怨霊 その4
その日、ソイツは本当に戻って来なかった。
朝、目覚めてからの日課が不要となっている。迷ってどこかを彷徨っているのか?
俺は何も乗っていない肩を回してみる。
軽く、爽快だ。
陰鬱な空気感もなく、この上なく爽やかな朝を、久しぶりに迎えた。
念のため、あの嫌な三叉路に向かう。
そこに、あの長物を持った嫌な奴がちゃんと見えたら、俺に乗っかっていたヤツは、本当にいなくなったと思おう。
俺の視界が退化した可能性もあるから、まだ喜びすぎてはいけない。
それでも我知らず浮き足だって外出の用意をする。
気がついたら、鼻歌まで勝手に歌っていた。
上機嫌で歩く俺だったが、さすがに三叉路まで来ると、緊張感と寒気を背中に感じた。
俺の視界は退化どころか、進化している。
ちゃんと人に見える様になっていた。
三叉路には、黒いモヤを纏った、杖を付いた老婆が立っている。
誰彼構わず杖を振り下ろす。
癇癪のようなものだろうか。
誰かが通るから、杖を振るっているというわけではない。ただ、三叉路の狭い範囲で暴れているだけだ。
「いや、あれは見えていないのか」
思わず、疑問が口から出て、声が漏れた。
その瞬間、老婆は勢いよくこちらを振り返って、じっと目を凝らすようにした。
気づかれたのか?
それなら、見えている?
俺は冷や汗が額から伝うのを感じ、じりじり後退った。あの老婆も同じように撃退できるとは限らない。
見えている証明はできたので、家に帰ろう。
三叉路を離れて数分、俺は交差点の向こう側から、オカルト研究会の会長が手を挙げて歩いて来るのを見た。
手を振りかえして合図し、会長の方へ歩みを進める。
交差点を越えたらすぐのところだ。
会長が先に交差点へ入ったと思った瞬間、音もなく現れた車が、その体を持っていった。
「え……?」
目の前で起きた事が、すぐさま理解できず、顔だけが無意識に車を追う。
車は蛇行の上、民家の塀に激突。この距離から会長の姿は見えなかった。
冷や汗に、早鐘を打つ心臓。頭は真っ白で何も考えられないのに、足が勝手に車に向かっていた。
声も出せないまま、車まで辿り着く。
会長の姿がない。
車の下や前、横などを探して、最後に運転席を見た。
運転手はハンドルを握ったまま、血を流してぐったりしている。生死は不明だ。
俺は運転手に声をかけようとして、揺らめく黒いモノを見た。
ニタリと笑う、アイツがいた。
ハンドルを握った黒いソレは、俺が大学に置き去りにしたヤツだ。
俺の目を見て、ほくそ笑んだソレは、運転手から離れて俺の肩に乗る。
あまりの事に、その場にへたり込んだ。
会長の体は、車が激突した家の庭に落ちていたようだ。
跳ね飛ばされて、落下して……ほとんど、即死だったらしい。
ゲッカ様によると、アイツは俺達に穢れをつけてマーキングしていたらしい。ゲッカ様の周りも彷徨いていたようだが、自宅には結界が張られていて、そのせいで見失ったのだろうと言っていた。
心配になったゲッカ様は会長に警告した。人が良いあの人は、その警告を俺に伝えようとしてあの場にいたようだ。
人が良すぎて死んでたら意味ない。
ゲッカ様は俺を心配してくれたけど、彼女を巻き込む訳にはいかない。
会長が大好きだった彼女を巻き込んだら、恨まれるだろう。
もう、2人も俺の身近で死んでいる。
俺はゲッカ様と連絡先を交換せず、学校も必要最低限にし、卒業と同時に地元を離れる決心をした。
その間、学校前で待ち伏せていた彼女を2度見たが、気づかれない様に逃げた。
俺は大阪のミナミに本拠地を置く、小さな文具メーカーの営業職に就いた。
教員免許は取ったが、夢ある若者を導く自信など皆無だ。
俺の肩には相変わらず、アレが乗っている。
大阪へ連れてきたのは、ワザとだ。
