第7話 第二の壁
ブラッドリー・ユリウス・ボーフォールは、ボーフォール家の嫡男として生を受けた。
『王国の盾』とも謳われる、武人家系のボーフォール家に。しかも歴代当主の中でも突出した剣才を持つアーサーを父に持つ――当然、ブラッドリーもその才能を期待されたものだ。
しかし生憎、ブラッドリーにはその才能がなかった。
正確に言えば、剣の腕自体はその辺の騎士よりも上回っていたのだ。血筋に裏打ちされたセンスは、現役の騎士団員が感心するほど。
それでも、父・アーサーと比べたら凡人と言わざるを得ない。
周囲は、アーサーが人間離れしているだけで、ブラッドリーも十分才能があると慰めてはくれたが。
ただ神は、ブラッドリーの剣術に与えるはずだった才能を、すべて頭脳へと振り分けた。
二歳の頃には文字を読めるようになり、家にある大人向けの書物を読み出した。
五歳の頃にはラスガーナ王国の歴史書全二十巻を読破した。
八歳の頃には大陸共通語と魔力循環のコントロールを。
十歳の頃には大陸五カ国の歴史と貴族のプロトコールを。
十二歳の頃には高等算術と経済を。
十三歳の頃には大陸五カ国語と古代語を。
そうして十四歳になる頃には、各家庭教師をして「ブラッドリー様にはもう教えることはございません」と言わしめたほど。
王立学院で履修する内容は、この時点でほぼすべて頭の中に収めてしまったのだ。
ラスガーナの貴族として必要な知識を十五歳未満で身に着けたブラッドリーに、父は笑って言った。
「俺に剣の才能があったように、おまえには優れた頭脳がある。自分の才を生かした方法で、嫡男としてこの家を盛り立てていってほしい」
ボーフォール家の人間だからと、武を極めなくともいい。むしろ領地を維持していくなら、武よりも知を持った者が上に立つ方がよいのだと。
だからブラッドリーは、自分ができることで家を守っていこうと決めたのだ。
ブラッドリーが王立学院に入学する直前のことだ。
父が一人の女の子を連れて帰ってきた。
「この子は、おまえたちの妹のウェンディだ。可愛がって守ってやってくれ」
光り輝くプラチナブロンドに、父そっくりのペイルブルーの瞳――小さな小さな女の子は少し不安げに、それでもしっかりと、ブラッドリーたちに淑女らしい挨拶をした。
「父上……その子は、僕たちと血のつながりがあるのですか?」
目を見れば、父の娘であることが一目瞭然なのは分かっていたが、聞かずにいられなかった。
(いきなり『妹』だと言われても、どうしたらいいのか)
今のままの自分で家を守ってほしいと言われてから、ブラッドリーの人生には光が差し込み、これまでその輝きを守ってきた。より明るく光るよう、努力もしてきた。
しかし今この瞬間、彼の中には困惑の蔦が伸びて絡みついた。疑問が湧けばすぐに解決に邁進してきたが、この困惑はどうしたら消えるのだろうか。
目の前の少女は、瞳を揺らして父を見上げている。
隣にいる弟たちも、戸惑いを隠せないでいる。
「ゆっくりでいいから、仲良くなっていってほしい」
父の言葉に、ブラッドリーはすぐに返事をできなかった。
戸惑いを拭えないままその日を終え、翌日――
朝の身支度を終えたブラッドリーが食堂へ行くと、信じられない光景があった。
「ほらウェンディ、僕の隣においで」
「はい、ドミニクにいさま」
広々とした食堂の真ん中にあるダイニングテーブルの中ほどには、すでにドミニクが座っていて、ウェンディを隣の席に誘導していた。
「ドミ……ニク……?」
たった一晩で、すんなりと妹の存在を認めたかのような様子。まるで生まれた時から兄妹だったと言われても違和感がない。
ブラッドリーとセシルは、それを呆然と見つめていた。
食後にドミニクを呼び止めて問い詰めると、
「だって、妹なんでしょう? だったら僕が守らないと。僕はウェンディの兄様なんだもの」
今まで末っ子だったドミニクに、下のきょうだいができた。しかも女の子だ。父に「守ってやってくれ」と頼まれたこともあり、庇護欲が沸いたのも分からなくはない。
ドミニクは実の母の記憶はまったくない。兄二人から語られる姿しか知らないのだ。だから母親が違う妹を受け入れることに、ブラッドリーたちよりも抵抗感はないのだろう。
ブラッドリーは戸惑っていた。隣を見ると、セシルはこぶしを震わせていた。憤りを押し殺しているようにも見えて、ブラッドリーの胸につかえているものとはまた違う感情を持っているのか。
(どうしたらいいのだろう……)
こればかりは、聡明なブラッドリーにも分からなかった。
