第3章 「覆水盆に返らずとも、築き上げられる明日はある」
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
こうして登美江さんへの引き継ぎを終えた私は、生駒家より御暇を頂き、真弓様の御紹介で小野寺家での奉公を始めたのです。
大阪の船場でも評判の名家である小野寺家は、教科書の製造販売を手掛ける小野寺教育出版の創業者一族であると同時に、真弓様の御実家でもあるのでした。
小野寺家の方々は誠に御親切な紳士淑女で御座いまして、皆様方には本当によくして頂きました。
御隠居様御夫妻は温厚な老紳士と老淑女でいらっしゃいますし、奥方様は類稀なる美貌と気品を兼ね備えられた洋装の貴婦人であらせられます。
そして真弓様の御兄様でいらっしゃる現当主の基行様は、家業である小野寺教育出版の社長職を引き継がれた、それは立派な方で御座います。
「妹の真弓は、何かと家名に拘る所があるからね。本人なりの責任感あっての事なのだけど、君にも色々と苦労もかけたろう。悪く思わないでやってくれよ。ここを我が家だと思って、肩肘張らずに気楽にやりたまえ。」
生来の鷹揚さと知性の感じられる紳士的で穏やかな労いの御言葉は、英里奈御嬢様の事で負い目を感じている私にとりまして、誠に有り難い物で御座いました。
そして御子息である高志坊ちゃまは、些かキザでスノビズムな言い回しが個性的では御座いますが、年相応の快活さと御父上譲りの大らかさが魅力的な男の子で御座います。
「自慢じゃないけど僕は、コミックゴンゴン主催のジオラマコンテストのキッズ部門で、金賞を受賞したんだよ。もしもカスミ姉やが御望みなら、僕のプラモデルコレクションを見せてあげるよ。」
初対面の私との会話の糸口がプラモデルとは、いかにも模型マニアの高志坊ちゃまらしいですよ。
とはいえこれも、高志坊ちゃまなりの御気遣い。
その御優しき心遣いは、御言葉の端々に感じられましたよ。
「英里奈姉様との一件は、パパからも聞いているよ。カスミ姉やは、あんまりクヨクヨしちゃいけないんだ。人には相性の良し悪しがあるからね。その点、僕とカスミ姉やなら相性もバッチリだよ!」
ここまででしたら、掛け値無しに御優しい御坊ちゃまで御座いました。
とはいえ、本音は後の方に御座いましたようで…
「僕が姉やを励ましたように、カスミ姉やも僕が困っていたらきっと庇ってくれる。そう僕は信じているんだ。テストや通信簿の成績が悪くても、きっと弁護してくれるってね!」
何とも調子の良い高志坊ちゃまでは御座いますが、それもまた人間らしさで御座いますね。
斯くも御優しき小野寺家の皆様方に温かく迎えられた私では御座いますが、心の中に出来たシコリは、しぶとく疼き続けていたので御座います。
そのシコリの正体につきましては、今更申すまでも御座いませんね。
−良かれと思って厳しく接したのが裏目に出て、英里奈御嬢様を追い詰めてしまった。果たして私は、どうすれば良かったのだろう?
幾ら答えを探しても見つからず、私の思考は袋小路に入ってしまうのでした…
そんな私が内省と後悔の無限ループから脱出出来ましたのは、小野寺家にお仕えして始めて迎えた夏の或る日で御座いました。
「ところでカスミ姉やは、真弓伯母様や英里奈姉様に会いたいとは思わないの?生駒家はカスミ姉やにとって古巣だから、懐かしいんじゃないかな?」
会員登録されているホビーショップのサマーセール割引ハガキを嬉々として御覧になりながら、高志坊ちゃまは私に御尋ねになるのでした。
「仮に私が御会いしたいと申し上げた所で、英里奈御嬢様は御会いにならないでしょう…」
それに私は、やんわりとした否定の言葉で応じさせて頂きました。
本心を申し上げるならば、キチンと会見の席を設けて釈明し、誤解と蟠りを取り除きたい。
そうさせて頂きたいのは山々で御座います。
然しながら、英里奈御嬢様は私を敬遠されていらっしゃるに違いないし、そんな私が御会いした所で、英里奈御嬢様の御心に余計な波風を立てるだけで何もならない。
そう信じて疑わなかったので御座います。
ちょうど私が、英里奈御嬢様に負い目を抱いているのと同じように…
そんな私に高志坊ちゃまは、何とも得意気な笑みを投げ掛けられたのです。
「それはどうかな?もしも英里奈姉様がカスミ姉やの事を避けているなら、こんなハガキなんて寄越さないと思うけど?」
そうして差し出されたのは、一枚の絵ハガキで御座いました。
「これは…英里奈御嬢様からの暑中見舞?」
兵庫の避暑地として名高い峰山高原の絵ハガキには、英里奈御嬢様の丁寧な筆跡で暑中見舞の挨拶文が綴られておりました。
そして挨拶文の後には、私への労いと感謝の御言葉さえ記されていたのです。
「これは間違い無く、英里奈御嬢様の文字で御座います…『手厳しいと感じた事は御座いましたが、私はカスミさんを憎んだ事は御座いません。私のために御指導御鞭撻を下さり感謝します。』、ですか。英里奈御嬢様…!」
読み終えた私は、思わず絵ハガキをひしと抱き締めてしまったのです。
その時の心持ちを申し上げるならば、胸の奥で疼いていたシコリがジワジワと溶けていくようで御座いましたよ。
「姉やが思っているより、英里奈姉様は芯が強いし、人間だって出来ているんだよ。まあ、僕の従姉なんだから、人間が出来ているのは当然なんだけどね!」
「まあ、高志坊ちゃまったら…」
高志坊ちゃまの自慢混じりの御気遣いに笑顔で応じさせて頂いた私は、改めて絵ハガキに視線を落とさせて頂きました。
たとえ一度は蟠りが出来てしまっても、その後の出会いや経験を糧にする事で、関係性は必ず修復出来る。
私が高志坊ちゃまを始めとする小野寺家の方々と巡り会えたように、英里奈御嬢様も登美江さんとの交流で良い思い出を沢山作られたのですね。
‐つれなくて手厳しい接し方を徹底した事で、英里奈さんを追い詰めてしまった。
覆水が盆に返らないように、この事実は覆りません。
然しながら、あの日の事を私と英里奈御嬢様が思い出話として笑顔で振り返る事が出来るようになるのは、そんな遠い未来の出来事では無いのかも知れません…