■二〇二七年一月二五日の出来事
登場人物:ティユイ、キリ
京都市御所からほど近いところの通りに『物部』という表札のかかった一軒家がある。二階建てのよくある造りだ。
カーポートには新車のような黄色いコンパクトカーが一台。正面玄関をくぐると上がり口に女性用のローファーが一足、綺麗に揃えてある。
一階のダイニングキッチンには冷蔵庫や電子レンジがあり、続きのロビーにはテーブルが一つと椅子が四つ。そこに大型のテレビが配置してある。
冷蔵庫には“Strider”、テレビには“Bahamut”、電子レンジには“Noldor”というブランドロゴがそれぞれ綴られている。
テーブルの上には一つのプレート。ハムエッグ、サラダ、あとは焼いていないトーストが一枚。脇にメモが貼ってあって『先に出ています。母より』と書かれていた。
階段を上っていくと三部屋ある。一部屋目に入るとシーツに染みもしわ一つないダブルベッド。雰囲気からして夫婦の寝室かもしれない。
隣の部屋には勉強机とベッド。こちらも使用した形跡はない一方で、埃も落ちていない。掃除は行き届いているようだ。
向かって更に奥。三部屋目のドアには『ゆい』というネームプレートが掛けてある。
中には二四インチのテレビにゲーム機が接続してある。床にはクッションが二つと丸テーブル。勉強机には開いたノートと充電中のタブレットにメガネ。
枕元にあるスマホのディスプレイには二〇二七年一月二五日が表示されている。
時間が六時三〇分に切り替わった瞬間にアラームが鳴りだす。
部屋の暖房が徐々に効きはじめたようで、部屋が暖かくなってきていた。
それからベッド上の掛け布団の中がもぞもぞと動きだす。
緩慢な動きで布団から右腕が這い出てくる。
「ん~……」
くぐもった声が布団の中から漏れる。それは銀の鈴のような声だった。
掛け布団が山型になり、そこから顔だけがひょっこり現れる。
寝ぼけ眼。視線の先は扉があるだけだ。だが、少女は扉を見ているわけではなかった。
スマホに野暮ったく手を伸ばして、最初にアラームを切る。
家族と友人から来たメッセージの通知を半目で確認していく。
両親は先に出るということと、朝食の準備がしてあるという通知。
妹からは朝練があるから先に出るという通知。
女友達からは「もう起きた?」という通知。
カーテンで締め切られた部屋は薄暗い。ふと少女は外の景色が気になった。それにアラームもそろそろ止めたい。
少女はのっそりとした動作で起き上がる。ミディアムボブの髪が寝癖ではねたり、うねったりしている。しかし、誰も見ていないのだから気にする必要はない。
小顔からはしたなくも口を大きく開けてあくびをする。左手は口元を抑えて、右腕を伸ばす。
ルームウェアは胸元が苦しいのか第二ボタンまで外されており、下着もつけていない。白い肌が体の動きに合わせてチラリとはだける、あるいは揺れる。
床に右の足からそろりとした動作で下ろす。足の下りた床は板場でひんやりと冷たかった。
立ちあがると少女は顔を窓の方に向けて、左手でカーテン裾を掴んで垣間見る。
雪がはらはらと街に降りそそぐ。白く染まる屋根から本来の色がちらちらと見える。おそらく深夜から降り出したのだろう。
少女はチェストの中からブラとインナーを取りだして、ルームウェアをいそいそと脱ぎはじめる。ほぼ半裸になった少女の白い肌からところどころ痣が垣間見えた。
それから手早い動作で壁掛けしてあったセーラー服を着て、黒色で厚めのタイツを履く。
着替えが終われば机の上のものを片付けて、メガネを手に取る。
階段を下りて洗面所へ向かう。そこにはコップに歯ブラシが一本だけ置いてある。鏡はピカピカで周辺も掃除が行き届いている。行き届きすぎて生活感があまり感じられないほどに。
顔を洗い歯を磨く。髪をセットするといよいよメガネをかけて身支度は完了する。あとは朝食を摂るためにダイニングへ向かう。
「お父さんとお母さんはいつも早いですねぇ」
少女はつぶやくと椅子に座り「いただきます」を言って朝食をはじめる。
「めいちゃんは朝練かぁ。一緒に学校行きたかったのに」
食べ終わると使った食器はキッチンの洗い場へ持っていく。洗って乾かすまでを彼女は自身で行う。
