悲しみのアイザエンド
モルモットとはいえ、人の形をしている。
だからそれくらいの温情は彼にもあった。
だがその後、ヘルガヌスは記憶の全てを失った。
そして、彼の部屋には膨大な資料が残された。
そこに、ふむふむとその資料を読み耽る男が、いや、魔族がいた。
アズモデ「ほう……。君、記憶があるんだねぇ。これはもしや大発見……? いーや、僕たちが魔族と名乗った今、記憶持ちは危険分子でしかないかな。これは配合を見直す必要がある……。あぁ、そうだ。マロンが面白い薬を作っていたねぇ。」
そう言って、男は不気味な笑顔を作った。
ゾッとするような顔、それに危険を察したエルザは、身を乗り出してこう言う。
エルザ「やめてください! あなたが私の同胞に手を出すことは許しません。手を出さないという理由で私は貴方のいう魔族になったのではないですか!」
どうやら、彼女は何も知らされていないらしい。
アズモデ「ふふふ、それは記憶が無くなる前提の話だったのですが……ね。まぁ、いいでしょう。これも女神の啓示。いや、失礼魔王様の命令なのです。でも、僕は優しいからね。こうすれば君も満足でしょう?」
だから記憶を封印する秘薬を、彼女に注入することにした。
エルザ「何が満足なものですか! この程度の痛みで私が同朋を売るなど、舐められたものです。」
そしてアズモデは彼女の反応にニヤリと笑った。
アズモデ「そうですかそうですか。魔族には効かない……。当然といえば当然ですね。元々、この薬は魔族化の秘薬を作り出す過程で生まれたもの。面白いですねぇ。ザパン族の中で君を1番に魔族化して良かったですよ。」
エルザ「貴様……、一体何を……」
アズモデ「君は同族への、いや家族への愛情がとても深い。それを利用するだけで全てがうまくいくんです。実は……」
ヴァイス砦はヘルガヌス領にある。
そもそもはザパン族との戦いのために作られた砦であり、その後はザパン族の開放区としてヘルガヌスが利用していた頑強な砦である。
そこには絶滅危惧種となったザパン族が、彼らなりの希望を抱いて暮らしていた。
勿論、そこにはエルザの父と母もいる。
百二十歳は軽く生きるという父と母だからこそ、今でも安心してここへ来れる。
エルザ「……お前さえいなければ。」
アズモデ「怖い怖い。流石、君はも選ばれし魔族だけあるねぇ。」
エルザ「うるさい。誰が好き勝手に魔族になど……。おい、アズモデとか言ったな。男衆の姿が見えないぞ!」
アズモデ「ご名答! すでに逃しました。彼らは魔族だと思っていたもので。一応、記憶消去の薬を打っておいたのですが……、やはりあまり効果はありませんでしたね。でも、ご安心を。その中で僕は一人、有望株を見つけています。いずれは魔王軍を背負って立つ竜人となるでしょう。竜王、そうですね。彼の二つ名はそれにしましょう。」
エルザ「まぁ、いい。とにかく男衆は無事ということだな。それで私に何を見せたいってんだ。」
アズモデ「決まっています。今から起きる全てですよ。」
そしてアズモデは、彼女の前で真の姿・デズモア=ルキフェになってみせた。
その異様な姿にエルザは言葉を失った。
デズモア=ルキフェ「勘違いしないでいただきたい。これが見せたかった訳ではないのですから……」
化け物はそう言って、ヴァイス砦に残った女性と老竜人全てを八つ裂きにした。
滅却した。凍らせて粉砕した。
抵抗しようにも、魔力が強すぎて、エルザには何もできなかった。
そして白い煙を出しながら、化け物はアズモデの姿に戻った。
吐き気がするほどに笑みを浮かべながら。
エルザ「き、き、貴様……、我が同朋を——」
アズモデ「先日、赤子が生まれたと聞きます。そして、君、その赤子を抱いたことあ
りますよね?」
エルザ「なぜ……、それを……。どうして、今、その話をするんだ……」
彼女の憤怒に染まった顔は、その一言だけで石化したように動かなくなった。
そんなエルザにアズモデは告げる。
アズモデ「君は選ばれし魔族、そう言った筈です。彼女の顔を頭に思い浮かべてください。きっとそこに行けると本能的に分かる筈です。」
黄金の道化師は指先を彼女の額の中央にぴたりと止め、『転移魔法』のイメージを流し込んだ。
具体的にはその記憶で作られたダークメタルを彼女に流し込んだ。
そしてその瞬間には彼女は消えていた。
エルザ「アイザ!」
彼女は赤子の名前、妹の名前を叫んだはいいが、周りの景色に違和感を覚えていた。
ここはどこなのか? 伝え聞く『ロータスの風景』とそっくりではある。
でも、今はあそこに行っても何もない。
全て奪い尽くされて、破壊し尽くされた。
木製中心だったのも理由の一つかもしれない。
あそこはただの荒地でしかない。
——ならば、ここはどこなのか?
