怨霊 その1
男は苦悩していた。
小瓶を握りしめたその手は、小刻みに震えている。
「ふぅ」
落ち着けようというのか、手を胸にあてて目を閉じ、深呼吸を繰り返す。
ゆっくり目を開けた男は辺りを見回した。
ここが噂に聞いていた場所だと思いたい。
「やっぱり守られているような気がする」
1人そう呟き、自分が握りしめている物に視線を落とす。
目に入れば失明すると聞いた、劇物だ。これも噂と言えなくもない。
自分はなんと頼りない情報を元に動いているのか。
震える手で蓋をあけ、手を顔の上に持ってくる。
透明な液体が小瓶から離れようとしていた。
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俺はどうやら人ならざるものが見える。
だか触れる事ができないし、祓うこともできない。
何もできない無力感って、どんなものか分かるか?
人ならざるものが起こす事故を、止めることも出来ない。
目の前で刈り取られる命を、なす術もなく見つめているだけだ。
電車の前で押される背中、横断歩道で引っ掛けられる足、アイロンが勝手に動いて腕に倒れてくるのを、驚いて見ているだけ。
いつも、いつも、「あっ」と思った時には手遅れだ。
それならどうして見えるんだろう。
こんな意味ない目、持ってる必要あるんだろうか。
小さい頃、母親がその被害に遭うのを見た。
そいつが何故、家に居たのか、なんのためにそれをするのか、何ひとつ分からなかったが、気がついたら台所に立つ母の肩や顔付近に絡みつく様に存在していた。
頭髪のほとんどない頭に落ち窪んでいるくせにギョロリとした目。通常の人から比べれば3倍は大きい目だった。
骨と皮だけの手足と、それを繋いでいるはずの胴体は見え隠れして全貌がわからない。
そいつが時々、母にちょっかいを出そうとしている事に気がついた俺は、何度か止めようとした事がある。
でもその度に母が先に気づき、危ないから台所には入ってくるなと怒られ、追い出された。
俺が怒られるとソイツは嬉しそうに、ニタっとした嫌な笑みを浮かべる。
ソイツを喜ばせるのは嫌だったので、何か見えても口に出すことを躊躇う様になった。
母は元々、とても注意深い人だったので、俺が何も言わなくても大丈夫だと自分に言い聞かせていたのかもしれない。
これは自分が実際にやり始めるまで分からなかった事だが、料理は色んな事を同時進行していく、注意力が分散する作業が多い。効率良く進めて行こうとして、火傷しそうになった事が自分自身、何度もあった。
しかし母は、危ない事をするくらいなら時間をかけてでも回避する、そんな性格だった。
それなのに、煮立った油を頭からかぶるという、恐ろしい事が起きた。
もちろん、俺の目の前で。
母の認識としては、振り返った瞬間に手が鍋に当たり、跳ね上がった油で火傷した、だった。
しかし俺が見ていた状況は、かなり違う。
母の肩に乗っていた奴が、拳で鍋の取っ手を上から叩いたんだ。
母はその時に鳴った、ガン、という音に反応しただけ。
ソイツが何かしようとしていると思っていても、それを母に告げる術を持っていなかった。
母はその【故意の】事故で顎の右側面と、右腕に一生残る傷跡を負う。
そこから、母の性格は徐々に変わっていった。火傷の痕を気にする様になり、自信も失い、明るく笑う事もなくなった。
そして俺は母にまとわりつく、ソイツの高笑いが日に日に大きくなって行くのを、ただ黙って見ていた。
手を伸ばしても触れることができない。でも、目だけは合うんだ。
俺が手を伸ばすと、睨みつけてくる。
血走った大きな目を、ギョロリとこちらに向けて、眉間に皺を作る。
それは思わず肩が竦むような形相だった。それでも、そのまま見過ごすわけにはいかず、見えている時に手を伸ばしては睨まれる事を繰り返す毎日。
手が届いたのは数回だが、触れられた事は一度もない。見えているのに、そこには何も存在しないかのように、手をすり抜けていく。
その度に、ソイツは耳障りな声で笑う。
まるで、母から楽しいという感情を吸い取って、笑っているようだ。
俺が高校生の頃は、すでに笑顔はすっかり途絶えた。
唯一の例外が窓際にあるサンキャッチャーが作り出す、虹色の光を見ている時だけだ。
光の拡散によりできる光の粒を、じっと見つめて薄く微笑む。
東から光が差し込むわずかな時間だけ。
その程度だ。
俺はそんな笑わなくなった母が心配で、高校も大学も家から一番近い公立に進学した。
仕事もなるべく近所で出来る様に考えた結果、教員免許を取得しようと学部を選んだ。
「でも、睨んでくるってことは、お前がソイツに触れる可能性があるってことじゃないの?」
