怨霊 その6
「これが、結界?」
半径1メートルの範囲しか守れないと説明を受けた。常に近くにおけば、問題ないだろう。
俺は久しぶりに浴槽に湯を張った。
ユニットバスで体を洗うためには、フットマットやトイレットペーパーを避難させる必要があるので、それが面倒でシャワーだけで済ますことが多いのだが、今日は緊張と開放感が混ざっていて、心を落ち着かせたくて湯に浸かる。
「はあぁ〜」
一度肩まで浸かって、すぐ横の洗面台を見た。
ビニールに入れた金のカードが目に入る。
5年早く、あの人に出会っていれば……そう考えてしまう。
知らない方が幸せだったのか、知ってしまった今では分からない。
もし、母の肩に乗ったやつを引き剥がすことができたら。
もし、月花様を家に連れて行かなかったら。
もし、怨霊を振り落とさなかったら。
もし、弟を紹介すると言われた時、すぐに頷いていたら。
もし、会長を紹介してもらわなければ……巻き込まずに済んだかもしれない。
そんな事が脳裏に湧き出ては消えていく。
この後悔のループは危険だ。
いとも簡単に囚われて、落ち込んで、死にたくなる。
やり直したくても、母も会長も、もういない。
「いや、もしかして、こんな風に思うのも、アイツが乗っていたからかもしれない」
失明したいなんて危険な思想も、アイツの影響だったのか?
あんなに切望していたというのに、それが今は不思議に思うほどだ。
俺は湯を手のひらで掬い、バシャバシャと顔を洗った。
起きてしまった出来事が変えられないのなら、知らないまま同じ失敗を重ねるのは嫌だ。辛い事実でも、それによって後悔で苦しむことになっても、前に進むためには乗り越えるしかない。
開き直りが肝心だ。
「よし」
勢いよく立ち上がり、浴槽から出た。
俺は家の片付けを始めた。風呂と似たような理由で、散らかし放題だ。
いや、あいつの影響で気力がなかっただけかもしれない。
ゴミと一緒に不要な物を纏め、布団を大きなカバンに詰めて家を出る。
布団を干した事などないので、コインランドリーで丸洗いしようと思った。
歩いて10分くらいのところにあるコインランドリーで機械を回し、近くのスーパーで買い物をして時間を潰す。
そろそろかとスーパーを出て、ビニール片手にコインランドリーに戻る途中だった。
ブツブツと独り言が聞こえ、声の元を探そうと後ろを見る。
「あいつ……許さない……呪ってやる……死ねばいい……くそっ……」
カバンを抱えるようにして持ち、下を向いて歩いている女が1人いた。
まさか、声の主だろうか。
「あいつ……許さない……呪ってやる……死ねばいい……くそっ……」
同じ言葉を繰り返しているのか、またそのように聞こえた。
これは、関わらない方が良さそうだ。
そう判断して、顔を前に戻す。コインランドリーはもう目の前だ。
「あいつ……許さない……呪ってやる……死ねばいい……くそっ……」
ふっと声が耳元で聞こえたような気がした。もう一度振り返ろうか、やめようか迷ったが、そのまま足を進めた。
「!」
いつの間にか、女は俺を通り越して斜め前を歩いている。
そんなに早い歩き方に見えないのに、そう思って見ていると、女が振り返って俺を見た。
「あいつ……許さない……呪ってやる……死ねばいい……くそっ……くそっ……くそっ!」
そう言いながら踵を返して近寄ってくる。
逃げようかとも思ったが、足が硬直して動かない。
女はこちらへ手を伸ばし、俺は肩を掴まれる予感がした。
「ぎゃ!」
バチっと音がして、女が弾かれた。
俺はその隙にコインランドリーに駆け込み、乾燥途中の機械を止められないかあれこれ見る。
「止め方、止め方……」
そんな説明を見つけることは出来なかったが、どうしようかと入り口に目を向けた瞬間、ピーッピーッピーッと終了の音が鳴った。
布団を急いでカバンに詰めると、コインランドリーを出て辺りを見回す。
道の端で倒れている女を見て、しばし躊躇う。
「もし、怨霊じゃなかったら?」
目の錯覚で弾かれたように見えただけとか。何かの発作や事故だったら?
