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近くて、手を伸ばせて、届かなくて

作者: P4rn0s

「おつかれさま」

カウンターに腰を下ろすと、すでに私のグラスには薄く氷が張られている。

何も言わなくても注文は通っていて、しかも今日はレモンじゃなくてライムになっていた。

「季節的にこっちのほうが合うと思ってさ」

彼はそう言って微笑んだ。


私は何も言わずに一口飲んで、笑い返す。

その一連の流れが、もう何度目になるかは分からない。

でも、いつも同じようで、ちゃんと変化もある。

それが嬉しい。

私が最近ハマっている詩集の話をしたとき、彼はそれをメモに残していた。

駅前のレコード屋で見つけた、あまり知られていないバンドの話をしたときも、次に来たときには「聴いたよ」と言ってくれた。

「食べ物の好み、偏ってるけど面白いよね」

そんな言葉すら、私には居場所のように感じられた。

私は彼と恋人になりたいわけじゃない。

でも、どうしてこんなにも、この人には伝わるのに、あの人には伝わらないんだろうと、時々思ってしまう。


彼氏は、私に優しい。

連絡もまめだし、仕事が忙しいときでも時間を見つけて会おうとしてくれる。

荷物が重いと持ってくれるし、風邪をひいたらお粥を作ってくれる。

でも、私の好きな本は知らない。

好きな映画も、観たことがない。

「へえ、そんなのあるんだ」って言って、それっきりになる。

私が何を面白いと思ったのか、どこに心が揺れたのかには、たぶん興味がない。

「嫌いじゃないよ」って笑うけど、あの人の中に私は存在していない気がする。


「今日、彼とごはん行くんでしょ?」

バーテンダーの彼が、そう言って小さな紙袋を手渡してきた。

「前に言ってた店のスパイス、これ少し余ったから。使ってみなよ」

私はありがとうと笑って受け取るけど、その時点で少し苦しかった。

彼氏にこれを渡しても、たぶん「ありがとう」で終わる。

料理に使おうとは思わない。

「スパイスとか、難しそう」って言って、冷蔵庫の奥にしまってしまう。

そうして、忘れる。

私はそれを知っていて、それでもまだ、彼と一緒にいる。

優しいから。

離れる理由が見つからないから。

それに、「好き」だという気持ちは確かにあるのだ。

でも、どうしてこの人は私のことを、こんなにも覚えていないんだろう。


私が話した音楽。

私が美味しいと言ったパン屋。

私が読み込んだページの言葉たち。

彼はそれを聞いていたはずなのに、いつも新しい情報みたいに驚く。

「へえ、そんなの好きだったっけ?」

その瞬間、私は自分の一部が剥がれていくのを感じる。

そして次第に、黙ってしまうようになる。

もう話すことに疲れてしまう。

私は、誰かにすべてを分かってもらいたいわけじゃない。

でも、せめてひとつくらい、私を「記憶」していてほしいと思う。

この本が好きなんだよね、とか。

この味、前に美味しいって言ってたよね、とか。

そういう小さな記憶が、人を結びつけるんじゃないかと思っている。


夜、帰り道で、彼氏と歩いていても、ときどき私は無性に孤独になる。

「今日は楽しかったね」と言われても、どこか上滑りしている。

楽しいという感情を、分け合えていないような気がしてしまう。

でも、こんなことは誰にも言えない。

「わがまま」だと思われるだけだ。

優しくて、ちゃんと向き合ってくれて、私を気にかけてくれる人に対して、「伝わらない」と思ってしまう私のほうが、きっとおかしい。


だから私は、またひとりでバーへ行く。

そして「この前の曲、よかったね」と言われて、ただそれだけで泣きたくなる。

記憶されるということが、こんなにもあたたかいのだと知ってしまったから。


彼氏と過ごす夜、私はたぶん、ちゃんと笑っている。

でも、心の一部だけは、静かに冷めていっている。

そのことに彼が気づく日は、きっと来ないだろう。

私はそれを、責める気にもなれない。

きっと、私自身も、彼のことを本当には見ていなかったから。


本当に誰かを「知る」ということは、あまりにもささやかで、あまりにも難しい。

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