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第29話「ゆきちゃんの涙、学長の影」

紫苑は、静かに距離を取り、

悠花たちは、その違和感に気づきながらも踏み出せずにいました。


この話では、

「助けを求めない強さ」と

「気づいてしまった側の苦しさ」を描いています。

翌朝。

 大学のキャンパスは、初夏の光に満ちていた。

 けれど四人――悠花、刹那、希愛、ともちゃんの表情には、まだ影が残っていた。


(紫苑……あんな顔、してた……)


(“ごめんなさい”なんて、言わせたくなかった……)


 胸の奥の痛みは、少しも消えない。



 午前の必修授業。

 悠花たちが席についた頃、

 教室の後方から見慣れた姿が入ってきた。


 ――紫苑だった。


「……紫苑……来てる……」

 希愛が小さくつぶやく。


 紫苑は淡い色のワンピースに、

 クラシック専攻の学生がよく身に着ける細いカーディガンを羽織り、

 淡々と自分の席へ向かう。

挿絵(By みてみん)


 その歩みは静かで、整っていて、

 まるで“音を立てないように生きている”かのようだった。


 そして席に座ると、

 淡い微笑みを浮かべ、周囲に軽く会釈した。


(……紫苑)


 悠花は声をかけたい衝動を抑えた。

 昨日の表情が脳裏に焼き付いて離れない。


(あの笑顔……絶対に本当じゃない)


 しかし紫苑は三人のほうを一度も見なかった。


 教授が講義を始めても、

 紫苑の手は一切止まらなかった。


 黒板の内容を要点だけ綺麗にまとめ、

 姿勢も緩まない。


 けれど――


「……紫苑、ノート取るスピードが……いつもより速いわ」

 刹那が小声で言った。


「うん……目がちょっと、焦ってる……」

 希愛の声は不安で震えていた。


 紫苑の目は、本を読むように淡々としている。

 だけど、どこか“逃げている視線”だった。


(紫苑……授業に集中してるんじゃない……

 “考えないようにしてる”んだ……)


 悠花は胸が締めつけられた。



 授業の後半。

 教授が別の話題を挟んだ。


「ああ、そういえば……

 学長が来週からクラシック科の視察に来るそうだ」


 教室がざわつく。


「学長……?」

 悠花の胸がざわりと揺れた。


「そう。なんでも――

 “昔からの知り合いのお嬢さんの様子が気になる”とかなんとか」


 その瞬間。


 ノートを取っていた紫苑の指が、

 ピタリと止まり、力がわずかに入る。


「…………」


 そのわずかな“間”を悠花は見逃さなかった。


(紫苑……今、固まった……

 学長のこと……知ってる?

 それとも――

 お母さんとの関係を……?)



「学長は若い頃、海外でのクラシック研修に参加されていてね。

 その時の同期のひとりが……」


 教授は控えめに笑った。


「――有名ピアニスト・碧山凛子さんだったそうだ」


「!」


 教室がざわつく。

 でも――

 紫苑だけは、動かなかった。


 呼吸すら止めたように、

 静かに、静かに。


(紫苑……その話、絶対に知ってた……

 だから昨日……あんな顔して……)


 悠花の胸に不安が広がる。


(もし学長が凛子さん側についたら……

 私たち……紫苑を助けようとしても……

 大学にいられなくなる……?)


 刹那が小声でつぶやいた。


「まさか……学長まで関係しているなんて……」


「……退学……とか……

 そういうの……ないよね……?」

 希愛が怯えた声を漏らす。


「これ……紫苑、絶対に知ってて言えなかったやつだよ」


「え……?」


「“自分のせいで、誰かが大学にいられなくなる”

 ――紫苑がそれを恐れてる顔だった」


「……っ!」


 悠花は胸を殴られたような衝撃を受けた。


(紫苑……そこまで……

 自分を責めてたの……?)