赤子を抱きながら、エルザは途方に暮れていた。
アズモデ「ほう……。このようなことが……。でも、僕は驚きませんよ。王族も動き出したようですし、例の男も未だに行方が分からない。ということは、こうなっていてもおかしくない。頃合いということです。やはり、やはり。全ては決められていた!」
そして彼はこの一言を残して、姿を消した。
アズモデ「アイザ、というのですね。僕と君とで大切に育てましょう。」
エルザ「………………。いつか、必ず……」
姿を消した彼の姿はヴァイス砦にあった。そしてその砦を嬉しそうに眺めている。
アズモデ「なるほど。マロンたちの言っていた通りだねぇ。ヴァイス砦の地下室を黄金で埋め尽くす。もしその赤子が選ばれし者ならば、その器に黄金を満たすかもしれない。まぁ、彼女たちはどうしてそんなことを聞くの?みたいな顔をしていましたが、いやはや、無知とは愚かですねぇ。僕でさえ、あの赤子の幻術にかかるんですよ。この世界はなんて面白いんだ。」
エルザは茫然としていた。
でも、彼女には大切なものがある。
——アイザは今日も元気な笑顔をくれる。
——だから彼女が生きているだけで、何でもできる。
ただ、彼女の体は小さな頃の自分とは違う。
色素が薄いのか、本来濃い紫であるはずの髪の毛は、薄い紫になってしまった。
そして瞳の色が薄いのか、もしくはこの辺りの金の濃度が高いせいか、体内に溶け出した金がそのまま透けて見える。
——でも、そんなことはどうでもいい。ここに来ればアイザに会えるのだ。
「だから、私は頑張る。それじゃあ、行ってくるね、アイザ。」
ただ、ちょっとだけ困ってしまうこともある。
「えー、もう行っちゃうの?おねえたま!」
——アイザはとっても甘えん坊なのだ。
♧
レイは立ち尽くしていた。
場所は当然、ヴァイス砦の前。
ゼノスは岩山にくくりつけたままだし、サラは伯父の資料が残っていないか探す、と言って姿を消した。
だから、今は三人きり。
レイの右手には小さく柔らかい手、そしてエルザの左手にも同じような小さな手が握られている。
「アイザ、エルザ、帰ろうか。」
彼は砦の中に二人を連れていく。
途中、瓦礫で道が狭くなっていたりして、その時はレイ、アイザ、エルザの順番で歩く。
その時もちゃんと三人は手を握っている。
「ここがわらわのお家?」
「うーん、ちょっと違うな。どっちかというと、ふるさとって感じだな。今のアイザはここ住んでないだろ?」
「うん。わらわは嫁ぎましたのら!」
その言葉にレイはちょっとだけ苦笑いをした。
もう、ここは彼女の家ではない。
だから結婚して良かったとも思えるが、別の事情もあり苦い笑いをした。
あの時、この砦については隈無く調べた筈だ。
どうやって世界を騙すのかを考えていたくらいだ。
ただ、あの時はゲームの知識に頼り切りだったし、ここに地下室があるという発想もなかった。
実はここをデザインした誰かの発想かもしれないし、さっきの過去創造で出来立てほやほやかもしれない。
「それにしても、いや、もはや薄々気付いていたけれど、アイザは年齢詐称のみならず、種族詐称していたのか……」
「ん?わらわの話か? なになにー?」
「ううん。だ、大丈夫。かわいいなー、違法なかわいさだなーって無意識に呟いただけだから。」
「ふふふ。もっと褒めていいのらよ!今までの分までー。」