何処かへ置き去りにする事は、あの惨劇を連想させるし、ゲッカ様の元に向かわせない様にしたかったから、コイツが彼女を追跡できない距離で生活してみようと思った。
それでもコイツは予期せぬ動きを、不意に見せる事がある。
死ぬ頻度はそれほど高くないものの、他人に大怪我をさせるくらいならザラにある。そして、俺がその事故を止められた事など、一度もなかった。
ゲッカや地元の知り合いを傷つけない代わりに、見知らぬ他人が犠牲になっているという事実は、俺の心を暗い場所に導いていく様だった。
罪の意識からか、最近コイツを払い除けるのが億劫に感じる事が多い。
それと同時に視界を閉ざしたい衝動に駆られている。
視界を閉ざす事が、コイツにとっては嫌な事なんじゃないか、そんな気がするからだ。
俺も、嫌なモノを見ずに済む。
いっそ、こんな目なんか、潰れてしまえばいいのに。
今もそんな事を考えながら、狭い休憩室で買って来たおにぎりを食べている。機械的に咀嚼し、味も分からぬままお茶で流し込む。そんな食事が常だった。
「え?本町にパワースポット?」
「らしいぜ。しかも神社や寺じゃなくってさ、ただのビルだってよ」
背後でデザイン部門の2人がそんな話をしている。
「屋上に祠でもあんの?」
「そうらしいけど、時々しか現れないって噂」
「は?なんだよそれ」
「だから噂だって」
「注目されたい誰かさんの作り話じゃないの?」
「誰かって都岡だろ?オレもそう思ってたんだけどさ、鯉滝さんまでその話知っててさ。しかも彼女、見た事あるって」
都岡が誰かは知らないが、鯉滝は経理部の女性だ。何かと声をかけてくるので覚えている。
食べ終わったが、知っている人物の名前が出たせいで、立つのをやめてしばし耳を傾ける。
「高くないビルだから、他のビルから見おろした誰かが見たんだろ。人が屋上にいるな〜って見てたら、いつの間にか祠みたいなのがあったって。鯉滝さんは祠だけ見たって言ってたっけ」
「ふーん。それで、どんなパワーがあるんだよ」
「さあ?他の情報ない」
「んだよそれ」
「いて」
「パワーっていうより、ミステリースポットじゃねーか」
それ以降は関係ない話題に移行したようだったので、ゴミを纏めて席を立った。
残業が長引いたある日、俺は職場から徒歩で自宅に向かっていた。
中心地からは西にあるマンションだったが、食事をこの辺りで済ませようとして、店を探しながらの帰宅だった。
最近では自分の身の回りの事、全てが億劫だった。全てにおいて気力がなく、自宅も散らかり放題。会社の人に迷惑をかけない程度に洗濯し、倒れないように食べる。コイツに夜中起こされないように、体力が尽きるまで起きて気絶するように寝る。
そんな毎日を送っていた。
「意外と、店がない」
中央大通りを越えたあたりだった。
本町という3つの線が乗り入れている地下鉄の駅前だが、そのわりには閑散とした路地だ。
西と東で、まるで景色が違う。
ふと目が灰色を捉えた。
ビルの合間に、コンクリートの壁がチラリと見えている。
灰色のその色は、夜の灯りの中で不思議と目を惹く。光っているわけでもないし、よくあるコンクリート打ちっぱなしのビルに見える。
それなのに、目がそこから動かせない。
ふと、デザイナー達の噂話を思い出した。
ここから屋上は見えない。でも、気になる。
何があるのか確かめたくなって足を向けた。
2分ほど歩き、そのビルの前まできた。
マンションの様な、テナントの様なビルだ。
統一されたテナントの看板が連なり、中を覗くとシンプルだけど洒落た建物だった。
様子を伺っていると、オートロックのガラス戸が開き、中から人が出てくる。
軽く会釈されたので、どこかのテナントの人だろう。
