怨霊 その3
「あら、おかえりなさい」
玄関の少し手前で、グレープフルーツと包丁を手に持った母が立っていた。
フルーツを切るために持っていると分かっているのに、足が勝手に後ろに下がる。
「あら」
母の表情が変わり、目線が俺を通り抜ける。
はっとなって背後を見ると、目を見開いて固まっているゲッカ様の顔があった。
額にうっすら汗が滲み出ている。
ヤバい。
本能的にそう思った俺は、ゲッカ様の肩を押して玄関のドアを閉めた。
「会長が置き去りに!」
焦った口調のゲッカ様に言われて、慌ててドアを薄く開ける。
トッという軽い音が聞こえた。
それと同時に、押される感触。天地が逆になり、そのまま後ろに倒れ込む。
視界の端に転げ出る会長の姿と、ドアを押さえるゲッカ様の姿が垣間見える。
何がどうなったのか分からないまま、急いで立ち上がり会長を見た。
「会長!」
それ以上言葉にならなかった。
頭部の側面が切れているのか、額の右半分は赤く、右目を伝って涙のように血が滴っている。血は顎からポタポタ落ち続けていたが、会長は俺を見て大丈夫だと言った。
「ズキズキするけど、多分……そんなに深くない。でも、ちょっと怖いから、後で確認して」
玄関ドアを押さえたまま、情けない口調をわざと作って言う会長。
俺は同じようにドアに手を置いて頷いた。
中からは体当たりでもしているのか、時々、ドンっと大きな音がしている。
押されるような力が加わり、3人で必死に開けまいとしていた。
ややして、音が急に止んだ。代わりに、ぐっと静かに扉は押されている。
「会長、中で何があったんですか。母は、会長に何をしたんですか」
俺は力を抜かないように注意しながら、隣の会長に尋ねた。
「私のせいよ」
答えたのは会長ではなく、ゲッカ様の方だった。
「私を狙ったのだと思う」
「そっかぁ……ゲッカ様の盾になれたのなら本望です」
軽い口調を崩さない会長はそう言って笑ったが、俺はじっとその目を見た。俺を気遣って、痛いとか、怖いとか、我慢して言わないようにしていると思ったからだ。
中から押す力がふっとなくなった。
全員が顔を見合わせ、中へ注意を向けたが何の反応もない。滴る血が気になったのか、会長はすまんと言って1人ドアから離れ、自分の顎を拭った。
手についた血を見て、その多さに驚いた様子を見せる。
ゲッカ様もドアから離れて、ハンカチを出して会長に近寄った。
傷口を確認していたゲッカ様は、ハンカチを会長の頭部側面にあてて、そっと押さえるようにして言う。
「頭皮だけみたい。骨とか見えていないし、血以外の液体も漏れていないようだから、大丈夫だと思うわ」
それを聞いて少し安心した。中の様子は気になりつつも、俺は扉にもたれて開けられないよう負荷をかけながら質問する。
「会長、教えてください。母は、あなたに何をしたんですか」
「……俺にもよく分からない。多分、包丁を投げられたんだと思う。そんな感じの動作で頭が切れてんだから、きっと間違いないだろうけど、ちゃんと見えなかった」
想像していた答えだったが、やはりそれなりにショックだった。
今までも物を投げつけてくることはあったが、大抵の場合小物だ。
口紅やブラシ、名称のよく分からないメイク道具が主で、花瓶のような重たい物や、刃物のような危険な物は一度もない。
俺は2人との距離を測り、意識をドアの中に向けた。素早く動けば、俺だけが中に入れる距離だ。息を静かに吸い込むと、ゲッカ様が会長の傷に再度注目する瞬間を待った。
その瞬間はすぐにやってきた。
俺は出来る限り素早く動いて、1人家の中に滑り込もうとした。
「バレバレだって」
会長の足がドアに掛かっているのを見て、企みが失敗に終わった悔しさと同時に安堵する。
「何かあった時のために開けていた方が……」
ドアを開けて、中の様子を伺う会長の言葉が途切れ、俺はその目線を追った。
