第2話 兄(おに)のいぬ間に婚約
ボーフォール領の侯爵邸から馬車で三時間ほどの領境に、ジョナス村はあった。その中に、こぢんまりとしてはいるが立派な屋敷がある。
ウェンディの父である、アーサー・ボーフォール前侯爵が建てたもので、ウェンディは四歳までここに住んでいた。
今では別荘として、年に一、二度ほど訪れるだけになってしまったが、住み込みの管理人によってきれいに保たれている。
「ここはのどかでいいですね」
「何もない田舎なので、スティルトン公爵令息様には退屈ではないですか……?」
あれからしばらくの後、雨が小降りになったので、ウェンディとロードリックは教会を出て、屋敷へ向かった。
早足では泥だらけになってしまうからと、ゆっくりとした足並みで進んでいる。
屋敷はもうすぐそこに見えているが、もう少し二人きりで歩きたくて、さらにゆっくりと歩いてしまう。
ウェンディの気持ちが分かったのか、ロードリックもまた歩幅を小さくして、ウェンディに合わせてくれた。
「あなたさえいてくだされば、どんな場所も楽園になる。……それから、先ほども言いましたが、わたしのことはロードリックと呼んでください」
「ロードリック様……。あ、わたくしのことも、ウェンディと」
噛みしめるように彼の名前を口にすると、面映ゆさで顔が熱くなる。誰かの名を呼んで恥ずかしくなるのも、生まれて初めてだ。
「ウェンディ嬢は、普段は王都に住んでいるのですか?」
「はい。王都のタウンハウスに、兄家族と」
「兄……というと、国防大臣のボーフォール侯爵ですか?」
三人の兄の中で、ボーフォール家に住んでいる兄はブラッドリーしかいない。ドミニクは独身だが、商会の近くに邸宅を買い、普段はそこで暮らしている。
「えぇ。さすがに兄家族のもとで暮らすのは邪魔ではないかと思ったのですが、兄嫁のナタリア姉様に強く引き留められまして、一緒に住まわせてもらっているのです。ナタリア姉様にはとても可愛がっていただいて、感謝しています」
兄の妻であるナタリアは、名門伯爵家から嫁いできた才媛だ。婚約時からウェンディを本当の妹のように可愛がってくれて、結婚後も「ディちゃんはこの屋敷からお嫁に出します!」と、張り切っている。
今ではブラッドリーよりも、ウェンディの結婚相手を吟味する目が厳しくなっているくらいだ。
兄夫婦には二人の息子がいる。両親のいいところを受け継いだ可愛い甥っ子たちだ。「ディねえさま」「ディねえたま」と、懐いてくれる姿は本当に愛らしい。
「あぁ……義姉君の気持ちはよく分かるな」
うんうんと、ロードリックは納得しながらうなずいている。その間に、二人は屋敷に到着した。
ウェンディはロードリックを振り返りながら、扉に手をかける。
「こちらになります。父は中で待っていると思いますので。――ただいま戻りました、お父様。心配かけてごめんなさい」
「おぉ、ちょうどよかった。今、探しに行こうとしていたところだ。濡れてはいないか?」
父のアーサーが、二本の傘を手にして立っていた。外套を着ているので、今まさに外に出ようとしていたのだろう。
「雨宿りをしていたから大丈夫よ。それより、教会でスティルトン公爵令息様とお会いしたの。お父様から招待されたとおっしゃるのでお連れしました」
ウェンディが後ろに視線を送ると、黒ずくめの大男がぬっと姿を現し、胸に手を当てて頭を下げた。
「ボーフォール総騎士団長、ご無沙汰しております」
「おぉ、ロードリック卿、来てくれたか。……だが、総騎士団長はやめてくれないか。もうその座を辞してどれくらい経ったと思っているんだ」
アーサーは苦笑いをするが、ロードリックは表情を変えない。
「後にも先にも、この国の総騎士団長はあなただけですので」
「ロードリック様は、父の配下にいらしたんですか?」
「直属の上司だったことはないのですが、ボーフォール総騎士団長はわたしたち騎士の中では唯一無二の伝説の人物ですから」
「まぁ……そうなんですか」
優しげな声音で返事をするロードリックは、キラキラとした尊敬の光をその目に宿している。
ウェンディは感心しながら父に視線を送り、その父は照れくさそうにロードリックに水を向けた。
「ともかく、狭いが入ってくれ、ロードリック卿」
アーサーが目配せをすると、使用人のロイがロードリックに「上着をお預かりします」と、申し出る。
ロイは、ウェンディが生まれた頃から夫婦でこの屋敷の管理をしてくれている。彼の妻・ニコルの作る料理はとても美味しく、訪れるたびに父娘で楽しみにしている。
ウェンディにとっては、祖父母のような存在だ。
「その前に、総騎士団長にお話があります」
室内にと案内されたが、ロードリックはその場で立ち止まったまま、背筋をピンと伸ばす。
「なんだ?」
「突然の申し出で驚かれるかと思いますが、どうか、わたしとウェンディ嬢との婚約を認めていただけませんでしょうか?」