ドミニクが受け入れたことが呼び水となったのか、ウェンディは家の中にどんどん居場所を増やしていった。
長らく男性しかいなかったボーフォール家に、女性が増えた。しかも百年振りに生まれた直系女子だ。
お人形さんのように愛らしく、しかも気立てもよいウェンディに、使用人たちもメロメロになった。
今まで男子ばかりの世話をしていたメイドたちは、女の子の可愛らしい服や装飾品を選んだり、身支度を調えるのが楽しくて仕方がないらしい。
使用人たちはウェンディのことをどう思っているのか、何気なくメイド頭のサラに尋ねてみれば、
「ウェンディ様は使用人にも分け隔てなくお優しく、いつも笑顔を絶やさないお可愛らしいお嬢様です。だからメイドの間では、ウェンディ様のお世話は争奪戦が起こるほどの人気です。淑女のマナーはまだまだこれからですが、基本的な所作はすでにおできになります。このお屋敷にいらして数日内には、使用人全員の名前を覚えてくださったほど賢いお方ですので、デビュタントの頃には素晴らしい淑女におなりになりますとも」
と、何故かサラが誇らしげに語っていた。
ブラッドリーはある程度の距離を取りつつ、ウェンディを観察していた。
「ブラッドリーにいさま、おはようございます」
「……あぁ、おはよう」
にっこりと笑って挨拶をされれば、返さないわけにはいかない。
「ブラッドリーにいさまは王立がくいんに、とび級で入られるのですよね。とても頭がよいのだとヤノスからお聞きしました。わたしも、ブラッドリーにいさまのように、かしこい貴族になりたいです」
にいさまのように、とび級はむりだと思いますが……と、ウェンディが笑って言った。家令のヤノスがウェンディに兄三人の情報を嬉々として与えているのだという。
余計なことを……と思わなくもなかったが、抗議するまでもないと受け流した。
「……賢くなりたかったら、本を読むことだ。ボーフォール家には王家に負けないほどの蔵書がある。図書室にはおまえが読めるレベルの本もあるだろう。メイドに言って、何冊か持ってこさせるといい」
「はい! わかりました!」
話題に困ったブラッドリーがなんとなく口にした提案に、ウェンディは素直に頷いた。
数日後、調べ物がしたくて図書室に行くと、そこには先客がいた。
「――マーサ、これはなんてよむの?」
「これはですね、お嬢様。『こくぼうしょう』と読みます。この国を守るために策を施したりする組織ですよ」
どうやらウェンディがメイドのマーサを連れて本を読みに来ているようだ。ブラッドリーは音を立てないよう、自分の目当ての本棚へ向かう。
静かなので、彼女たちの会話が嫌でも耳に入ってくる。
「国のために……」
「それにしてもウェンディお嬢様、随分と難しいご本を読まれているのですね」
「ヤノスに聞いたのだけれど、ブラッドリーにいさまは、しょうらい『こくぼうしょう』に入りたいのですって。だから、にいさまがどんなところではたらくのか、知っておきたいの」
「まぁ……兄上様が希望されているお仕事についてお知りになりたいだなんて、お嬢様は勤勉でいらっしゃるのですね」
「きんべん?」
「一生懸命お勉強をされている、という意味ですよ」
「なら、ブラッドリーにいさまは『とてもきんべん』なのね。わたしよりもいっぱいお勉強されているもの」
「そうでございますね。ブラッドリー様はとても勤勉でいらっしゃいます」
「わたしの……じまんのにいさま。もちろん、セシルにいさまもドミニクにいさまもじまんよ? 早く、どのにいさまとも仲良くなりたいな……」
「ウェンディお嬢様なら、すぐに仲良くなれますよ。大丈夫です」
「ほんとう? そうなったら嬉しい」
そこで会話は中断し、ウェンディは読書に集中した。時折読めない文字をマーサに尋ねながら、彼女にとってはややレベルの高い本を、ゆっくりとではあるが一冊読み終えたようだ。
「……」
ブラッドリーの顔はうっすらと赤らんでいた。
与り知らぬところで褒められ、身の置きどころがなくそわそわしてしまった。
自分は突然現れた妹に戸惑い、気持ち的に持て余していたというのに、ウェンディは三人の兄たちを兄と認め、理解しようと努力しているのだ。
たった四歳の女の子が。
(僕よりも、よっぽど大人だ……)
目の前で、何かがパチンと弾けたような感覚がした。
「ウェンディ……」
極々小さな声で呟いてみる。
小さな小さな、可愛らしい女の子。
確かに血の繋がった、たった一人の妹。
「妹……」
そう呟いた途端、身体の中で急速に膨らんだ温かくふわふわとした何か――ブラッドリーは、それを大切にしてみるのも悪くないと思い始めたのだった。