リビングは驚くほど静かだった。外からも喧噪が何一つ聞こえてこない。どこもかしこも汚れ一つないので生活感がまるで感じられない。そのせいか余計に空間が余っているような印象であった。
少女はリュックを背負ってロングコートを着る。それからマフラーを首に巻く。玄関でローファーに履き替えると通学の支度は完了だ。
それからそっと玄関のドアノブに手を触れて、ゆっくりと開け放つ。
吐く息は白い。
白雪が牡丹の花びらのように舞い散り地面を真っ白に染め上げようとするも一部はほろりと溶けてしまう。それで出来上がるのはまだら模様の絨毯である。
通りは車が一台も走っていないうえに人の姿もなかった。そうだというのに信号機は役目を全うしようと規則正しく赤と青を繰り返している。だが、少女にそれを気にした様子はない。
雪の絨毯を歩くと響くぎゅっぎゅっという音。
悪くない。そう感じたのだろうか。悪天候に違いはないのだが、少女の口元は少し緩んでいる。
彼女が記憶する中でも久々の雪景色だった。
以前、見たのはいつだったか記憶がうっすら陽炎のようにぼんやりとしている。
此方より幻想へ。
彼方より現実へ。
現実と幻想の境界について謳われたし伝承の詩。その一文。
この雪は現実のようにあるが、幻想のようにもある。
自身の吐く白い息はたしかに感じるというのに。
何故、こうも儚く感じるのか。
建礼門の前に黒い傘を差して佇む少年が一人。学ラン姿にマフラーを首に巻いている。
少女を見るや手を振ってくる。少女は口をほころばせると少年へ向かって早足になる。
「桐君、おはようございます」
少女は立ち止まって姿勢を正すと少年に向かって会釈をする。それでいて別段かしこまった感じがないのは彼女の物腰の柔らかさ故だろうか。
「おはよう由衣」
一方の少年は少しフランクな感じだった。どちらかというとこの場合は少女――由衣のほうが異質なのだろう。
「待っててくれたんですか?」
少年――桐の顔が赤い。長らく待たせたのではないだろうかと由衣は申し訳なさそうに訊ねる。
「着いたのは五分前。今日はさすがに自転車は使えないからさ。ここまで歩きだったんだ」
おかげでいつもより早く家を出ないといけなかったということのようだ。
「もう。待つなら連絡くださいね」
由衣は頬を膨らませる。
「ごめんごめん。でも、どうせなら待つ方を選ばせてくれよ」
「次は私が待つ方になりますから」
「じゃあ、賭けてみるか。次の待ち合わせで後から来た方は相手のお願いを一つ聞く」
「い、いいですよ。やりましょう」
由衣は一瞬ひるんだ。言ったもののあまり自信はなさそうだ。
桐は半ば冗談のつもりだったのだろう。由衣の姿を見て半笑いだった。
「ちなみに現地到着は待ち合わせ時間の五分前まで。それより早く来るのは反則な」
「受けて立ちます」
由衣の瞳に火がつく。勝負事は好きなのかも知れない。
「じゃあ、約束な」
桐は「行こうか」と言うと二人は東側にある清和院御門を抜けて、南へ下る。
雪は相変わらず降り続けている。桐は傘に入っている自分のスペースを空けて、由衣に入るよう促した。
「ありがとうございます」
「トーゼントーゼン」と桐は軽い口調で返す。
お言葉に甘えた由衣は桐の傘に入る。
由衣の身長は一五三センチ、桐は一六五センチある。そんな身長差が由衣にとっては心地良いようで自然と表情が綻んでいく。
二人は校門に入るも学生や教員の姿が一切ない。あたりは静寂に沈んでいた。
由衣が一瞬、桐の顔を見上げると、神妙な面持ちになっている。
「桐君、気分でも悪いんですか?」
「そんなんじゃないよ」
桐は由衣に微笑を向ける。それは彼女を安心させるためのものに思えた。
下駄箱で上履きに履き替えて二人は並んで廊下を歩く。廊下にもやはり人影はない。
桐は緊張した面持ちなのに対して、由衣の方は至って明るい表情だった。
別れ道に差しかかると桐の姿が消える。
だが、由衣はそれに対して違和感を覚えることはない。
――教室に行かないと。
なぜ、そう思ったのか。それは彼女にもわからなかった。
ちょっとずつ変わっていきます。
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