第27話「届かない声」
四人の間には、見えない距離ができ始めていました。
希愛は大学で才能を認められ、
刹那はボーカルとしての力を教授にも母にも評価される。
それぞれが前へ進む一方で、
紫苑だけが“母の期待”と“大学の特別課題”に追い詰められ、
心も体も限界へ近づいていきます。
話そうとしても話せない。
助けを求めたいのに求められない。
沈黙の向こうで、紫苑は誰にも助けを求めず落ちていく。
そしてついに悠花たちは――
「紫苑をこのままにしてはいけない」
と強く決意することになります。
27話は、四人の音が“揺れ始める”重要な章。
ここから大学編は大きく動き始めます。
紫苑が「距離を置きたい」とメッセージを送ってきた翌日。
キャンパスの空気は春の暖かさを増していたが、
悠花の心は晴れないままだった。
ギターのケースを背負いながら、講義棟へ向かう途中、
ふと何度もスマホを確認してしまう。
(紫苑……本当に大丈夫なのかな……)
昨日のメッセージの最後に並んでいた
“ごめんなさい”
あの文字列が胸に重く刺さっていた。
午前の講義後のカフェテラス。
「悠花」
声をかけてきたのは刹那だった。
ベージュのジャケットを羽織り、いつもより落ち着いた雰囲気を纏っている。
「紫苑のこと……考えてる?」
「うん。考えないようにしても、考えちゃうんだよね」
テーブルに座ると、希愛もそっと姿を見せた。
「希愛……午前の授業終わったの?」
「うん。でも……集中できなかった」
希愛でさえ、ドラムのこと以外で心が揺れる。
それが紫苑の存在の大きさを物語っていた。
刹那は静かにコーヒーカップを置く。
「紫苑は、母親の“期待”の中で生きてきたから、
自分の気持ちより、母の言葉を優先しちゃうのよ」
「……そんなの、つらいよね」
「つらいわ。でも……紫苑はそれに気づけないくらい、ずっとそれが“当たり前”だったのよ」
刹那が言う“当たり前”という言葉が、
悠花には酷く残酷に聞こえた。
「ねぇ、あれって……」
希愛が小さな声で指さす。
大学の別棟へ向かう廊下の先――
フェンスの向こうに、緑色の髪が小さく揺れていた。
「紫苑……!」
悠花は反射的に立ち上がった。
「待って!」
刹那が腕を掴む。
「今呼び止めたら……きっと困らせちゃう」
「でも……」
背筋は伸びているのに、どこか必死で、
前だけを見て、周りを見ていない。
希愛がぽつりと漏らす。
「紫苑……見た目ではわからないけど……
強がってるようにも見える」
その言葉の鋭さに、悠花の胸がぎゅっと締め付けられる。
紫苑は教授と何か話しながら、
そのまま特別レッスン室の方へ消えていった。
「……これ、早くなんとかしないと」
刹那が真剣な表情で言った。
「刹那も、そう思う?」
「ええ。紫苑の表情……いつもと違った。
あれは、多分追い詰められてる人の顔だと思うわ」
希愛も静かに頷く。
「紫苑……音、聴けてない。
“しなきゃいけない音”ばかりで……苦しそう」
三人とも、同じことを思っていた。
(誰かが止めないと……紫苑は壊れてしまう)
悠花は机の下で拳を握りしめる。
「……紫苑、話したいのに。
私たちの声が届かないところにいる感じがする」
刹那がそっと悠花の肩に手を置く。
「悠花。
焦らなくていい。でも……放っておくのはもっとダメよ」
「うん……」
風が吹き、カフェテラスの桜の花びらが舞う。
春の景色なのに、どこか寒かった。
紫苑は大きなピアノの前に座り、
指を震わせながら鍵盤に触れた。
(母様に言われた通りに……
私は碧山凛子の娘……
ミスは許されない……)
頭の中が“義務”でいっぱいになる。
音は美しい。
誰が聴いても完璧だ。
でも――紫苑自身の“音”がそこにない。
教授は褒める。
「碧山さん、素晴らしい。
だが……どこか“硬い”ね。
緊張しているのかい?」
「……いえ。
……大丈夫です」
しかし紫苑の手の震えは止まらなかった。
翌週。
四人のスケジュールは、さらに噛み合わなくなっていた。
紫苑は特別クラス・追加課題・母からの練習指導……
来る日も来る日も“管理された時間”で動いていた。
一方、希愛と刹那は大学内で注目され始め、
悠花は二人の活躍を笑顔で見守りながらも、
どこか胸の奥で落ち着かない気持ちが消えなかった。
ある朝。
悠花・刹那・希愛の三人が同じ時間に登校できた日のことだった。
珍しく、三人は大学の正門前で話していた。
「今日こそ紫苑と昼だけでも会えたらいいのに」
「最近ほとんど会えてないからね……」
「紫苑の顔……疲れてる」
希愛の一言が胸に刺さる。
その時――
「あ……」
紫苑が、正門から早足で出てくる姿が見えた。
緑のショートヘアが揺れ、
眼鏡の奥の紫の瞳はどこかぼんやりしている。
「紫苑!」
悠花が手を振る。
紫苑ははっと顔を上げたものの、
その表情は驚きよりも“戸惑い”が強かった。
「……おはよう、みんな」
「紫苑、久しぶりに顔見れたよ!」
「今日は少し話せる?」
「紫苑……大丈夫?」
三人が同時に質問すると、
紫苑の表情がわずかに揺れた。
