第28話「紫苑、静かな決別」
紫苑が“クラシックの道に戻る”と告げたあと、
四人の関係は大きく揺れ始めました。
紫苑は誰よりも強い。
誰よりも頑張る。
そして誰よりも――“助けて”と言えない。
だからこそ、
彼女が距離を置こうとした瞬間、
悠花たちは動けなくなってしまいます。
今回の第28話では、
そんな三人の迷いを断ち切るように、
紫苑の幼馴染である ともちゃん と ゆきちゃん が登場します。
幼稚園から高校まで紫苑を支えてきた二人だからこそ、
“紫苑が本心を隠していること”
“紫苑は助けを求められない子”
という事実を鋭く見抜く回です。
大学編の核心に踏み込む、ターニングポイントとなる一話です。
紫苑が母親に伴われて正門を去ってから数日。
大学では新緑の季節が訪れ、外階段のベンチには軽音サークルの学生たちが賑やかに練習している。
けれど――
悠花たち三人の気持ちは晴れなかった。
講義が終わった昼休み、
希愛がスマホの画面を見つめながら呟いた。
「……紫苑、返事……来てた」
「ほんと!?」
悠花が駆け寄る。
そこには短い文章だけが置かれていた。
『三人とも、ごめんなさい。
私はクラシックの道に専念します。』
たったそれだけの文。
だけど――紫苑らしく、どこまでも整った文面。
刹那は唇を噛む。
「……“できません”じゃなくて“しません”でもなくて、
“専念します”。
紫苑らしいわね。
何も言わないで……全部自分で決めてしまう」
「うん……」
悠花はスマホを握りしめた。
(紫苑……本当にそれでいいの……?
どうしてそんなに、淡々と距離を置けるの……?)
でも紫苑は、弱みを見せない。
泣いていても、その涙を隠す。
本音を言うようで言わない。
悠花たちは戸惑うばかりだった。
その日の午後、
紫苑は講義棟の廊下で知り合いの学生に声をかけられていた。
「碧山さん、最近大変そうだね。
いつも特別レッスンに行ってるって聞いたよ」
「ええ。母の繋がりもあって……
クラシックをきちんと学び直しているだけです」
紫苑は微笑む。
完璧に整った、隙のない笑顔。
「浅黄さんたちとは最近どうしてるの?」
「少し距離を置いています。
私には、今はクラシックの勉強が必要ですから」
淡々とした口調。
冷たいわけではないのに、どこか“扉を閉じた”声。
(紫苑……完全に、表では割り切ってる……)
物陰からその様子を見てしまった悠花は、胸がぎゅっと痛んだ。
「悠花……どうするの?」
「……わからない。
いつもの紫苑みたいに見えるのに……
本当は困ってる気もするし……」
「紫苑、助けてって言わないから……
どうしたらいいかわからない……」
希愛の声が震える。
夕方。
三人は沈んだ気持ちのまま大学を後にした。
「……今日はもう、紫苑に会えそうにないね」
「母親の監視が強すぎるわ」
そんな会話をしながら歩いていると――
駅まで続く並木道の向こうから聞き慣れた声がした。
「――あれ?悠花ちゃん?」
顔を上げると、
黒髪をふわっとゆるく巻いた女子が手を振っていた。
「ゆきちゃん!」
悠花の表情が一瞬で明るくなる。
その隣には――
鮮やかな感情を宿した目を持つ女の子。
口元に自信のある笑みを浮かべている。
「ともちゃんも来てたんだ!」
「久しいのう……旅人よ……」
腕を組み、無駄にかっこいいポーズを決めてる。
「ちょっと、とも!
もうその喋り方やめたんじゃなかったの?」
ゆきちゃんが呆れ気味に突っ込む。
「で、二人はなんでこっちに?」
「近くまで来たから、紫苑に会えるかと思って」
その言葉を聞いた瞬間、
悠花たちの表情が曇った。
「紫苑……最近、全然会えなくて」
「“クラシックの道に行く”って言われちゃって……」
「距離を置かれてる感じで……どうしたらいいか……」
話すほどに三人の声は弱々しくなる。
その時――
ともちゃんの表情が変わった。
「……クラシックの道に行く?