 紫苑は、

 ひとりきりで抱えていたのだ。


 チャイムが鳴ると同時に、

 紫苑は席を立ち、淡々と帰り支度を始めた。


「紫苑!」

 悠花が呼ぼうとすると――


 紫苑は振り返らず、

 静かに頭だけ下げた。


「……失礼します」


 その声には、感情が乗っていなかった。


 そして、

 早歩きで廊下の先へ消えていった。



 教室の前で立ち尽くす三人。


「間違いないわ」

 刹那が震える声で言った。


「紫苑……“私たちのせいで大学にいられなくなるかも”って……

 そう思ってる顔をしてた」


「……だから……距離を置いて……

 私たちを守ろうとして……」


 希愛は手で口を押さえた。


「紫苑……そんなの……間違ってるよ……」


 悠花は静かに拳を握った。


「これ、もう“説得”とかのレベルじゃないよ。

 紫苑は――

 “自分の夢を全部捨ててでも、みんなを守ろうとしてる”」


「……!」


 悠花の呼吸が震えた。


(紫苑……

 そんなの……そんな道……

 絶対に違うよ……!)


 紫苑の本心を掴んだ三人の中で、

 何か大きなものが動き出していた――。



紫苑が授業後すぐに姿を消してしまった午後。

 悠花・刹那・希愛の三人は、

 大学裏の広い中庭にあるベンチへ腰を下ろしていた。


 爽やかな風が吹いているのに、

 三人の胸の中は不安の影でいっぱいだった。


「……紫苑、今日も話してくれなかったね」

 悠花が絞り出すように言う。


「“ごめんなさい”なんて……

 あんな顔で言ってほしくなかったわ」

 刹那の声は震えていた。


「紫苑……

 もう“自分だけで抱える”って決めてる顔だった……」

 希愛は指をぎゅっと握りしめる。


(どうして……

 どうして紫苑は、あんなに綺麗に“距離を置く”の……)


 刹那がふと、紫苑の座っていた席を思い返す。


「ねぇ悠花、希愛。

 今日の紫苑……授業の最後、震えてなかった?」


「……気づいた?」

 希愛が驚いた顔で少し首を上げる。


「うん。筆を持つ手が……一瞬だけ止まった」

「学長の話を教授がしたとき……だよね」


 三人とも確信していた。


「紫苑……学長のこと、知ってる」


「凛子さんと学長が昔からの知り合いって話……

 紫苑は“既にわかっていた”のね」

 刹那が眉を寄せる。


「だったら……私たちが紫苑を助けたら……

 迷惑になるかもしれないって思ったのかな……」

 希愛の声は弱かった。


「“私のせいで、みんなが大学にいられなくなるかも”」

 悠花がゆっくりと呟く。


「紫苑は……そう思わせられてたんだと思う」


 三人の胸が同時に痛んだ。


(紫苑……

 どうしてそこまで自分だけを犠牲にしようとするの……?)



 そのとき、悠花のスマホが震えた。


 画面にはともちゃんからのメッセージ。


《とも:紫苑の様子はどう?》


《悠花:今日も完璧に笑ってたけど、距離を置かれたよ》


《とも:だろうね。あの子は“覚悟を決めてるんだと思う》


 刹那が悠花の肩越しにのぞく。


「覚悟……?」


《とも:紫苑はね、自分の気持ちより“他人を守る方”を選ぶ子》

《とも:とくに自分が好きな人たちには絶対迷惑かけたくない》


「……紫苑……」

希愛の胸がまた締めつけられる。


《とも:でもね、紫苑の“助けて”はいつも声にならない》

《とも:だから、言葉がない時ほど助けてほしいって意味だよ》


 その言葉に三人は息を呑んだ。


(紫苑……

 昨日の“ごめんなさい”は……

 本当は“助けて”だったの……?)