そんな話をしながらも、レイはたぶんここ、という場所を見つけていた。
完全に地面と一体化されているのは、転移魔法で来ることが前提だったということだろう。
そこを魔王の力で蹴ってみると、あっけなく床が蹴破れた。
ただ、それでは趣がなさすぎるので、レイは一旦そこを瓦礫か何かで塞いでおく。
そしてアイザ、エルザを抱えて、彼はこう言った。
「転移魔法!」
場所さえわかれば、座標さえわかればそこへと飛べる。
何と便利な魔法だろう。
因みにだが、ここはアイザが登場する部屋の下の下の下。
つまりは真下に位置している。
勿論、場所がどこかなんてどうでも良い。
ただ、その部屋自体に問題があるのだ。
「過去創造でアズモデが言っていた通り、壁一面に黄金が敷き詰められている。アイザ、今のアイザなら簡単に出来るんじゃないのか?」
すると彼女は少しだけ頭を傾げて、嬉しそうに頷いた。
そして……
「再現魔法!」
あの日、レイはここで懐かしさを覚えていた。
それはやはりロータスの風景が、日本の田舎風景に似ていたことが理由だった。
そして彼は、その景色のせいで時間感覚が狂ってしまったと思っていた。
実は黄金の魔力のせいだったのだが、そんな事実は今更語る意味はない。
エルザもその景色、そして彼女の魔法の意味を考えていた。
あの日赤子だった彼女は、確かに勇者の仲間になる器の持ち主だった。
そしてこの黄金を目一杯吸収して、彼女は無意識に魔法を使っていたのだ。
おそらく、父や母、その父や母。代々語り続けられた、在りし日の故郷の話を彼女は母のお腹の中でずっと聞いていたのだろう。
きっと自分はこんな長閑な場所で生まれるのだろうと、思い続けていたのだろう。
「なら、この風景は父と母からの贈り物ね……」
「ん? エルザ、何か言ったか?」
「ううん。なんでも。……ねぇ、レイ、アイザ。ちょっとだけ、ここで休んでいこうか。」
「うん!わらわもそうしたい!いい? だんなたま!」
なんて、良い笑顔をするのだろうか。
アイザは七歳だ。
だから、アイザが語った記憶は彼女のものではない。
けれど、ミッドバレーでも同じようなことが起きた訳で、そこに文句をつける理由はない。
それでも自分の境遇を知って尚、そんなに嬉しそうに笑えるアイザを彼は誇りに思った。
だから、今日は彼女のわがままを何でも聞こう。
添い寝だってなんだってする。
勿論、いつか、「結婚はもうちょっと大人になってから」と言わなければならない日が来るかもしれない。
だから今は家族愛に近いかもしれないし、きっと彼女もそれに近い存在だと考えている筈だ。
なんだっていい。
アイザはロータスの最後の人間である。
辛いことを話そうにも、同じ境遇の人間は一人もいない。
だから、レイはそっとアイザを抱き上げて、犬歯が当たらないように頬に軽くキスをした。
そして、彼女を椅子にちょこんと座らせてこう言った。
「アイザ、大好きだ。今まで、ずっと寂しい思いをさせてごめん。今日一日はここでゆっくりしよう。」
「うん!わらわもレイのことだーいすき!」
因みに、アイザの後ろで『私も今もレイが変わらず大好きです。そもそも大好きになったのは私の方が先です。』と書いたプラカードを紫の淑女が持っていたりするので、彼はこの日、ずっと二人の板挟みになってしまうのだが。
——それはそれで誰もが羨む光景だろう。