「……は?」
「先ほど初めてウェンディ嬢にお会いして、わたしの妻になる女性はこの方しかいないと確信しました。必ずや、騎士の名誉にかけてお嬢様を幸せにすると誓います。どうか、お許しください」
深々と頭を下げるロードリックの隣に、ウェンディが立つ。
「お父様、わたしからもお願いします。わたしも、ロードリック様の妻になりたいと思っております。お許しいただけませんか?」
祈るように手を組んで、アーサーに懇願するウェンディは必死だった。
すんなりと許してもらえるとは、はなから思っていない。けれど、自分たちは本気であると伝えたい。
一生懸命訴えかける二人を見て、アーサーは苦笑しつつため息をついた。
「やれやれ……おまえたちに先を越されるとは思わなかった」
「え? どういうことなの? お父様」
驚くウェンディに、アーサーはにっこりと笑いかける。
「俺が今日、ロードリック卿をここに呼んだのは、ウェンディを嫁にもらってはもらえないかと頼むつもりだったからだ」
***
「ここは……小さいですが、とても落ち着く屋敷ですね」
応接室に通されたロードリックが、室内を見回す。
「――ウェンディとウェンディの母親が住んでいたんだ」
「そのことですが、先ほどウェンディ嬢から道すがら伺いました。失礼ですが、その、ウェンディ嬢は兄君方とは異母兄妹にあたる、と」
ロードリックが神妙な表情でウェンディを見つめている。アーサーは苦笑いをして紅茶を口に運んだ。
「ロードリック卿は知らなかったのか。社交界では割と有名な話だったんだがなぁ。……まぁ、そんな君だからこそ、ウェンディを任せたいと思ったんだが。ウェンディは間違いなく俺の娘だが、妻の子ではないんだ。……勘違いしてほしくはないのだが、妻を裏切ってできた子ではない。……この子の母のアデールとは、妻が亡くなった二年後にこの村で知り合ったんだ」
「そうなんですか」
「アデールは没落した男爵家の娘でな。年の差はあったがお互い惹かれ合った。そしてウェンディが生まれたというわけだ。この子が四歳の時にアデールが亡くなり、それ以来、正式にボーフォール家の娘となった。庶子とは言っても、由緒正しい血を引いているので、その点でも君に嫁ぐのに問題はないと保証する」
アーサーがウェンディを見つめた。その目は慈愛に満ちていて、とても若手騎士たちから恐れられている伝説の剣士とは思えない穏やかさだった。
ウェンディにとっては、とても優しい父だ。
「お気遣いありがとうございます。しかし仮にウェンディ嬢が平民の娘だったとしても、わたしはどんな手を使ってでも妻にしました。もう彼女しか考えられないのです」
「ロードリック様……」
ウェンディとロードリックが出逢ったのは、ほんの一時間ほど前でしかない。
しかしお互いの人となりを知るには、五分もあれば十分だった。
それだけ、わたしたちは一目で強烈に惹かれ合ったのだと、ロードリックは力説してきた。
「女嫌いだと噂の君がそこまで言ってくれるなんて嬉しい誤算だ。……俺もな、ウェンディの夫にはロードリック・スティルトン公爵令息しかいないと思っている。どうか、娘を、よろしく頼む」
「彩狼神に誓って、ウェンディ嬢を幸せにします」
ロードリックは胸に手を当て、優美に笑った。
アーサーが驚いたように目を見開いた。ウェンディにはその理由が分かった。
ロードリック・スティルトン公爵令息と言えば、独身貴族女性からは『氷の騎士』と呼ばれるほど、冷たい雰囲気を持った男だと、噂に聞いていた。
同僚の騎士たちからは「身体の筋肉は毎日酷使しているのに、表情筋だけが仕事をしていない」と揶揄されていたのだという。
しかしそのクールビューティを突き抜けたコールドビューティ……否、ブリザードビューティなこの男が、甘さたっぷりのまなざしを惜しげもなく曝け出してウェンディを見つめてくるのだ。
(噂は本当だったのかしら。こんなにも優しいお顔をなさった方なのに……)
ちらりとアーサーを見れば、ニコニコしながらうんうんとうなずいている。若者二人の恋路を応援する気満々の顔だ。
いくら父自身が設えた見合いの場とはいえ、まさかこんなにもあっさり婚約を認めてくれるなんて意外だった。
しかしウェンディには、父より数段強固な防護壁が控えている。
「でもお父様……兄様たちにはなんと伝えたらいいのかしら。わたしがロードリック様と婚約をすることになると聞いたら……」
ウェンディが心配そうにロードリックを見つめる。アーサーは口元ひくつかせながら斜め上を見上げた。
「あー……まぁ、なんとかなるんじゃないか。あいつらもまさか、三大公爵家の令息に害をなそうとはしないだろうしな。それもあっての人選だ、ロードリック卿は」
「お父様……」
普通ならありえないと思うことをするのが、あの兄様方なのですよ――ウェンディもまた、口元をかすかに引きつらせたのだった。