「え……?」
横向きに倒れている母。
大皿くらいの血溜まりに、胸に刺さったままの包丁。
あまりの光景に理解が追いつかない。
動けない俺の代わりに、会長が母へ駆け寄った。
「触っちゃダメ!」
ゲッカ様の声に、俺は動きを取り戻し、会長は動きを止めた。
「まだ生きてるわ。早く救急車を呼んで。刃物を抜いたら、さらに出血するかもしれない。状況を説明して、どうしたら良いのか指示をもらうべきよ」
「ごもっとも。電話借りるぞ」
会長はそう言って素早く動いた。
「上がらせてもらうわね」
ゲッカ様はそう言うと、俺の了承を待たずに奥へ進んだ。
「よし、救急車手配した。やっぱり触らないようにって。それじゃあ、後頼むな」
え、と顔を上げて会長を見た。
会長は血の出ている場所を指差して笑う。
「いない方がいいと思う。おふくろさんに変な疑いかけられんの、嫌だろ?」
申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちが溢れて、思わず泣きそうだった。
「そんな顔すんなよ。じゃな」
会長はそう言って、笑顔のまま帰って行った。
「いないわ。さっきまでいたのに、気配が消えた」
狡猾やつ、と悔しそうに呟きながら、ゲッカ様が戻ってきた。
「さっきまで、気配があったんですか?」
「あなたのお母さんに取り憑いていたのよ。随分融合していたわね」
「融合?俺には見えなかった」
「本当に見てない?よく思い出して」
見えなくなった時から、いなくなったのだと思っていた。
いや、自分に言い聞かせていた。
本当はそうじゃない事を、認めたくなかっただけかもしれない。
「時々、母の顔が、アイツに見えることがあったんです」
ゲッカ様は黙って頷いた。
「性格が変わってきて、でもそれって、火傷のせいかもしれないし、何かの病気かもしれない。だから、アイツの顔に見えるなんてこと、絶対にないって……そう思ってました」
「自我があって狡猾だわ。融合した怨霊が、こんなに素早く離れるなんて聞いたことないけど、さっき外からでも感じた奴の気配が、今はないの」
最悪の事態を想定するのが怖かった。でも、それがこの結果を招いたのだとすると、考えておかねばならない気がした。
「怨霊が、取り憑いた人から離れるのって、どういう時ですか?」
その問いに、ゲッカ様は嫌そうな顔をして黙った。
俺も黙ったまま、しばらく時間が過ぎる。
しばらくすると、救急車のサイレンが聞こえてきて、家の前で止まった。
静まりかえった病院の待合室で、ぼんやりと天井を見上げる。
俺はゲッカ様に、大丈夫だから1人にして欲しいと言って帰ってもらった。
取り憑いた怨霊が人から離れるのは、その人が死んだ時なんじゃないか?
その問いに対する答えは、彼女の表情と、この状況で明らかだ。
涙は出なかった。
なんとなく、こうなるかもしれないと、心の奥底で分かっていたような気がする。認めたくなくて、考えないようにしていたが、目を逸らしても勝手に理解が進む感覚だ。
何もかも全部、無かった事にしたい。目を閉ざして、心を閉ざして、時を止めてしまいたい。
「そんなの、無理か」
1人呟くと顔を天井から戻す。
ふと、視界の右端に動くもの。
それに合わせて顔を右に向けたが、そこには誰も立っていない。
代わりにガラスに映った自分の、疲れた顔があった。
こんな疲れた顔をしてたのかと、ガラスをしばし眺める。ふっと、何かまた動いた。
眉を顰めてガラスを見る俺の肩に、アイツが乗っていた。
ガタッと音を立てて立ち上がる。長椅子が僅かにズレて斜めになった。
「今度は、俺に……」
いや、それよりもどうやって?
こいつは、今までどこにいたんだ。
俺はともかく、ゲッカ様にも見えなかったのだから、一時的とはいえ、離れていたはずだ。
それがどうやって、自宅でもないここで、俺の肩に乗っているんだ?
