プロローグ
ふんわり設定の世界観なので、温かい目でもって読んでいただけると助かります。
広大なボーフォール領の端にあるその穏やかな村は、綿花と豆と数種の野菜の栽培が盛んで、農民たちも大らかな者が多い。犯罪とは無縁そうな村の中央には、小さな教会がある。無機質な石造りのそこは、神父は不在だが、村人がまめに手入れをしているのでとても清潔だ。
野花ではあるものの咲いたばかりのきれいな花が、毎日、野菜や果物とともに供えられている。
祭壇で神々しい輝きを放っているのは、雄々しい狼の銅像。
ウェンディはその前に跪き、手を組んで祈りを捧げていた。
「彩狼神様……どうか領民とわたしの家族が、日々を健やかに過ごせますように……」
祈りを終えると、立ち上がり窓から外を見た。
「雨……強いわね。もう少しだけ、雨宿りしていこうかしら」
この近くにある花畑があまりにも見事に花を咲かせていたので、見入っていたら時間を忘れてしまった。
気づいた時には雨が降り出していて、慌ててここに駆け込んだのだ。
家まではこの教会から徒歩で三分ほど。
しかし激しく降る雨は、短時間でも身体をずぶ濡れにしてしまうだろう。風邪をひいてしまえばたちまち大騒ぎだ。
「お父様が心配してしまうものね……」
ウェンディの父は、この国の民なら必ずその名を知る武人だ。恵まれた体躯と、常人離れした魔力と剣術で、魔獣や賊を幾度も討伐してきた。
そんな屈強な父は、娘のことになると途端、過保護になる。
今回も村にある母の墓参りをするために、父は過剰なほどの装備を馬車に積んできた。
領地の屋敷からここまでは、馬車で三時間ほどだ。
幼いウェンディが暮らした家のすぐ隣に、母・アデールは眠っている。
十二年前の今日、母はそこで帰らぬ人となったのだ。以来、毎年この日には父と二人で村を訪れる。
墓前に母が好きだったユリの花束を供えた後、父は長いこと祈っていた。ウェンディの一年間の様子を報告していたのかもしれない。
――頼むアデール……どうか、どうかウェンディを……おまえの娘を守ってくれ……。
最後の呟きは、やけに切なくて胸に迫った。
「お父様は、私のことを心配しすぎるのよね。……お父様だけではないけれど」
苦笑いで呟くと同時に、教会の扉がバタンと音を立てて開く。
身体の雨粒を払いながら飛び込んできたのは、背の高い男だった。
(誰かしら……いかにも貴族のようだけど……)
この村では見かけたことがないその男は、立ち居振る舞いがやけに上品で、一目で貴族だと分かった。
「は……しばらくここで雨宿りか……っと、先客か。驚かせてすまない。雨に降られてしまい、ここしか入れそうな建物がなかったんだ。少しの間、一緒に……っ、」
言いかけて、男はピタリと動きを止めた。
(わ、きれいな方……)
自分を見つめる男の顔は、とてもとても美しかった。
雨に濡れた黒紺の髪の隙間から覗く瞳は、金色に輝いている。切れ長で、何もかも見透かされてしまいそうな力強さがあった。
筋の通った隆鼻、薄めのくちびる――確実に、神から愛されたがゆえの顔の造作だ。
品があり、髪色も含めて全身ダークカラーの出で立ちなのに、何故かキラキラと零れ落ちるような光をまとっている。
そんな美しい男が、ウェンディに澄んだ視線を留めたまま動かないのだから。
ふわふわとした気持ちで見つめ返してしまっても、仕方がないと思うのだ。
(きれいな男の人は、家族で見慣れているはずなのに……)
それでも心臓はドキドキして……鼓動が相手にも聞こえてしまいそう。
「あ、あの……何か?」
ついには居たたまれなくなって思わず声をかければ、彼はハッと気づいたように身体を震わせた。
「あぁ……すまない。あまりに美しかったので、ここに住まう女神か天使かと思った」
刹那、ウェンディの頬がポッと染まる。
「そんな、恐れ多い……」
小さく返せば、男はゆっくりと近づいてきて跪いた。そして自身の胸に手を当て、ウェンディを見上げる。
「わたしは、ロードリック・スティルトンという。あなたの名前を知る権利を、わたしにいただけないだろうか」
「スティルトン……ひょっとして、三大公爵家のスティルトン家の方ですか?」
「わたしの家をご存じでしたか。アレン・スティルトン公爵は父です」
ロードリックと名乗った男は立ち上がり、腰に佩いた剣に刻まれた家紋をウェンディに向かって掲げた。
それは確かに、三大公爵家の一つであるスティルトン家のものだ。
「大変失礼いたしました。わたくしは、ウェンディ・ボーフォールと申します」
この村で貴族のドレスで歩けば逆に目立ってしまうので、ウェンディが今身につけているのは、村娘の服だ。だから貴族だとは思われていないはず。しかし礼儀として、スカートをつまんで軽く膝を折った。