紫苑が……“自分でそう言った”の?」
「う、うん……」
「ええ、メッセージでも言ってたわ」
「落ち着いてる感じだった……」
ともちゃんは目を伏せ、
演劇部の頃に見せていた“役者の顔”になった。
「――それ、紫苑が本心で言った顔じゃないよ」
「えっ……?」
「紫苑ってさ……
“助けを求める時ほど表情が整う”子なの。
泣きそうなときほど、声色が真っすぐになる」
その言葉が三人の胸に刺さる。
ゆきちゃんも静かに言う。
「紫苑は……自分で決めたことでも、
誰かのためって思い込んでる時ほど、
まわりから距離を置くの」
「……!」
「高校の生徒会の時もそうだった。
“私がやらなきゃ”って頑張って……
誰にも弱音を見せないで、
一人でやろうと無理してた」
(紫苑……!)
ゆきちゃんの声音に、
悠花の胸がぎゅっと締めつけられた。
「だから言うね」
ゆきちゃんは真剣な顔で続けた。
「紫苑は“諦めて従ってる”だけ。
本心じゃないよ。
あの子は……助けてほしいんだよ、本当は」
そして――
「でも助けてって絶対に言わない子」
「……っ!」
ともちゃんが続ける。
「だから紫苑は……
“紫苑以外の誰か”が動かないとダメなんだよ」
淡い夕陽が五人の影を伸ばす。
「悠花ちゃん」
「刹那ちゃん」
「希愛ちゃん」
ともちゃんは、演劇部の舞台上のような真剣な声で言った。
「紫苑を救えるのは、あんたたち三人しかいないよ」
三人は言葉を失ったまま、
それでも確かに頷いた。
ともちゃんとゆきちゃんの言葉によって、
悠花たちの胸にまとわりついていた“迷い”が、一気に霧のように晴れていった。
(紫苑……助けを求めてるのに……言えないでいるんだ……)
気づいた瞬間、胸が締めつけられた。
「……私、行かなきゃ」
ゆきちゃんが夕陽の中で小さく呟いた。
「えっ、どこに……?」
「――紫苑の家に行く。
凛子さんと話をしてくる」
「ゆきちゃん!?」
刹那が驚いて声を上げる。
「あなた、あの人の性格知ってるでしょう?
ちょっとやそっとで話を聞く人じゃ――」
「それでも、行かないといけないの。
紫苑は……“自分からは絶対に助けを求めない子”だから」
ゆきちゃんは笑顔を作ろうとするが、唇が震えていた。
「高校の頃もそうだった。
生徒会で倒れそうになってたのに、
“忙しいだけです”って笑って……」
過去を思い出し、目が潤む。
「あのときはゆきがそばにいたからな」
ともちゃんが付け加えて言った。
「大学に入って、紫苑のそばに私がいない。
だから……今回の紫苑はもっと危ない」
三人は黙って聞いていた。
「紫苑を縛ってる張本人は……凛子さん。
あの人と話せるのは、私しかいないの」
その声には決して折れない強さがあった。
「……ゆき、ほんとに行くんだね」
「うん。ともは絶対ついて来ないで」
「えっ、なんで!? こんな時こそ私の圧倒的な説得力をもって――」
「凛子さんとあんたが会ったら、絶対喧嘩になる!」
「……否定はしない……!」
ともちゃんが肩を落とす。
「ともは……感情で正直に言うから。
紫苑を守るために怒るの、知ってる。でも……
あの人の前じゃ逆効果なの」
「……わかった。
私は、凛子さんとは絶対会わない。
でも――」
ともちゃんは顔を上げた。
「私もみんなと一緒に協力するから」
その言葉に、悠花たちは目頭が熱くなった。
「じゃあ……私たちは?」
悠花が刹那と希愛の手を見ながら言った。
ゆきちゃんは静かに答える。
「あなたたちは……紫苑のとこに行ってほしい」
「……!」