「ごめんなさい。今……特別レッスンがあって、急いでいるの」
「今日の昼は? 少しでもいいし……」
悠花が近づくと、紫苑は急に一歩下がった。
「ごめんなさい……本当に……時間がなくて」
その声は震えていた。
「紫苑……?」
希愛が手を伸ばそうとした瞬間――
「紫苑! こんなところにいたのね!」
鋭い声が響いた。
振り返ると、
淡いグレーのスーツを着た女性が立っていた。
碧山凛子――紫苑の母だ。
大学の正門で、紫苑を迎えに来るという異様さに、
三人は思わず息を呑んだ。
「紫苑、次のレッスンまでに課題の確認をしなければいけません。
こんなところで時間を無駄にしてはダメでしょう?」
「……はい、母様」
紫苑の声は完全に“従う”声だった。
悠花が勇気を振り絞って言う。
「あの……紫苑と、少しだけ話したかっただけで――」
凛子の視線が悠花に向いた。
刺すような冷たさ。
「あなたが浅黄悠花さんね。
紫苑の友人だと聞いているけれど……
大学では、遊びより学びを優先していただけると助かるわ」
優しさの欠片もない言い方だった。
「遊びじゃ……ないです」
悠花は震えながらも言い返した。
「私たち、紫苑と音を合わせたいだけで……」
「音? それはクラシックの話かしら?」
凛子は冷静に、しかし明確に三人を見下ろした。
「紫苑は“選ばれた子”です。
あなた方と同じ場所に立っていては伸びません」
その言葉に希愛の肩がびくっと震え、
刹那の眉が怒りでひそめられた。
「母様、やめてください……!」
紫苑が声を上げる。
「私は……私の友人たちを侮辱されたくありません!」
凛子は一瞬だけ驚いた顔をした。
しかしすぐに表情を戻し、冷たく言い放つ。
「紫苑。
わたしはあなたの人生を正しく導いているだけよ」
「っ……」
紫苑は何も言えないまま、
凛子に引かれて正門の外へ消えていった。
残された三人は、
その光景をただ見つめるしかなかった。
「……紫苑、苦しそうだった」
希愛がぽつりと呟く。
「私もそう見えた」
刹那の声は低い怒りを含む。
「紫苑……あんなの、絶対つらいよ……」
悠花は拳を強く握った。
手のひらに爪が刺さるほどに。
「絶対に……絶対に紫苑を一人にしない」
「悠花……」
「うん……私たちで、紫苑を守る」
「あんな扱い、許せないわ。
母親だからって、あれはただの支配よ」
三人の視線が交わる。
(紫苑を取り戻す)
その日の夜。
四人のグループチャットは、珍しくずっと沈黙していた。
希愛が小さく送る。
『紫苑、大丈夫?』
……既読がつかない。
刹那も続ける。
『無理してない? 心配しているわ』
……やはり、既読はつかない。
悠花も震える指で打った。
『紫苑。
返事できなくてもいいから……
声を聴かせて』
スマホの画面は、ただ時間だけが過ぎていく。
どうすればいいかわからず胸の痛みが、どんどん強くなる。
同時刻、紫苑は薄暗い自室で机に向かっていた。
ピアノの特別課題、演奏分析、海外教材……
山積みの課題が机の上に広がっている。
凛子の声が扉越しに聞こえる。
「紫苑、課題は終わったの?
明日までの楽譜は三種類あるはずよ」
「……はい」
紫苑の声はかすれていた。
机の引き出しには、
悠花・刹那・希愛と撮った高校時代の写真がしまってある。
その写真をそっと取り出し、
指先でなぞる。
(本当は……会いたい)
(本当は……音を合わせたい)
(でも……母様を悲しませたくない……)
胸が裂けそうに痛い。
『紫苑さん、大丈夫?』
スマホに届いた希愛のメッセージが光った。
声を上げて泣き出しそうになる。
「……返したい……でも……」
母親の気配が廊下から伝わる。
(今返したら……母様に気づかれる……)
(怒られる……)
紫苑は震える指で画面を伏せた。
翌日の大学の中庭で3人は集まっていた。
「紫苑、今日も連絡来なかったね……」
希愛が静かに言う。
「昨日からずっと見てないってこと?」
「うん……既読もついてない」
「紫苑……追い詰められてるわね」
刹那は表情を曇らせた。
悠花の胸がざわざわと波打つ。
「……紫苑を一人にしたくない」
「悠花……」
「でも……どうしたらいいの?」
希愛が不安そうに見つめる。
悠花は拳をぐっと握った。
3人はただどうすることもできないまま、立ち尽くすしかなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
27話では、
・紫苑が本格的に母・凛子の圧に追い詰められる
・三人の声が紫苑に届かなくなっていく
・凛子が直接大学へ現れるという異常事態
・三人が“紫苑を救う”ために動き出す決意を固める
という、大学編最初の大きな分岐点を描きました。
特に、凛子が正門で紫苑を引っ張って行くシーンは、
これまで見えなかった“支配の深さ”が表に出た瞬間であり、
四人の関係が変わり始めた象徴です。
そして物語は、
“紫苑を取り戻すための物語”
という新しい軸に踏み込みます。
四人の音が再びそろうための道は、ここから始まります。
これからもよろしくお願いします!