「ではあなたが、アーサー・ボーフォール前侯爵のご令嬢ですか?」
「えぇ、アーサーは父で、現侯爵のブラッドリーは兄です」
「ちょうどよかった。実は今日、あなたのご尊父と約束があるのですよ。こちらの村にある別荘に来るようにと、言付けをいただきました」
ロードリックの顔が、わずかながら明るくなった。
「まぁ、そうなんですの? では、雨が止んだらご案内しますね。こんなところにある家ですので、とても小さいのですが」
「ありがとう。そうしてもらえると助かる」
「……あ、気づきませんで申し訳ありません。髪が濡れています。古いタオルで申し訳ないのですが、よろしければお使いください」
ウェンディは持っていたタオルを、ロードリックに手渡した。
「ありがとう」
タオルで頭から肩にかけてざっと拭うと、彼はタオルを丁寧に畳んで小脇に抱えた。いつまで経っても返してくれる様子がないので、ウェンディは小声で切り出した。
「あの……もう使われないのでしたら、わたくしが持ちますので」
おずおずと見上げると、ロードリックは薄く笑う。
「いや、これは持ち帰らせてほしい。きちんときれいにした後でお返しするので」
「とんでもない。ただの粗末なタオルですので、その必要はありません。どうぞそのままお返しください」
ウェンディはあたふたしながら胸の前で手を振る。
こちらの家に来た時に準備しておく、使い古しのタオルだ。しかもさっき、彼女自身もこのタオルを使ったのだ。
そんなものを、公爵令息様に持たせたままでいられるはずがない。
返してほしくてタオルに手を伸ばすと、さっと後ろ手に隠されてしまった。
「それはできない。あなたからお借りしたものを汚したまま返すなんて、スティルトン家の名誉に関わる」
「そんな大げさな……」
「……それに、このタオルを返すという名目で、あなたに会いに来られる」
ロードリックは美しいが精悍で、少しきつめの顔立ちだ。対峙すると臆してしまうほどの冷たいオーラが見える。
そんな彼がふわりと柔らかい笑みを浮かべたものだから、ウェンディの心臓はぴょこんと跳ねる。
「スティルトン公爵令息様……」
「わたしのことはどうか、ロードリックとお呼びください。……ところでボーフォール侯爵令嬢は、婚約はされているのだろうか。恋仲の男は?」
「い、いえ……婚約者も恋人もおりませんわ」
ウェンディももう十六歳だ。婚約者がいてもおかしくはない年頃ではあるが、諸事情があり、未だに婚約者候補すらいない。恋もしたことがない。
ただこの瞬間、目の前の男に心を奪われつつあることに、ウェンディ自身も気がついているのか、いないのか……。
「――そうですか。……では、わたしが結婚を申し込んでもなんの問題もないのですね」
「……え?」
驚いて目を丸くするウェンディをよそに、ロードリックは再び跪き、目の前の淑女に向かって手を差し出した。
「先ほどあなたの姿を初めて見た時、全身が雷に打たれたように感じました。そして今のこの短いやりとりで、わたしの妻になる女性は、あなたしかいないと確信しました。――どうか、わたしと結婚していただけませんか?」
その顔は、真剣でありながら甘さを帯びている。
ウェンディの心臓は、かつてないほどに大きく逸っていて。
「あ、あの……わたくしでよろしいのですか? どなたかいい方がいらっしゃるのでは……?」
「そんなものはいない。あなたでないと嫌だ。わたしはいずれ、国に預けている爵位をいただきラクレット伯爵になる。……どうか、ウェンディ・ラクレット伯爵夫人になってはもらえないだろうか」
「あ……わたくし……えっ、と……」
熱くて甘い視線を一身に受け、ウェンディは全身が震えた。ドキドキして、顔が熱くなる――こんな反応、初めてのことだ。
貴族世界では、一度も顔を合わせないまま婚約を結ぶなんてある意味当たり前だ。だから会って数分で結婚を決めるというのも、決して珍しいことではない。
しかしこれはあまりにも唐突すぎて、心が追いついていない。
「絶対に幸せにすると誓う。だから、どうか私の求婚を受け入れてほしい」
目の前の男は跪いたまま、まっすぐな瞳でウェンディを見上げている。そこには必死さも見え隠れしていて、彼女の心を打った。
ここで断ってしまうと、もう二度と、この人に会えないかも知れない。そう思うと、心が引き裂かれそうに痛くなった。
『初恋は決して実らない』というのは、世の常ではあるものの――
「……はい、わたくしでよければ、お受けいたします」
――ウェンディの初恋は、自覚する前にあっさりと実ったのだった。