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第3話 白鷺刹那  幼少期編

こんにちは、msnoです。

今回の第3話では、白鷺刹那の幼少期から中学時代までを描いています。

音楽一家に育った刹那と、彼女の隣にいつもいた幼なじみ・希愛。

「当たり前に続く」と信じていた日々が、少しずつ変化していく様子を丁寧に追ってみました。

刹那の繊細な心の動きや、希愛とのセッションの楽しさを感じていただければ嬉しいです。

白鷺家には、家の間取りと不釣り合いなほど分厚い扉が一枚あった。

 取っ手を引くと、内側の空気が少し甘い。木と革、金属と埃が混ざった匂い。天井近くには小さなパーライトが二つ。壁には無数のポスター。床にはケーブルが這い、角にはアンプが無言で構えている。

 家族はそれを「音楽部屋」と呼び、近所の子どもたちは密かに「ライブハウス」と呼んだ。


 刹那はそこで育った。

 父はギタリスト、母はボーカリスト。母はロシア出身で、銀糸のような髪を陽に透かすたび、幼い刹那は目を細めた。母が幼い頃に歌ってくれた子守歌は、言葉の意味は半分も分からないのに、雪明かりのような冷たさと温かさを同時に持っていた。

 鏡の前で髪を結ってくれる母の横顔には、ステージの光の名残がいつも漂っている。

 刹那の瞳は、母譲りのライトブルーだった。


「せっちゃん、今日も音鳴らしていい?」

 幼稚園のころから当たり前のように部屋へ来ていた黒羽希愛――のあが、扉の隙間から顔を覗かせる。

「もちろん。のあと一緒にやるほうが、絶対楽しいもの」


 最初は何もかもが「音のごっこ遊び」だった。

 刹那は小さな手でギターの弦をはじき、別の日には短いスケールでベースの弦を鳴らす。指板の並びは似ている。押さえる場所が変われば、世界も変わる。その単純さが心地よかった。

 のあはギターにもベースにも挑戦した。けれど指は言うことを聞かず、濁った音に眉をひそめる。

「むずかしい……」

「最初は、わたしもそうだったの」

 刹那は笑って肩に手を置く。慰めではなく、本当にそう思っていた。


 ある日、母がスティックを二本手渡した。

「のあ、これを握ってみて。ね、こう、手首で」

 のあがスネアを一打。乾いた音が部屋に跳ねる。もう一打。今度はハイハットが返事をする。

 刹那がベースを抱え、無意識にリズムへ低音を合わせた。

 低い音と皮の鳴りが絡まった瞬間、ふたりは同時に顔を上げて笑った。

「すごい、合ってる」

「ほんと? わたし、できる?」

「のあ、リズム、ぜんぜんぶれない。ねえ、もう一回」

 その日を境に、ふたりの役割は自然と決まっていった。

 刹那は、ギターもベースも「好き」だったけれど、のあと一緒に鳴らすときだけは、ベースに手が伸びた。ドン、タ、ドン――のあの心臓みたいに正確なビートのそばが、いちばん落ち着いた。

挿絵(By みてみん)