 ふと中庭の向こうから、

 クラシック棟へ向かう学生たちの姿が見えた。


「……あれって、紫苑じゃない?」


 希愛が気づいた。


 紫苑が一人で歩いていた。

 姿勢は完璧。歩き方も静か。

 でもどこか“感情が抜けている”ような歩き方。


「紫苑っ……!」

 悠花が立ち上がろうとする。


 しかし刹那がそっと腕を掴んだ。


「悠花、待って。

 今の紫苑に無理に声をかけても……

 きっと“いつもの笑顔”で返されるだけよ」


「……っ……!!」


「紫苑が今閉じている扉は……

 私たちじゃなくて、“自分の心”よ」


 複雑すぎる紫苑の心理が、

 三人をためらわせる。


(それでも……紫苑……

 本当にそれでいいの……?)


 胸の痛みが増すばかりだった。


 そのとき、

 すぐそばを歩いていた別の学生二人の会話が耳に入った。


「ねぇ、聞いた?学長、来週クラシック科に入り浸るって」


「やっぱりあの“碧山凛子の娘”のためじゃない?」


「でしょ?なんかもう特別扱いって感じ」


「浅黄さんたち……巻き込まれないといいけどね」


 その一言で、

 三人は一斉に息を呑んだ。


「……今、なんて……?」

 悠花の心臓がまた痛んだ。


「私たち……学長に目をつけられてる可能性があるってこと?」

 刹那が顔を強ばらせる。


「……退学……」

 希愛が震える声で呟いた。


「凛子さんって……本当にそこまでやる人なの……?」

 悠花の声は震えていた。



「ねぇ……どうする……?」

 希愛が言う。


「紫苑が助けてって言わなくても……

 本当は助けてほしいって、気づいちゃったのに……

 どうしたらいいの……?」


「迷ってる時間は……

 もう残されていない気がするわ」

 刹那が小さく息を吐く。


 悠花はゆっくりと手を握りしめた。


「……学長に会いに行こう」


 二人が同時に顔を上げた。


「学長に……?」

「怖い……けど……」


「紫苑のことを変えられるのは……

 たぶん、大学側の人間だけだよ。

 一般学生の私たちじゃ……凛子さんに勝てない」


 その声には、

 昨日までの迷いがなかった。


「紫苑を一人にしないって……

 私、言ったから」


「悠花……」

 刹那の瞳にわずかな光が戻る。


「私も行くわ。

 紫苑のためなら、どんな相手でも向き合う」


「……私も……行く……

 紫苑の笑顔……取り戻したいから」


 三人の視線が重なった。



夕方。

 講義棟の影が長く伸び、

 校舎から出てくる学生たちの声が夕空に溶けていく。


 悠花、刹那、希愛の三人は

 大学正門の近くでゆきちゃんを待っていた。


 胸が苦しいまま、時間だけが過ぎる。




 やがて、通学路の向こうから、

 見慣れた髪型の女の子が小走りで近づいてきた。


「浅黄さん! 白鷺さん! 黒羽さん!」


「ゆきちゃん!」

 三人は同時に駆け寄る。


 ゆきちゃんは、昨日泣いた跡を隠すような

 強めの笑顔を浮かべていた。


「昨日は、本当にごめんね。

 ……紫苑の役に立てなかった」


「そんなことないよ!」

 悠花がすぐに首を振る。


「ゆきちゃんが行ったから、

 私たちは“状況”を理解できたんだよ」


「……ゆきさんが行かなかったら、

 たぶん私たち……動けなかった……」

 希愛も小さく言った。


 ゆきちゃんの目が潤み、ふっと笑みがこぼれる。


「ありがとう……

 紫苑ね、少しだけ……本音を漏らしてたの」


「本音……?」

 三人は一斉に息を飲む。



「昨日、紫苑に会ったの。

 昨日の夜呼び出しに応じてくれて、家の前じゃなくて、少し離れた場所で」


「紫苑に……?」

 希愛の目が少し大きくなる。


「うん。

 あの子ね、すごく綺麗な顔で言ったの」


 ゆきちゃんは目を伏せ、

 小さく紫苑の声を再現するように呟いた。


『――私は大丈夫です。

 だって、誰も傷つかないんですから。

 それでいいんです、ゆき。』


「……っ!」


 刹那が涙をこらえて拳を握った。


「紫苑……そんな……」


「続きがあるの」


 ゆきちゃんは深く息を吸った。


『ゆき。

 私がもし“助けて”って言ったら、

 きっと悠花達に迷惑がかかります。

 ……だから、言えません。』


 その瞬間――

 三人の胸に、鋭い痛みが走った。


(紫苑……

 本気で……自分を犠牲にしようとしてる……)