オートロックの扉が閉まる直前にロビーへ入り、設置されたテーブルと椅子の一つに歩み寄る。
鞄を置いて、椅子に腰をおろすと、安堵のため息が出た。
なぜか、ここは明るい気配で満ちている。
安心できると、そう思った。
ふと、今日も肩に乗っているであろうソイツは、どんな表情をしているのだろうかと思って、視線を彷徨わせる。
「いない……?」
さっきまでいたのに、いつの間にかいない。
おかしい、そう思うのに、居心地が良くて立てなかった。
アイツが何かするんじゃないかという不安と、もう少しこの場に留まっていたい感情が渦巻いている。
「ここで寝るわけにもいかないし」
俺は1時間くらい、その場でぼんやり過ごした後、ようやく建物から出た。
「!」
オートロックのガラス戸付近で、ソイツは俺を待っていた。
何をしていたのか、忌々しげに睨みつけてくる。
幾分か気力が回復していた俺は、ソイツを無視して歩き始めた。
その建物を知ってからというもの、俺は1つの事で頭がいっぱいになった。
【安全に失明する】
薬品で安全に失明するにはどうしたら良いんだろう。視界が閉ざされれば、もう嫌なものを見ずにすむ。
あの安全圏でなら、アイツに邪魔されず確実に失明できる。
本当は毎日でも通いたいが、アイツにそれを悟らせるわけにはいかない。決行まで、近づかないようにしよう。
朝も昼もその事で頭がいっぱいになった。
劇薬すぎてもダメだし、全く効果がないのも痛いだけで意味がない。
そんなある日、自席で作業していると同僚の雑談が耳に入ってきた。
「それで、そいつ、痛いの我慢して放っておいたらしいんだ。そのせいで、片方の目がほとんど見えなくなったらしいぜ」
「うわ、最悪。薬品なんて危ないに決まってるのに。我慢強いのも考えもんだな」
俺が欲しい情報がそこにある、そんな気がした。
「ちょっといいかな」
「あ、ごめん、仕事中に。気が散った?」
「いや。俺もその話、聞きたいなと思って」
あまり積極的に人と関わらない印象が強かったのか、驚かれたが薬品が何かは分かった。
その薬品を手に入れ決行すると、仕事を失うかもしれないとか、教えてくれた同僚が嫌な気分になるかもしれないとか、そんな事はすでに考えられない状態だった。
妄執のような感覚に近い。
失明するという事が、何かの希望であるような気さえしていた。
日曜日、俺は朝から本町のあの建物にいた。
椅子に座って薬品を取り出し、はたと固まる。
本当に、これでいいのか?
視力を失う事が俺の望みなのか?
小瓶を握りしめた手が、小刻みに震えている。
「ふぅ」
とりあえず、深呼吸だ。
数回繰り返すと、目を開けて辺りを見回す。
「やっぱりここは、守られているような気がする」
1人、そう呟き、自分が握りしめている物に視線を落とす。
この薬品で、見たくないものから解放される。失明は怖いけど、自分のせいで起きる残酷な光景を見続けるくらいなら……
蓋をあける手が震えていたが、なんとか顔の上に薬品を持ってきた。
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「ちょっと、あんた」
長身の男が、何もない空間に声をかける。
怨霊は元から大きい目を、さらに大きくして振り返った。
訝しげな表情の後、ボタボタと穢れを垂れ流し、男に近寄ろうと動く。
「結界の入り口で穢れを撒き散らさないで」
止まれとでも言いたげな手が、怨霊の前に出された。怨霊はビクリとして動きを止める。
「グロくて苦手なのよね、こういうやつ。美しくないモノなんて見たくも無いのに、ほんっと嫌ね」
手を翳したままの男は、少しだけ怨霊に近づく。やがて青い光が迸り、光が収まる頃には怨霊の姿は消えていた。