■夏の残影
自転車というものをキリは初めて知る。乗れるようになるまでにコツが必要だった。ちょうど休暇で時間もたっぷりあったので、練習時間もケイカという指導者もいた。
「ふへぇ……」
宿舎から少し離れたところ。浜辺のほうまで来ていた。自転車は木陰に置いていまは涼んでいる。
「もう、だらしないなぁ」
ケイカがドリンクの入ったボトルを差しだしてくる。
「ありがと。……俺が住んでいたところは寒い日が多かったんだよ」
暑いのは苦手なのだとキリは弁明する。
「そうなんだ。今夜でもどんなところか教えてもらおうかな」
「よさそうだと思ったら行けるように打診してみるけど」
「ほんと?」
ケイカはずいっと顔を近づけてくる。
「ケイカさえよければ俺の実家で預かってもいいかなって思ってるんだ」
「キリの実家……」と神妙な表情でケイカはつぶやいている。
忙しい娘だなとキリはおかしくて吹きだしてしまう。
「もう。私のいた世界だと――」
ケイカはキリの背後に視線が向くと、すぐさまに立ち上がり走りはじめる。
「大丈夫ですか?」
キリが振り向くと男性が倒れている。ケイカは肩を叩きながら意識があるか確認をする。
「ああ……」と男性からしわがれた声が漏れる。
「あっちのベンチまで連れて行こう」
キリがベンチを指さすとケイカが頷き、肩を貸すというよりはほぼ持ちあげる形で連れて行ってしまう。キリの手助けはまったく必要なかった。
(豪腕だな……)怒らせないように気をつけないとと心の底から思うのであった。
男性はいかにもやつれた表情であった。ベンチに横たえるとよろめきながらなんとか起きあがる。
「安静にしないと」ケイカがいたわると男性は制止してくる。
「気遣いは無用だよ、優しいお嬢さん」
キリは男性の様子を見て察する。だが、声のかけようはない。
「私のような人間を見るのは珍しいかい?」
男性は年齢でいうと四〇~五〇の間だろうか。その時点で答えは出ている。ケイカはいたたまれない表情を浮かべている。
「ケイカ、この人は……」
「お嬢さん、私は間もなくクエタの海に還るんだ」
「還る?」とケイカは首を傾げる。
「ケイカのわかりやすい言葉で言うと死ぬってことだよ」
この世界の住人は寿命が四〇~五〇歳である。ある時期に達すると家族のもとを離れて一人になり、一切の飲食をやめてしまう。そして誰に看取られることなく光の粒子となって消えるのだ。
光の粒子とはエーテルに戻り、クエタの海に還元されるということ。
「でも死ぬときって、もっと――」うまくケイカは説明できなかった。だが、心にしこりのようなものを感じてはいる。
「俺たちもよく理解しているわけではないんだ」とキリはケイカの肩にポンと手を置く。理屈ではないと言っているのだ。
「おそらく今日が峠だろうね……」男性の声には力がない。
「少し話をしてもいいかね?」
キリとケイカは互いに顔を見合わせる。
「私には息子と娘がいるんだがね。二人は理由あって幼い頃から互いのことを知らずに生きていた。だからといって私たちもあんなことになるとは思ってはいなかった――」
二人はある日、出会って恋をした。そして互いが兄妹であることを知ってしまったというのだ。
「それからどうなったんですか?」
「賢い二人だ。あきらめたよ。ただね。世間的にその内容が知られてしまってね。立場も危うかった。その息子を救ってくれた女性がいる。感謝してもしきれないよ。私は何も知れやれなかったからよけいにね」
その話を聞いたことがあるような気がしたとキリは思い出そうとする。そういえばこの男性、最近出会った誰かに似ている気がした。
「……長話を聞いてくれてありがとう」
男の体が徐々に透けはじめて、周囲に光の粒子が浮かんで昇りはじめる。男は満ち足りたような笑顔を浮かべて、光へ透けていくのであった。
――◇◇◇――
気がつけばあたりは茜色に染まろうとしていた。自転車は指定の場所に返却して徒歩で二人は宿舎へ向かっていた。
ケイカはキリの右手を両手で握って、やるせない表情で俯き歩いている。
「あなたたちはあれでいいの?」
「俺は怖いよ。このまま自分に出生の秘密を抱えていくのはさ。でも爺ちゃんは知らないほうがいいこともあるって言っていた」
どうあるべきなのか未だわからないでいる。
「親の記憶が引き継がれるって言ってたわよね。私は何だか嫌だな。自分って培うものでしょ」
「生命の解釈違いだな。個は個にあらず、個は全である。生とは瞬く永遠であると」
「……意味がわからないんだけど?」
「俺たちは能力の拡張に他人との繋がりを使うんだ。出生がわからない俺は真っ白のままだろ」
「よくはわからないけど、困っているのはわかる」
ケイカが肩をすくめる。ふとキリが視線を向けると宿舎のほうに明かりが灯っている。その玄関口から走ってくる。
「キリくーん!」
「ティユイ?」近づいてくる意外な声の主にキリは驚く。近づくや否やキリの右腕をがっちりと掴む。
「どうしてここに?」
「キリくんたちの捕虜期間が終了したので迎えに来ました」
ティユイはちらりとケイカに視線を向けて、口元だけ笑みを浮かべながらキリのほうに顔を近づける。
「年下の可愛い娘と過ごせて楽しかったですか? さぞ楽しかったんでしょうねぇ。いえ楽しかったにちがいありません」
「何だか怖いんだけど……」
「キリくんは私が年上だったのを知ってたんですよね?」
有無を言わせぬ迫力にキリは何度も頷く。
「とにかく大事な話があります。いいですね?」
「……はい」
連行されるような形でキリはティユイに宿舎のほうへ連れて行かれる。それをケイカは呆然としながら見送る。
「ケイカさんですね」
「ええ」
癖っ毛の女の子が声をかけてくる。自分と比べてかなり長身の女性である。
「私はカリンといいます。同じ年齢の娘がいると聞いていましたので私もついてきたんですよ」
「え?」本当なのだろうかとケイカはカリンを見あげる。
信じられないというような表情で。一方のカリンは満面の笑みであった。
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