「紫苑の気持ちを動かせるのは……
幼馴染の私たちじゃなくて、
今一緒に音楽をしてきた三人だから」
その言葉が三人の胸にしみる。
ようやく――
“行かなきゃいけない場所”が明確になった。
「……行こう」
悠花が息を吸い込んだ。
「紫苑を一人にしないって……決めたんだもん」
刹那も深く頷く。
「それじゃあ行ってくるね」
「ゆきちゃん、気をつけてね」
悠花が言うと、
「うん。でも大丈夫。
……私、凛子さんに“気に入られてる”から」
ゆきちゃんは苦笑いを浮かべた。
「その“気に入られ方”……
紫苑が苦しんでる原因の一部でもあるんだけどね」
ともちゃんがぼそっと言い、
ゆきちゃんに小突かれた。
「ともは黙ってて!」
「はぁい!」
それでも二人の空気は優しかった。
別れ際、ゆきちゃんがふと話を挟んだ。
「そういえばね……聞いた話なんだけど」
「ん?」
「この大学の学長さん……
紫苑のお母さんと昔からの知り合いらしいよ」
「……っ!?」
三人の表情が一瞬固まる。
「昔紫苑の家で、えらい人たちと凛子さんが話してたの。“碧山凛子の娘なら、学長は放っておけないだろう”って」
嫌な予感が、三人の背筋をぞくりと走った。
「じゃあ……紫苑に何かあっても……
学長は凛子さん側に……?」
「わからない。
でも……“全部知ってる”可能性は高いと思う」
空気が一気に張りつめる。
「難しい話はいい。
でも、紫苑が苦しんでるなら、
あたしは“紫苑に会いたい”」
「私も……」
希愛がそっと隣に立つ。
「私たちも……行こう」
悠花が決意を言葉にした。
「紫苑の家に」
刹那も力強く続けた。
「紫苑の本心を聞くために」
夕暮れの帰り道。
ゆきちゃんは凛子の元へ。
ともちゃんは悠花たちと共に。
紫苑へと続く道を、それぞれが静かに歩み始めた。
(紫苑……待ってて)
(あなたの本当の気持ち……
絶対に私たちが見つけるから)
ゆきちゃんと別れたあと、
悠花、刹那、希愛、ともちゃんの四人は
大学前のバス停に向かって歩き出した。
「紫苑……まだ大学でレッスンしてるのかな」
悠花がつぶやく。
「学科の特別レッスンは今日の夕方まで続くはずだわ」
刹那が授業スケジュールを思い出す。
「紫苑……疲れてないといいけど……」
希愛の声がかすかに震えていた。
「大学に行こう。
紫苑に会って、もう一度ちゃんと話しないと」
悠花が言うと、三人は頷いた。
四人が大学に向かうのと同じ頃。
ゆきちゃんは紫苑の家の前に立っていた。
白い外壁と黒鉄の門。
どこか“家”というより“施設”のような雰囲気。
(紫苑……あなたのために……話してくるね)
意を決してインターホンを押すと、
すぐに凛子が姿を見せた。
「まあ、ゆきちゃん。久しぶりね」
「こんばんは……紫苑のことで、お話が……」
「紫苑は大学よ。特別レッスンが遅くまであるの。
あなたの顔を見たら喜ぶでしょうけれど……何かしら?」
凛子の笑顔は完璧だった。
装飾品のように整った声。
しかし、その奥に何か冷たいものが揺れる。
「紫苑……最近すごく疲れてるみたいで……
無理をしないようにって……伝えたくて」
「ありがとう。紫苑も喜ぶわ」
「あの、リフレッシュも必要だと思うので今度の土日、一緒に遊びに出かけてもいいですか?」
「ごめんね、あの子今が忙しい時期だからそのような時間ないのよ」
「でも浅黄さんたちに聞いたら、すごい疲れてそうだって聞いたので」
「……ふうん」
凛子は微笑のまま、目だけが冷たく光った。
「疲れるのは当たり前でしょう?