(“助けて”って言うこと自体が……

 誰かの未来を奪うって思い込んでるんだ……)


 ゆきちゃんは小さく震える声で続けた。


「紫苑、本当に……本当に泣きそうだった。

 でも涙は一粒もこぼさなかった。

 泣く資格なんてないって顔で……」


 希愛は両手で口を抑えた。


「紫苑……ひとりで……そんな……」


「だから……浅黄さんたち、頼んだよ」


 ゆきちゃんは三人を見つめる。


「紫苑を救えるのは……

 幼馴染の私じゃなくて、

 今、一緒に音楽をしてるあなたたちなんだよ」


 その言葉が、三人の胸に深く刺さる。



 そのときだった。


 大学の裏門のほうから、

 黒塗りの車がゆっくりと入ってきた。


「あれ……紫苑さんの家の車……?」

 希愛が気づく。


 助手席から運転手が降り、

 後部座席のドアを静かに開ける。


 そして――

 紫苑が現れた。


「紫苑!」

 悠花が思わず駆け出そうとする。


 だが、その足が止まった。


 紫苑の目が、どこにも焦点が合っていなかった。


 まるで――

 “感情をすべて削ぎ落とした人形”のように。


 歩き方、表情、手の動き、

 一切の乱れがなく、

 しかし“心の音”が消えていた。


「……っ」

 刹那の喉が詰まる。


「紫苑……限界……きてる……」

 希愛が小さく呟く。


(紫苑……自分の気持ち全部消して……

 機械みたいに振る舞って……

 それで……

 “私たちがに迷惑がかからないように”してるの……?)


 悠花の胸がきつく締め付けられた。



 紫苑を乗せた車が走り去った後、

 ふと職員棟の方から声が聞こえた。


「学長、来週の視察は“碧山凛子さんの件”でよろしいのですか?」


「……ああ。

 娘さんの進路が大学の評判に影響する可能性がある。

 早めに決着をつける必要があるだろう。」


「承知しました」


 三人の背筋が凍りついた。


(大学の評判……?

 紫苑を……管理しようとしてる?)


(凛子さんも学長も……

 紫苑を“大学の資産”みたいに扱ってる……?)


 悠花は震える手で拳を握った。


「……もう、決めた」


「悠花……?」

 刹那が顔を上げる。


「学長に会う。

 どうやってでも、直接話す。

 紫苑を……“誰かの道具”にさせない」


 その言葉は、

 静かな夕空の下で凛と響いた。


「私も行くわ。

 紫苑の人生は……紫苑自身のものよ」

 刹那の声が力を取り戻す。


「私も……

 紫苑の“本当の笑顔”取り戻したい……」

 希愛の決意は静かで強かった。


 三人の視線が重なり、

 覚悟が確かなものになる。


「まずは……学長に繋がる“糸”を探さなきゃね」

 刹那が冷静に言う。


「教授……学生課……クラシック科……

 どこかに、道があるはず」


「それを見つければ……

 紫苑を……助けられる……」


「うん……必ず」


 三人は夕暮れの中へ歩き出す。


その決意は、

紫苑が消してしまった“心の音”を取り戻すための

最初の一歩だった。

第29話までお読みいただき、ありがとうございます。


紫苑は弱くなったわけではなく、

むしろ「誰も傷つけないために選んだ道」を歩こうとしています。


ですがその強さは、

同時に、とても孤独なものでもあります。


次話からは、

悠花たちが“動く理由”を見つけていく章に入ります。

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