大学の時、俺の噂を聞きつけたゼミの仲間が、オカルト研究会の会長を紹介してきた。
1個上のオカルトマニアで、熱く語られる内容は何1つ分からなかったし、心霊現象の具体例なる物を聞いても、何もピンとこなかったが、自分の身の回りに起きている現象を話すと信じてもらえた。
「会長はこういうの、見えたりするんですか?」
俺が机に乗っている、心霊本を指差して聞くと、会長は笑って答える。
「見たいなぁ、一回くらいは」
「ないんですね」
「残念ながらなぁ。こんなに信じているのに。世の中、不公平だよな」
見える人と、見えない人との違いってなんだろう。この時、初めてこの疑問に行き当たった。
条件さえ揃えば、みんな見えるのだと思っていたからだ。
「今から、見にきます?」
「え?」
「母に付いてるの、今じゃずっと見えてますよ」
「マジ?お前がいいなら、是非とも」
そんな会話があって、俺は会長と自宅に向かった。
「いらっしゃい」
にこやかな母が出迎えてくれて、俺は面食らってしまった。
笑顔など、社交辞令でも見せた事がないのに、どうして。
そう思って異変に気がつく。
「大学のお友達?」
「あ、はい。お邪魔しまーす。お買い物ですか?」
「ええ、ゆっくりしていってね」
バタンと閉まるドアを唖然と見ていた。
「愛想いいじゃん、おふくろさん」
「はい……」
「でも残念。やっぱ、見えなかったわ」
俺は会長を自室へ招き、冷蔵庫に入っていたお茶を、湯呑みに入れて戻った。
部屋を興味深そうに見ていた会長は、俺の顔を見て首を傾げる。
「どした?」
「いませんでした」
「え?いつも憑いてるってやつ?」
「はい。何も見えませんでした」
この人は本当は霊感があって、俺を試しているのかもしれない。そう考えた事もあった。
だから、何も見えないと告げた時、会長が何と言ってくるのか、聞くのが怖い。
しかし、会長は表情を変えず、
「そっか」
と言って、俺の持ってきた湯呑みを手に取り、一口飲んだ。
「よかったじゃん。お祓いでも行ったのかな」
そう言うと、再度湯呑みに口をつけ、飲み干して俺を見る。
「なんだ?嬉しくないのか?」
言われて、俺は少し考える。
会長に申し訳なく思う気持ちとは別にもう1つ、得体の知れない不安の原因を探ろうと、口を開いた。
「今日は俺が体調悪くて、たまたま見れなかっただけかもしれません。小さい頃はわりとあったんです。見える日と見えない日があって、事故の時はたまたま見えただけで」
そうだ、それなら、まだアイツは付いたままだ。
「お祓いとかも、何度か行ってるんです。有名なところを探して、祈祷してもらった事もあります。正統派から、怪しいのまで」
「でも、効果なかったわけか」
「はい。祈祷してもらうと、少しの間見ない事もあったので、今回もその可能性が……」
祈祷に1人で行くとは思えないが、それを会長に言ったところで仕方のない事だろう。
「それなら、また見えるようになったら教えてもらおうかな」
俺はそうですねと愛想笑いしながら、不安を心の奥底に押し込んだ。
その日を境に、母は様変わりしていった。変なモノが見える事はなくなったが、俺の知っている母からは、日を追うごとに離れて行く。
内向的で家に篭りがちだったのに、美容に興味を持ち始め、毎日のように買い物に出ていく。
新色の口紅や服などを買ってきては、鏡の前で試す。しかし、今まで化粧などしてこなかったせいか、上手く行かない様だった。
特に目の周りをどうにかしたいらしく、ケバケバしくて見ていられない。
はみ出したり、色が濃すぎたりして、お世辞にも上手とは言い難い。
それは本人も自覚しているのか、せっかく作った顔を、ティシュで擦って拭う。上手くいかなかくて腹立たしいのか、擦れた肌が赤くなっても、力いっぱい拭う様子は少し狂気じみて怖い。
肌が痛むのを気にしていないのかと思ったが、時には火傷を確認して癇癪を起こし、物を投げたり喚いたりする。
怒って、喚いて、泣き叫んで、疲れて寝る。
心配になった俺は、今度はお祓いではなく、病院に連れていく事になった。
脳の病気か、心の病気を疑ったが、はっきりとした原因は分からなかった。
母は病院ではとても大人しく、良識のある人のように振る舞うからだ。行く場所によっては、俺の虐待を疑われたくらいだ。
そんな日々が続くと、心配と同時に逃げ出したくもなる。
癇癪に付き合うのも心配で心を擦り減らすのも、疲れ果てた。
寺もダメ、神社もダメ、奇跡宗教もダメ、霊能者もダメ、病院もダメ、カウンセリングもダメ。
駄目、ダメ、だめ、ダメダメダメダメダメ。
もう、嫌だ。