 小学校に上がっても、放課後の行き先はだいたい決まっている。宿題を済ませたら、音楽部屋。

「今日もやろ」

「うん。のあ、カウント任せた」

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

 ミスがあれば笑い、できたらもっと笑う。ときどき、父母が入ってきて低い位置から頷く。

「二人とも、いい顔だ」

 小さな手の鳴らす音は、正確さとも上手さとも少し違う。でも、そこには確かに音楽があった。


 春が三度過ぎ、ランドセルが少し軽くなったころ、現実はひとつの分岐点を持って現れた。

 中学進学。

 刹那は、両親の薦めで音楽教育に力を入れる私立中学の受験を勧められた。音大付属ほど尖ってはいないが、部活動やカリキュラムに音楽の時間と設備が整っている。

 のあは地元の公立中学に進む予定だった。

「いっしょに行けないの?」

 声に出したのは、のあのほうが先だった。

「……ごめん」

 本当は、刹那も同じ言葉を喉で転がしていた。並んで歩く風景が、ここから先も続くと信じたかった。けれど現実は、用意された道が二本に分かれている。

「土日は、今まで通り、ここでやれるでしょ」

 笑ってみせると、のあも笑った。

 笑い方は、少しだけ違っていた。


 私立中学の校門は高く、敷地は広く、体操着の色までどこか「整って」いた。

 適性検査、面接、合格発表。四角い掲示板に自分の番号がある光景を、刹那は遠くの映画みたいに眺めた。

 入学式、最初のホームルーム、クラスのざわめき。

 軽音部の部室は思っていたより狭く、古いソファからは埃っぽい匂いがした。先輩の手の動きは速く、アンプは小さいのに爆発したような音が出る。

 学校の中にもうひとつの小さなライブハウスができた。そんな気がした。


 のあは、そのころ公立中の吹奏楽部に入ったらしい。

「木管、むずかしい。全然、息が続かない」

 電話越しの声は、笑っているのに少し尖っている。

「金管は?」

「もっとだめ。音は出るんだけど、ずっとは出ない」

「パーカッションは?」

「……三人いるから、もう要らないって」

 沈黙。刹那の手は無意識に弦の上で止まった。

 のあがドラムを叩くときの、あの強くて真っ直ぐな音を思い出す。要らない? そんなはずない。

「のあ、うちに来れる日は?」

「土曜は行ける。日曜は家でごはんだから……」

「じゃあ、土曜はぜったいやろ。ベース、チューニングして待ってる」

 のあはふふ、と息を混ぜて笑った。電話のむこうの笑い声は、なぜか遠く感じた。


 土曜日。

 音楽部屋の扉を開けると、のあが立っている。スティックケースを胸に抱えて、靴下のままフロアタムに近づく。

 刹那はベースを肩にかけ、ヘッドを軽く叩いてから、のあを見る。

「カウント、よろしく」

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

 ドン、タ、ドン、タ。ハイハットがチッチッと刻み、スネアが抜ける。刹那は四つの弦のうち、いちばん太い弦をやわらかく弾く。

 夏が来ても秋が来ても、ふたりの土曜は、ほとんどその音でできていた。

 私立中の生活は忙しい。課題、アンサンブル、発表。のあのほうは、部活をやめて図書室で過ごす時間が増えたと聞いた。

 「本って、すごい。声、出さなくても世界に入れる」

 のあの言葉は、どこか刹那の胸に刺さった。

 ――声を出さない世界。

 のあが必要としているのは、そこなのかもしれない。ふと、そんな不安が頭をよぎる。ベースの音が、いつもより薄く聞こえた。


 中学三年の夏。蝉の声を、窓のガラスが少し震わせている。

 音楽部屋のエアコンは古く、設定温度を下げても涼しさは気休め程度だった。汗ばむ首筋、指板に残る指の跡。

 のあは、スティックをケースにしまったまま、床に座っていた。

「……どうしたの?」

 刹那が問うと、のあはうつむいたまま、膝に顎をのせた。

「三者面談でね。先生に言われた。今のままだと、高校、厳しいって」

 刹那は目を瞬いた。

「だから、塾に通うことになった。しばらく、土日も。……だから、しばらく、音楽、やめる」

 音楽、やめる――。

 部屋の空気が、少しだけ重くなる。アンプの中で眠っていた熱が、途端に近く感じられた。


 本当は、その一言が落ちる前から分かっていた。のあの指先がスティックに触れない日が増えていたこと。電話の声が短くなったこと。

 それでも、刹那は理解と否定の間でもがいた。

 言葉は喉の奥で膨らみ、その重みだけが増えていく。

 ――やめないで。

 その一言が、舌の先で揺れた。

 のあは待っているのかもしれない。目を伏せた横顔は、決意のかたちをしているのに、どこか救いを探している。


「……そう。がんばって」

 口から出たのは、それだった。

 言った瞬間に、心臓のあたりが空洞になった。

