第26話「揺れる音、揺れる心」
大学生活が本格的に動き始める中、
四人の距離にも“静かな変化”が現れ始めます。
希愛はアンサンブル授業で天才的なリズム感を見抜かれ、
刹那は歌声を評価され、母からも大きく背中を押される。
それぞれの才能が開花する一方で、
紫苑だけが、母・凛子の強い干渉により、
思うように自由な時間を持てなくなっていきます。
ほんの少しずつ、音がずれていくような違和感――
それがやがて“大きな波”になる前の、最初の揺れ。
26話では、その“揺らぎの始まり”を描いていきます。
四月の終わり。
大学のキャンパスには、新生活の緊張も少しずつ薄れ、
それぞれが自分の速度で馴染み始めていた。
地下スタジオ棟の前の廊下は、
今日もドラムや打楽器の音が絶えず響いている。
「希愛さん、今日のアンサンブルはBスタジオです。ちょっと早めに来ておいて」
講師に声をかけられ、希愛は小さく頷いた。
「……はい」
その声は相変わらず静かだが、
どこか凛とした強さを含んでいた。
スタジオに入り、ドラムセットの前に座る。
スティックを握った瞬間、
希愛の表情は自然と“集中の顔”に変わる。
周りの学生たちが集まってくる。
「ねぇねぇ、黒羽さんってさ……
初回のアンサンブルで教授に褒められた人だよね?」
「うん。“内側にメトロノームを持ってる”って言われたって聞いた」
「今日、合わせられるの楽しみだなぁ」
ひそひそ声で交わされる言葉に、
希愛は戸惑いながらも軽く会釈した。
(……注目されるの、苦手)
でも――
叩き始めた瞬間、すべてが消えた。
ドン――
一打目のスネアに、メンバーの肩が同時に跳ねる。
安定感。
重心。
揺れないリズム。
希愛の体の奥で脈打つテンポは、
そのまま音となってスタジオ全体に流れ込む。
「ちょ、ちょっと……すごくない?」
「音が“走らない”ってこういうこと……?」
「黒羽さん、一緒に課題曲やってほしい!」
周囲の視線が一気に集まり、
希愛はこっそり目を伏せた。
「……やっぱり、すごいなぁ」
スタジオの隅で見ていた悠花が、
そっと胸の前で両手を握った。
(希愛……高校の頃からリズム感はすごかったけど、
大学に来て、もっと伸びてる……!)
眩しくて、誇らしくて、
胸が少し熱くなる。
「黒羽さん、次のアンサンブルも一緒にやらない?
あなたがドラム叩くと、安心するんだ」
授業が終わり、廊下では数人の生徒たちに希愛が囲まれていた。
「よかったら、うちの声楽の課題伴奏もお願いできないかな……?」
「黒羽さんって、毎日スタジオいる?
時間合えば練習みてもらいたいんだけど……!」
徐々に希愛の周りには、いつの間にか学生たちが集まっていた。
「あ、あの……」
困ったように目を泳がせたそのとき――
「希愛、こっちおいで!」
悠花がぱっと割って入った。
「ごめんなさい、この子ちょっと用事あるんで!