あの子は“クラシックのトップ”を目指しているのよ」
そのときゆきちゃんは、悠花達の名前を出したのは失敗だったと確信した。
「でも、それは……紫苑の望みなんですか?」
ゆきちゃんは勇気を振り絞って言った。
その瞬間。
凛子の表情から、音を立てて仮面が外れた。
「――あなた、紫苑を甘やかすつもり?」
「え……」
「ゆきちゃん。あなたは“良い友達”よ。
紫苑の集中を乱さないから気に入っていたの」
「……」
「でも今のあなたは……紫苑の足を引っ張る存在ね」
その声は、氷のように冷たい。
「紫苑が疲れていようと関係ないの。
才能のある子は進むだけ。立ち止まる理由なんてないわ」
「……そんな……」
「もう帰りなさい。
二度と紫苑を惑わせるようなことを言わないで」
ゆきちゃんは、
胸が締めつけられて立っていられなくなった。
「凛子さん……私は紫苑の、助けになりたくて……」
「“助け”なんて言葉、紫苑の人生には不要よ」
その言葉が、
ゆきちゃんの心を完全に折った。
「帰りなさい」
その一言で、玄関の空気は凍りついた。
ゆきちゃんは深く頭を下げて家を出た。
夕暮れの大学構内。
音大の練習棟からは、クラシックの旋律がこぼれ出ていた。
「紫苑、まだいるかな……」
「特別レッスン室は3階だよ」
四人は階段を駆け上がった。
しかし――
紫苑のいるはずの部屋は空だった。
「……いない……」
希愛が小声で呟く。
「レッスン、終わったのかしら……」
刹那は扉の前で立ち尽くす。
そのとき、同じクラスの学生が通りかかった。
「あ、浅黄さんたち。紫苑なら帰ったよ。
今日はいつもより早めに上がってた」
「どんな様子だった?」
悠花が食い気味で聞く。
「えっと……すごく淡々としてた。
“迎えが来ているので”って」
「迎え……?」
三人は顔を見合わせた。
(紫苑……本当に“凛子さんの道”を選んでしまうの……?)
大学の正門を出ようとしたその時――
黒塗りの車が道路をゆっくりと走り去るのが見えた。
その後部座席。
紫苑が座っていた。
「……紫苑っ!!」
悠花が思わず駆け出す。
紫苑がこちらを見た。
驚いたような、悲しそうな、複雑な目。
しかし――
次の瞬間。
紫苑はいつもの整った笑顔に切り替えた。
会釈。
口元だけの優しい微笑み。
声は届かない。
でも、紫苑の唇はこう動いた。
――“ごめんなさい”。
車は静かに走り去った。
(紫苑……なんでそんな顔するの……
なんで……助けてって言わないの……)
とりあえず別行動をとってたゆきちゃんと連絡を取り、最寄り駅のカフェで落ち合うことになった。
カフェに入るとすでにゆきちゃんがテーブルに座って4人を待っていた。
「ゆきちゃん!」
悠花が駆け寄る。
「……ダメだった……」
ゆきちゃんの声はかすれていた。
「凛子さん……聞いてくれなかった……
紫苑の気持ちを言おうとしたら……
“あなたは足を引っ張ってる”って……」
「私たちも、紫苑には会えたけど話せなかった」
その言葉に、全員の心が軋む。
どうすることも何も言えずに数分が経った。
そして静かな風が吹いた。
「……行こう」
最初に口を開いたのは悠花だった。
強い声だった。
震えていたけれど、揺らぎがなかった。
「紫苑を……助けよう。
紫苑が言えないなら……私たちがどうにかして動くしかない」
「悠花……」
刹那の声が震える。
「紫苑が“強がってるだけ”だって……
ようやくわかったの。
あの笑顔は……“作った笑顔”だよ」
希愛も強く頷く。
「紫苑……放っておけない……
一人にしちゃいけない……」
ともちゃんも、拳を握って言った。
「そうだよ。
紫苑は……助けてって言えない子だから。
言わないなら……あたしらが勝手に助けに行くしかない」
ゆきちゃんも顔を上げる。
「……みんな……紫苑を……お願い」
「もちろん」
悠花が優しく言った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
第28話では、
紫苑の“完璧すぎる笑顔”と、
幼馴染二人の存在を中心に、
感情のすれ違いをじっくり描きました。
紫苑の強さは本物です。
泣きたいときほど笑い、
苦しいときほど立ち上がる子です。
でも――
助けてとは言えない。
だからこそ、
ゆきちゃんの「紫苑は助けてって言えない子」という言葉は
物語全体のテーマにも繋がります。
そして今回、
凛子の“表と裏”がはっきり描かれました。
紫苑を一流にしようとする母の愛が、
同時に“檻”にもなってしまっている。
その圧に、
幼馴染でさえ弾き飛ばされてしまう。
けれど――
その弾かれた涙が、
次の行動へと火をつけていく。
四人の“紫苑奪還編”、ここから本番です。
どうかこの先も見守ってください。