どうやって俺を見つけたんだ。
振り払うように、体を左右に強く振る。闇雲に振って再度ガラスを見ると、そいつは少し離れた所に飛ばされたように転がっていた。
ソイツから距離をとるべく、俺は急いでその場を離れた。
急いで家に逃げ帰り、効果があるか分からないが塩を巻いて鍵を閉める。
しかし効果など欠片もなく、ソイツは翌日には肩に乗っていた。
寝起きでぼんやり歯を磨いている時だった。口をすすいで顔を上げたその鏡の中に、ニタリと笑う顔。
やっぱりという思いと同時に、むかっとした。
「お前なんかに構ってる時間はないんだよ」
自分の右にある顔を、裏拳で叩くようにした。
「ぎゃっ」
驚いた事に、ソイツは悲鳴を上げると俺から転げ落ちた。
母の時と違って、常時俺に乗っかれるわけじゃないようだ。
転げ落ちたのを幸いに、ソイツを蹴ってみようと足を振り上げる。頭を抱えて恐怖のポーズを取ったソイツを、怒りを込めて蹴ってやろうと思った。
しかし、俺の足は宙を蹴るだけに終わる。ソイツに触れることが出来なくなっていた。
いや、むしろ、さっき触れる事ができたのが偶然の可能性もある。母に乗っている時は、一度も触れられなかったのだから。
その日から、俺とコイツの攻防戦が始まった。
どうやらコイツは、寝ている間に俺に乗っかりに来るらしい。そのため、朝の日課は、コイツの確認と振り落とす作業からだ。
振り落とす前に、殴って気絶させる事も、時々は成功した。
失敗すれば、大学にコイツを連れていく事になる。振り落としても、すぐに後をついてくるからだ。
母のせいで、いや、コイツのせいで怪我を負わせた会長とは、あれから疎遠になっている。
俺には合わせる顔がないし、会長はたぶん気遣ってくれてるんだと思う。
時々、大学内で遭遇するが、軽い挨拶を交わす程度だ。
ゲッカ様には学校で会った事がないので、もしかすると別の大学なのかもしれない。
今日はコイツもいるし、見たら驚くだろうな。
そんな事を考えていたからだろうか、会長がゲッカ様を連れて俺の前に現れた時には、どんな顔をしていいのか分からなかった。
「私には無理だけど、弟なら、祓えるかもしれない」
ゲッカ様はそう言って、心配そうに俺に乗っているモノに目を向けた。
「弟さん?」
「ちゃんと修行しているし、力は強いの」
そうか、そこを頼るのもありだな。
俺はそう思いながら立ち上がり、肩を大きく回して乗っているモノを投げた。投げるだけでは気絶などしないのだが、今回はどこかにぶつかったのか、そのまま動かなくなった。
「え!」
驚いた様子のゲッカ様は、投げられたモノを見てしばし絶句していた。ややして、大きな息を吐き出して言う。
「よかった。その感じなら、自分でも祓えそうね」
「俺が?自分で?」
「ええ。投げて飛ばす人なんて初めて見たわ」
そうか。
自分で撃退できるのなら、やってみたい。
コイツには母を苦しめられた事だし、できる事なら復習してやりたい。
「やってみる。コイツは絶対に許さない」
「お、そのいきだ!」
黙って聴いていた会長も、拳を上げて応援してくれる。
「会長……こんな俺のために、ありがとうございます。その……傷、大丈夫ですか?」
「おう。見る?ラインハゲ」
頷くと、会長は笑って髪の一部を持ち上げる。
横一直線の、みみず腫れのような頭皮が見えた。
「まだ、痛みますか?」
「そうでもない」
気遣いからそう言ったのだとすぐに分かった。まだ痛いのだ。
なのに一言も責めず、心配までしてくれる会長は、本当に良い人なんだと思った。
「落ち着いたら、オカルト研究会にも入りますね。存続できるように、俺も力を尽くします」
「今入ってくれても構わないんだけど、まさにオカルト現象してんだし。あ、でも、危険?」
会長は俺ではなくゲッカ様に聞いた。
ゲッカ様は会長に大きく頷いて、次に俺を見て口を開く。
「私も、家の人に聞いてみる。何かいい方法があるかもしれない」
「期待せずに待ってますよ」
本当は少し期待していたんだけど、あまり頼るのは情けない気がしてそう言った。
それから俺達は、ソイツがまだ気を失っている事を確認しつつ、その場を離れた。
できれば、そのまま家に戻ってこなければ良いのにと、淡い期待を抱きながら。