またね~!」
半ば強引に希愛の手を引き、
二人はスタジオ棟の外へと抜け出した。
「……ありがとう」
希愛が小さく呟く。
「いいよいいよ。希愛って人気者なんだから」
「人気者じゃない……ただ、叩いただけ」
「その“ただ”がすごいんだよ」
悠花は本気でそう思った。
「二人ともー!」
校舎の影から刹那が手を振る。
「刹那も授業終わった?」
「ええ。教授に声を褒められて……帰ってお母さんにも報告したの」
「どうだった?」
「……すごく喜んでくれたわ」
刹那の頬に嬉しさがにじむ。
その表情を見て希愛も微笑む。
「刹那……よかったね」
「ええ。本当に」
しかし――そこで、ふと気づいた。
「……あれ? 紫苑は?」
「今日は授業が長引いてるのかな?」
悠花がスマホを見ると、紫苑からのメッセージが入っていた。
『ごめんなさい。今日は帰宅します。
母様から課題の確認を言われたので。』
「……帰宅?」
「まだ夕方なのに?」
胸の奥に不安が広がる。
「紫苑、大丈夫かな……?」
希愛が心配そうに呟く。
刹那は唇を結び、静かに首を振った。
「……しばらく一緒にいられない時期が来るかもしれないわ」
その言葉が、夕方の風に沈んでいった。
紫苑が先に帰った翌日。
四人で昼に少しだけ顔を合わせる約束だったが――
時間ぎりぎりになって、紫苑から連絡が入った。
『すみません、急に教授から呼び出しがあって……
今日は行けそうにありません』
「……また?」
悠花がスマホを握る手を少し強くした。
「最近、ずっとこんな感じね」
刹那も表情を曇らせる。
「紫苑さん、疲れてる……?」
希愛の声は小さいが、胸を締めつけるような不安がにじんでいた。
キャンパスの中庭は風が心地よく吹いていたが、
三人の胸の中にはどこか重い空気が流れていた。
(紫苑、どうしたんだろ……?
大学に入ってから、前よりずっと忙しそうで……)
悠花は空を見上げた。
淡い雲がゆっくりと流れていき、それが今の4人の距離に見えた。
同時刻、紫苑は別棟の特別演習室にいた。
壁一面に吸音材が貼られ、
中央には美しく磨かれたフルコンサートピアノが置かれている。
教授が楽譜を置きながら言う。
「碧山さん。お母様から連絡をいただいていてね。
“紫苑にはこの曲を仕上げてほしい”と」
「……母が」
紫苑の胸がぎゅっと締めつけられる。
「キュッフェルの楽曲は難解だ。
でも君ならできるよ。
お母様も“うち娘なら可能だ”と強く言っていたから」
「……はい」
その“強く”という言葉に、
紫苑は目を閉じた。
(どうして……)
(私は……ただ……)
鍵盤にそっと指を置く。
音は美しく響いた。
でも、その響きの奥には、
少しだけ震える影が混ざっていた。
「ねぇ、二人は気づいてる?」
キャンパスの木陰で刹那がぽつりと口を開いた。
「気づいてるって……?」
悠花が顔を向ける。
「紫苑、大学に入ってから“自由にしてる時間”がほとんどないのよ。
特別レッスン、課題、母親の指示……
高校の頃よりもさらに厳しくされている気がする」
「たしかに……」
希愛も小さく頷いた。
「大学に入って、やっと自由に音楽できると思ってたのに……
紫苑さんだけ、“縛られてる”みたい」
希愛の言葉は穏やかだが、
その奥には弱くない怒りがあった。
「紫苑は……本当は、みんなと一緒にいたいのに」
「うん。紫苑、声に出さないけど……そう思ってる気がする」
悠花は拳を小さく握りしめた。
「紫苑を一人にしたくない。
私……ちゃんと話すよ。
どれだけ忙しくても、紫苑と音を合わせたいって」
「悠花……」
「私も一緒に行くわ」
「わたしも」
三人は頷き合った。
夜、紫苑は自宅の防音室で、グランドピアノの前で膝に手を置いたまま動けずにいた。
母・凛子が静かに言う。
「紫苑。大学ではクラシックの価値を守りなさい。
あなたは生まれながらに“選ばれた器”なのだから」
「……はい」
「友人との活動も大切でしょうけれど……
雑音に流されてはいけません。理解して?」
(雑音……)
その一言が胸に刺さる。
(悠花たちの音は雑音じゃない……
でも……母様の前では……)
心の中で何かが軋む音がした。
それから数日。
四人の時間割は相変わらず合わず、