普通の人間ならあそこで伸びているのは、危ないかもしれないと、先ほどの恐怖をしばし忘れて考える。
考えていると、自転車が角を曲がってきて、その女の上をなんの引っかかりもなく通過した。
もちろん運転者に変わった様子もない。
「怨霊か」
俺はほっと息を吐き出すと、さっさとその場を離れて帰途へとついた。
家に帰ると、財布から金のカードを出して眺める。
効果を目の前で見て、今更ながらに驚いていた。
「凄いな。これ、どうやって作ってるんだろ」
ただのカードにしか見えない。でも、凄い効果だった。
俺は上機嫌で布団を出し、綺麗になった部屋で寝床を整える。
枕元に金のカードを置き、電気を消す。
久しぶりに、しっかり眠ることができた。
土曜日を待って、俺は本町の店舗に向かった。
俺の3メートル程後ろには、コインランドリーの前で遭遇した女が着いてきている。
どうやって俺を探し出したのか、ある日起きると家の玄関に立っていた。
金のカードのおかげで、俺が取り憑かれる事はなかったが、付かず離れず、ずっといる。
「あら、おはよう」
ビルの前で若月さんと会った。
「また変なの連れて来たわね」
「すみません」
「早いとこ、その光は消さなきゃね」
光とは何の事だろう。
「とりあえず、入りましょ。カードも新しいのを渡すわ」
若月さんは女を無視して中に入る。俺もそれに倣って入り、振り返えらず着いていく。
「あれから、少し調べたんだけどね」
店は少し機材が増えており、写真に使うような照明器具があった。壁も背景にするのか、布がドレープを作り垂れ下がっている。
そして、青い小箱はまだデスクにあった。
「あなたが目を潰そうとしていたのは、コイツへの抵抗の表れだったようね。目が大きくて、可愛いねって言われていたみたい。なかなか美人だったらしいわよ。ま、自称だけど」
言われてみれば、母は目の周りの化粧を頑張っていた。あれは、目を大きく見せたかったのかもしれない。
「どうして、そんな事がわかったんですか?」
「試行錯誤のおまけってとこね」
何のことか分からないが、へえと頷いておく。
「そうそう。これ、営業リストね。割引券と一緒に配ってきて」
チラシと割引券を受け取って苦笑した。
「本当に写真館なんですね。怨霊とか、そっち系の営業しないんですか」
「せっかく店を出すのなら、まずはやってみたい事にチャレンジしたいじゃない」
まずは、という言葉にひっかかった。
「では、次は?」
「次は藤沢に学校を作るわ」
「専門学校のような?」
「いいえ、普通の高校よ」
「え、高校?しかも藤沢って神奈川の?」
問い返すと若月さんは頷いて答えてくれた。
「あなただから言うけど、ここも藤沢も、場所に意味があるの。ただ藤沢と違って、ここが何の目的を果たすのか、あたし達にも分からないのよ。今はまだね」
言っている意味が分からず、俺は小さく首を傾げる。
「学校はいつになるのか分からないけど、土地だけは抑えているから、始めないともったいないわね。でもまだ人材が揃わないの。せめて悩める若者を教え導く先生が1人はいないとね」
スケールの大きさについていけないが俺が今できるのは、この店の営業活動だ。せめて売り上げに貢献しようと思った。
「そうそう。こっちが新しいカードよ」
小さな決意をした俺に、若月さんが金のカードを手渡してくれた。
「前のはどうしますか?」
「再利用するから置いて行って」
はい、と頷いたところだった。
店のチャイムが鳴る。
モニタに誰か映っているが、俺の角度からはよく見えない。若月さんは受話器を取って、どうぞと言ってロックを解除した。
「お客さんですか?俺、いちゃまずいですよね」
「客じゃないわ。来たらドアを開けて出迎えて。あたしはコーヒー淹れてくるから」
頷いて玄関へ向かう。
早すぎたかなと思ったが、やることもないのでその場で待機した。
店の奥からはお湯が沸く音が微かに聞こえる。
やがて廊下の方から、ヒールの音がしたので、俺はドアを開けて出迎えた。
「……!」
はっと息を呑む音に、その人物をよく見ようとした。
その直後、飛びつかれて後ろによろめく。
緩く波打つ豊かな長い髪から、花のような香りがして、キャラメル色の頬が視界の端に見える。
「よかった、生きてて。よかった……」
懐かしい声が、俺の首筋を擽る。
「月花……様」
「初めて名前を呼んでくれたのに、会長みたいに言うのね」
月花はそう言うと、体を離して俺を見た。
琥珀色の瞳が涙に濡れて、キラキラと輝いている。サンキャチャーが拡散させる光よりも、美しい光景だ。
ああ、目を潰さなくてよかった。
心からそう思う。
俺は思わずその体を抱き寄せていた。
「月花……心配かけてごめん。それから……」
会長を思い出しながら、その想いを重ねるように言った。
「ありがとう」
店の奥からインスタントコーヒーの香りがする。
もう少しだけこうしていようと、月花をぎゅっと抱きしめた。
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「よかった。よかったです。最後くらいは報われて」
ゴーグルを外した光は、目に涙を溜めて鼻を啜った。
「そして月花さん、美人ですね。師匠も会った事あります?」
唯一の弟子にティッシュを渡しながら、”安堂寺 礼”は首を振って否定した。
「若月は姉妹多いし、見かけた事くらいはあるかもしれないが、顔と名前が一致しない。それよりも、怨霊についてはなんとなく分かったか」
「はい!今にして思えば、最初の大倭さんと将生さんの時に出てきた、教室に現れて早く帰れって言ってたのも怨霊だったんですね。なんだか今回は見え方が違うので、より肌で体感したみたいです」
「どう違った?」
「前までは、映画を見ているみたいな視界だったんですけど、今回は、まるでその人の視界のようと言うか、自分がその人になったようなリアルな感じでした」
なるほど、と巻毛を揺らして礼が頷く。
「能力の差もあるが、これは元々日記だったからな」
「日記?そんなモノまで映像化できるんですね。でも、そのせいで顔が分かりません。なんか、自分が動いていたような感じだったので、前の顔が思い出せないっていうか、そんな感覚です」
「気になるなら、今度若月に聞いてみるといい」
「あ、気になると言えば、これは何年前なんですか?」
「オープンのころだから10年くらい前だろう。それよりも次、行くか?話が少し重めだったから、休憩挟むか?」
光は渡されたティッシュで鼻をかみ、ゴーグルを装着した。
「まだ行けます!」
「よし、じゃあ次のカードだな」
ゴーグルを嵌めた光は大きく頷く。
そして、新たな物語を受け入れる体制に入った。