
紫苑は“自分の音”を削っていく。
――その音が、
誰かと一緒に奏でることを拒むように。
(これで……いい)
そう思おうとすればするほど、
胸の奥が、静かに軋んだ。
夕方。
三人は練習棟の前で立ち止まっていた。
「……じゃあ」
刹那が言う。
「学内演奏会、出る方向で考えましょう」
「うん」
「……覚悟、いるね」
「でも……
紫苑さんのためなら……」
三人の視線が、同じ方向を向いた。
まだ紫苑はいない。
まだ四人ではない。
それでも――
音楽は、動き始めていた。
夜。
刹那は自宅のスタジオに立っていた。
天井の低い、防音された部屋。
長年使い込まれたマイクと譜面台。
ここは――彼女にとって、逃げ場であり、原点でもある。
「……お母様」
刹那が声をかけると、
奥のソファから一人の女性が顔を上げた。
淡い色の髪、鋭さと優しさを併せ持つ眼差し。
海外では名の知られたボーカリスト。
そして、刹那の母。
「どうしたの?
今日は少し、声が重たいわね」
その一言で、刹那は苦笑した。
(……やっぱり、すぐ見抜かれる)
「……歌います」
「え?」
「大学で……
正式に、歌います。
メインボーカルとして」
一瞬の沈黙。
けれど、それは驚きではなかった。
次の瞬間――
母は、静かに微笑んだ。
「……そう」
「……え?」
「あなたが歌う日は、
いつか来ると思っていたわ」
刹那の胸が、少しだけ緩む。
「怖い?」
「……少し」
「当然よ。
でもね――」
母は立ち上がり、
刹那の前に立った。
「あなたの声は、
“逃げるための声”じゃない。
“誰かに届くための声”よ」
その言葉が、胸に深く落ちた。
「厳しくするわよ?」
「……はい」
「逃げ道は作らない」
「……それでいいです」
母は満足そうに頷いた。
「じゃあ、始めましょう。
まずは……呼吸から」
スタジオに、静かな夜の音が流れ始めた。
同じ頃。
碧山凛子は、学長との通話を終えたところだった。
「……はい。
娘は順調です」
電話を切り、
凛子は窓の外を見つめる。
『一部の学生が、
まだ紫苑に干渉しているようですが……
学業に支障が出るようなら、
適切な処置をお願いすることになります』
凛子の声は、淡々としていた。
『……退学、ですか?』
学長の低い声が、電話越しに響いたのを
凛子は確かに聞いていた。
『そこまでしなくても……
と、私は思っていますけれど』
凛子は小さく笑った。
『“必要なら”、です。
才能を守るためなら……』
電話は切れた。
凛子の目には、
一切の迷いがなかった。
「紫苑は……
私が守る」
それが、彼女なりの愛だった。
翌日。
大学内の掲示板に、一枚の紙が貼られた。
《学内演奏会 開催のお知らせ》
— 学長出席予定 —
その文字を見た瞬間、
悠花・刹那・希愛の足が止まる。
「……来るんだ」
悠花が息を呑む。
「逃げ場……ないわね」
刹那は静かに言った。
「……でも……
チャンスでもある……」
希愛が小さく続ける。
三人は視線を交わした。
(音楽で……会いに行く)
(紫苑に届く音を……)
(学長にも……)
一方、紫苑は自室で
譜面を静かに閉じていた。
机の上には、
クラシック曲の楽譜が整然と並ぶ。
その隙間に――
一枚だけ、折り畳まれた紙。
そこには、
かつて四人で書き込んだコード進行の走り書き。
紫苑はそれを見つめ、
そっと引き出しの奥にしまった。
「……私は……」
声は、震えなかった。
「守るだけで、いい」
そう言い聞かせて、
鍵盤に向かう。
誰とも音を合わせない。
誰にも届かせない。
それが――
紫苑の選んだ“強さ”だった。
夜の大学。
三人は練習棟の前で立ち止まっていた。
「……学内演奏会、出よう」
悠花が言う。
「ええ。
正面から行く」
刹那が頷く。
「……紫苑さんに……
届くように……」
希愛も静かに言った。
音楽が、
静かに戦いの形を取り始める。
誰かを傷つけるためじゃない。
誰かを救うための音。
そしてその音は――
学長の耳へ、
凛子の心へ、
紫苑の閉じた心へと
向かっていく。
第30話まで読んでくださり、ありがとうございます。
刹那が歌うことを選び、
悠花は寄り添い、
希愛はリズムで支える。
それぞれの役割が、少しずつ定まり始めました。
一方で、紫苑は自ら音を閉ざし、
凛子は静かに圧を強めていきます。
次話からは、
学内演奏会を軸に物語が大きく動き始めます。