紫苑の忙しさはさらに加速していった。
「紫苑、今日の放課後は合わせられる?」
悠花がメッセージを送っても――
『ごめんなさい。母様が課題を確認したいそうで……』
返事はいつも同じ。
(何か……おかしい)
違和感は、もはや“確信”に近づいていた。
練習後、三人はキャンパスの中庭に集まっていた。
紫苑だけ、今日も来られなかった。
「紫苑さん、最近ずっと帰ってる……」
希愛の声は弱く震えている。
「ちょっと、無理しすぎよね」
刹那も腕を組んで心配そうに眉を寄せた。
「紫苑は努力家だけど……これは努力じゃなくて“義務”を押しつけられてる感じ」
悠花は静かに息を吸った。
「……私、紫苑の家に行ってみようかな」
「え?」
「ええ?」
二人の驚いた声がそろう。
「だって……このままだと紫苑、一人になっちゃう。
私たちの声が届かなくなっちゃう気がして」
「悠花……」
「行くのは危険かもしれないけど……気持ちはわかる」
刹那はそう言いながらも、どこか遠くを見るように目を細めた。
「紫苑の家って、母親の凛子さん……厳格な人よね」
「うん。昔から“クラシック以外は認めない”って言ってたから」
希愛も静かに頷いた。
「でも……紫苑は紫苑だよ。
クラシックも好きだけど、私たちの音も好きなんだよ。
それを否定されるの、絶対つらいと思う」
(三人の音は合っているはずなのに……
紫苑の音だけ、遠くに行っちゃいそうで怖い)
悠花は胸の奥がじんわり痛むのを感じた。
紫苑は帰宅後、母・凛子の前でピアノを弾いていた。
美しい旋律。
完璧な指の動き。
しかし――その音は、どこか緊張で固くなっている。
凛子は腕を組みながら言った。
「紫苑、大学でも優秀でいなければ意味がないのよ。
あなたは“碧山凛子の娘”なのだから」
(母様の期待……重い……でも……)
脳裏に浮かぶのは、四人で合わせた音。
柔らかくて、
あたたかくて、
悲しくなるくらい好きな音。
(あの音を……また聞きたい)
「紫苑? 聞いているの?」
「っ……はい」
紫苑は慌てて姿勢を正した。
「もう“遊びの音楽”に関わる時間はありません。
クラシックこそがあなたの価値。
それを忘れないように」
紫苑の胸に、鋭い痛みが走った。
翌日。
四人のグループチャットに、紫苑から長いメッセージが届いた。
『悠花、刹那、希愛
ごめんなさい。今は少し、クラシックに専念するため距離を置かせてほしいの。
母様の期待に応えるため、しばらく自由な時間を作れない状態で……
本当に、ごめんなさい』
文末には、
“ごめんなさい”が繰り返し書かれていた。
メッセージを読んだ瞬間、
三人の胸は一斉にざわついた。
「紫苑……距離を置く……?」
悠花の手が震える。
「やっぱり、お母さんが……」
刹那の声にも怒りと悔しさがにじむ。
「紫苑さん……泣いてる……?」
希愛はスマホを抱きしめた。
空気が重く沈む中、
悠花はゆっくりと息を吸った。
「――行こう」
「行くって……どこに?」
刹那が目を丸くする。
「紫苑の家に。
紫苑が一人で抱えてるなら、私たちが行くしかない」
「悠花……」
「もう、黙って見ていられないよ。
紫苑は、私たち四人の仲間なんだから」
夕暮れの光が三人を照らす。
不安と決意が交じり合った表情で、
三人は紫苑の家の方向へ歩き出した。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
第26話では
・希愛のリズム感が大学でも突出して評価される
・刹那が“歌うこと”への第一歩を踏み出す
・紫苑の時間が急速に奪われ、心が追い詰められていく
という、四人の中の“差”が浮かび上がり始めた回でした。
特に紫苑のメッセージは、
四人の関係の中で初めて “距離を置きたい” と言葉にした瞬間で、
大学編の大きな転機の始まりです。
ここから紫苑の状況はさらに悪化し、
凛子の圧の正体、そして学長との関係なども徐々に明らかになっていきます。
この揺らぎは、後の“四人の再結集”につながる大切な布石です。
次回、第27話では
紫苑の追い込まれる姿がより鮮明になり、
悠花が本気で動き出すきっかけが描かれます。
引き続きよろしくお願いします!