 のあの肩が、ほんの少しだけ下がった。

「うん」

 短い返事。笑っているようで、笑っていない。

 ベースの弦が、指の下で冷たくなった気がした。

 やめないで、が言えなかった。

 ――言ったら、のあの努力を否定することになる。

 ――言ったら、わたしのわがままになる。

 正しい言葉は、いつも優しい顔をしている。でも、ときどき刃物みたいに鋭い。


 その日、ふたりは音を鳴らさなかった。

 アンプの電源は赤い点を灯したまま、最後まで沈黙していた。

 のあは短く手を振り、扉の向こうへ消えた。

 刹那はベースを床に置き、スティックの転がる音をぼんやりと聞いた。

 「止められなかった」

 その言葉が胸の内側に刺さり、抜こうとすると余計に痛んだ。


 それからの半年は、決壊した川の水位がゆっくり下がっていくのを見ているみたいだった。

 電話は減り、メッセージは短くなった。

 「勉強、どう?」

 「ぼちぼち」

 「風邪引かないでね」

 「うん」

 会わない言葉は、厚みを持たない。

 学校ではベースがうまくなっていく。同級生と組んだセッションは評価され、先輩からも頼られるようになった。

 褒め言葉が増えるほど、音は軽くなる。低音のはずのベースが、なぜか浮く。理由は分かっていた。

 のあのドラムがない。

 自分にしか分からないタイミングで、スネアが入るはずなのに、入らない。

 四分音符は正しいのに、まるで外れているように感じる瞬間がある。

 拍の隙間に、名前を呼ぶ癖みたいに、のあの気配を探してしまう。


 冬が来た。

 のあから「受かった」とだけ届いた。

 刹那は少し長い返信を打っては消し、短い言葉に変えた。

 「おめでとう」

 送信したと同時に、再び空洞が広がった。

 ――おめでとう。

 正しい。正しいけれど、浅い。

 伝えるべきは、ほんとは別のものだと知っているのに、言葉はいつも遠回りする。


 高校に上がってから、ふたりの家の距離は変わらないのに、歩数は増えた。

 音楽部屋の扉は同じ重さで閉まり、アンプは相変わらず赤い点を灯す。

 刹那はときどき、わざとギターを手に取った。

 幼いころは、これも「好き」だった。コードを鳴らせば、部屋は一気に明るくなる。

 けれど、ストロークの最中に、無意識に低音を探してしまう。

 ――支えたい音がないと、わたしの音は宙に浮く。

 その感覚は、正直に言えば、怖かった。


 ある夜、母がロシア語で短い詩を口ずさみ、最後だけ日本語に変えた。

「ねえ、刹那。音楽は、誰かと分け合うと強くなるの」

「ひとりで強い音も、あるよ」

「あるわ。でも、あなたが選んできたのは、ずっと『誰かのそば』の音でしょう?」

 ライトブルーの瞳を覗き込みながら、母は笑う。

 幼いころ、のあのスネアに合わせて弾いた最初の四分音符が蘇る。

 ――わたしは、誰かのそばで鳴りたい。

 その「誰か」は、今は傍にいない。

 けれど、音は繋がる。あの日の音は消えていない。

 そう思えた夜、刹那は久しぶりにぐっすりと眠った。


 春休みの終わり、鏡の前で髪を結びながら、刹那はベースのストラップの長さをほんの少しだけ短くした。

 床から上がってくる低音が、身体に近づく。

 「わたしは低音で歩く」

 小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかったが、はっきりと胸の奥で響いた。


 この先、彼女はギターをやめはしない。

 でも、選ぶ。

 のあと一緒に鳴らしたときに見つけた居場所――あの低音の道を。

 そして、まだ見ぬ誰かが、その選択を決定的なものにする。

 ギターを高らかに鳴らし、笑顔で観客を煽る誰か。

 それは、もうすぐ出会うことになる。

 そのとき、刹那ははっきりと気づくだろう。

 ――自分は、誰かの光を支える影ではなく、低音の背骨なのだと。


 分厚い扉をそっと閉め、刹那はヘッドのネジを指先で確かめた。

 赤い点が灯る。

 四拍目のほんの少し後ろ――のあがいつも遊んでいた、その「間」を胸に思い浮かべ、最初の音を置いた。

 部屋は、低く、確かに、揺れた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

刹那は強気でクールに見えますが、実は幼い頃から「希愛と一緒に音楽をやりたい」という想いを抱き続けています。

しかし中学の終わり、音楽をやめる希愛とのすれ違いが、彼女に大きな影を落としました。

この出来事が大学時代の再会にどう繋がっていくのか、今後の展開を楽しみにしていただければ幸いです。


次回は第4話。希愛の幼少期編をお届けします。

刹那の視点から見えなかった希愛の孤独や葛藤が、物語の中で明らかになります。お楽しみに!

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