第10話 フェス準備
こんにちは、msnoです。
今回は六月の音楽フェスに向けての準備回です。
三人での本格的な練習が始まり、クラシカルなアレンジへの挑戦や、少しずつ距離を縮めていくやり取りを描きました。
臨時メンバーとして参加する紫苑の存在感も、ますます大きくなっていきます。
翌日の放課後。昨日に続いて、私と刹那、そして紫苑さんの三人は軽音部の部室に集まっていた。
古びた部の備品のキーボードを、紫苑さんが丁寧に拭き取ってから電源を入れる。
ピアニストの彼女は自分の鍵盤を持っていない。だからこそ、この楽器に触れる仕草も真剣そのものに見えた。
「昨日よりは少し鍵盤の感触に慣れてきました」
眼鏡を押し上げながら紫苑さんが呟く。刹那は弦を軽く鳴らして頷いた。
「では、昨日の曲からもう一度」
「うん。リズムを合わせていこう」
私がカウントを取る。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
ギターのコードにベースの低音。そして紫苑さんの鍵盤。
昨日よりも滑らかに、三人の音がひとつにまとまっていく。
最初のぎこちなさはもうなく、呼吸を合わせるたびに音が厚みを増していった。
一通りの練習を終え、息を整えていたとき。
紫苑さんが少し遠い目をして口を開いた。
「母に、よく言われていました。アメジストは“誠実”の象徴だと。……芸術には、その心が欠かせないのだと」
「アメジスト?」
私は首を傾げる。
「ええ。二月の誕生石です。石言葉は誠実、心の平和。……音楽も、本来そうあるべきなのかもしれません」
凛とした声。でもどこか、自分に言い聞かせるようでもあった。
私は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。
(誠実に音楽を届けたい……私も、そうありたい)
「……二月の誕生石なんだ」
思わず口にした瞬間、刹那が少し驚いた顔をした。
「奇遇ですね。私も二月生まれです」
「えっ! ほんと? 私も!」
勢いよく言った私に、紫苑さんが静かに頷く。
「……私も、二月です」
思わず三人で顔を見合わせる。
しん、と沈黙した数秒。
そこで、刹那が小さく笑った。
「全員……二月、なんですね」
「すごい偶然だね!」
私もつられて笑う。紫苑さんも眼鏡の奥で柔らかく目を細めていた。
今はただの偶然として受け止めるしかなかったけれど、胸の奥に小さな灯りがともった気がした。
きっと――この出会いは、意味がある。
翌週からは本格的にフェスの練習が始まった。
紫苑さんは備品のキーボードの横に座り、何枚か譜面を書き込んだ紙を机に広げている。
「ここ、転調を入れてみませんか。クラシックの曲調を応用すれば、より壮大な響きになります」
淡々とした声でそう言いながら、鍵盤を叩いてみせる。
音が一気にドラマチックになった。
「すご……! でも……ちょっと難しくない?」
私は指を止め、情けない声を漏らしてしまった。
クラシカルな進行はかっこいいけど、コードチェンジが早すぎて追いつけない。
「悠花さんなら、きっとできます」
紫苑さんは揺るぎない眼差しで言った。
信頼の言葉のはずなのに、逆にプレッシャーが増して胸が苦しくなる。
「焦らなくていいですよ」
刹那が穏やかに口を挟んだ。
「基礎のコードだけで支えて、徐々に紫苑さんのアレンジを取り入れれば形になります」
低音で弦を軽く弾きながら、落ち着いた声で導いてくれる。
――そうだ。全部を一度にやろうとしなくてもいいんだ。
「ありがと、刹那」
自然と口に出た呼び方に、自分でも一瞬驚いた。
いつの間にか「白鷺さん」じゃなくなっていた。
刹那は目を瞬かせた後、小さく笑った。
「……ええ、悠花」
私の名前も、苗字ではなく呼び捨てに。
それだけで胸の奥がじんわり温かくなる。
休憩時間。水筒のお茶を口にしながら、私は紫苑さんに視線を向けた。
「ねえ……紫苑さんも、名前で呼んでもいいかな?」
彼女は少し驚いたように瞬きをし、やがて静かに頷く。
「……構いません。むしろ、そのほうが自然でしょう」
「じゃあ……紫苑」
呼んでみると、不思議なくらい距離が縮まった気がした。
紫苑も眼鏡の奥で柔らかく微笑み、ゆっくりと私の名前を口にした。
「悠花、ですね」
ただ名前を呼び合う。それだけのことなのに、胸の奥に新しい絆が刻まれた気がした。
練習が終わると、部室の窓から差し込む夕日が机や楽譜を赤く染めていた。
私はギターケースを肩にかけ、刹那と紫苑と一緒に校門へ向かう。
「少しずつ形になってきたね」
歩きながら私が言うと、刹那が静かに頷く。
「ええ。アレンジは難しいですが、その分、仕上がれば強い武器になります」
「六月、絶対に成功させよう」
気づけば、私は拳を握って差し出していた。
刹那も迷わず同じように拳を重ねる。
「もちろんです、悠花」
短いやり取りだけど、それで十分だった。二人の間に固い約束が結ばれた気がした。
ふと横を見ると、紫苑が少し困ったように微笑んでいた。
「……私は生徒会の仕事もありますから。練習に参加できるのは限られます」
その声は柔らかいけれど、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
副会長という立場を考えれば、それは正しい言葉だ。
でも、私は今日一緒に演奏したときの紫苑の表情を思い出す。鍵盤を叩く指先が、どれほど楽しげに見えたかを。
「無理のない範囲でいいよ。それでも紫苑がいてくれるのは心強いから」
私がそう言うと、紫苑は少しだけ目を細めた。
校門を出てしばらく歩いた後、三人はそこで別れた。
刹那と手を振り合った後、紫苑が背を向ける。
その歩き方はいつも通り落ち着いていたけれど、背中からは小さな迷いが漂っているように見えた。
(紫苑……本当は、もっと一緒に音を作りたいって思ってるんじゃないかな)
夕暮れの空に消えていく背中を見送りながら、私は胸の奥が少しざわつくのを抑えられなかった。
六月。来月のフェスのステージに向けて、私たちの挑戦は始まったばかりだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
第十話では、
三人での練習が本格化
紫苑の口から語られる「アメジスト=誠実」の言葉
偶然にも全員が二月生まれという一致
クラシカルなアレンジに挑む中でのぶつかり合いと成長
悠花・刹那・紫苑の「名前呼び」への切り替え
生徒会との両立に揺れる紫苑の姿
を描きました。
いよいよ六月のフェスに向けて動き出す悠花達。
臨時という立場を口にしつつも、紫苑の心は少しずつバンドの音に惹かれていきます。
次回はいよいよ本番直前、緊張と期待が高まるステージ直前編をお届けする予定です。どうぞお楽しみに!