第1章 「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」
※ 1枚目の挿絵の画像を作成する際には、ももいろね様の「もっとももいろね式女美少女メーカー」を使用させて頂きました。
※ ひだまりのねこ様より、菜畑カスミさんのイメージイラスト(https://36584.mitemin.net/i694065/)を頂きました。ひだまりのねこ様、イメージイラストの使用を御快諾頂きありがとうございます。
私こと菜畑カスミがメイドとして御仕えする生駒様の御屋敷は、系図を辿れば戦国武将として名高い生駒家宗公にまで遡れる由緒正しき御家柄で御座います。
それ故に御息女であらせられる英里奈御嬢様への教育方針につきましても、跡取り娘として粗相が御座いませんよう、厳格な体制が取られていたのでした。
茶道に華道、それにバイオリンに薙刀。
そうした習い事の掛け持ちは勿論で御座いますが、礼儀作法や言葉遣いに付きましても、旧家の長女に相応しい高水準が要求されるので御座います。
とはいえ習い事も礼儀作法も、一朝一夕で会得出来るような容易い物では御座いません。
年若い英里奈御嬢様が多少の失敗を犯してしまうのも、ある程度は仕方が御座いませんね。
ところが旦那様と奥様は、幼さを口実に英里奈御嬢様を甘やかそう等とは、決して御考えにならなかったので御座います。
むしろ「鉄は熱いうちに打て」とばかりに、箸の上げ下ろしから口の効き方に至るまで事細かに目を光らせ、些細な粗相が有れば直ちに叱責という、厳格さに輪を掛けた躾が施されたので御座います…
奥様の御叱責と御嬢様の謝罪の御返事で構成される一連の遣り取りは、生駒様の御屋敷に於いては日常茶飯事。
この日も英里奈御嬢様は廊下で呼び止められ、奥様から御叱りを受ける事になってしまったのです。
「あら、まあ…いけませんわねぇ、英里奈さん。」
御叱りの御言葉に激しさや猛々しさは微塵も無く、その御声の主と同様に穏やかで気品に満ちた物で御座いました。
和風のアップスタイルに結われた明るい茶色の御髪に、緑色の大きな瞳と形の良い桜色の唇が殊更に際立つ色白の端正な細面。
そして桜色の御着物を巧みに着こなす優美な御姿に、日舞を彷彿とさせる雅やかな一挙手一投足につきましては、正しく一分の隙も御座いません。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
この伝統的な言い回しを思わず口にしたくなるような和装の貴婦人こそ、生駒家現当主夫人であらせられる真弓様なのでした。
その若々しくも上品な美貌たるや、同性である私でさえ思わず目を見張ってしまう程で御座いますよ。
とはいえ、今まさに御叱りを受けていらっしゃる英里奈御嬢様にしてみれば、それどころでは御座いませんね。
「そうフラフラと芯の定まらない足捌きでは、人様から『性根の曲がった不誠実な方』と誤解されてしまいましてよ。たとえ寝不足でボンヤリされていたとしても、世間様は英里奈さんの事情を知り得ないのですからね。」
「はっ、はい…申し訳御座いません、御母様…」
か細く震えた弱々しい声で謝罪の御言葉を口にするのが、今の英里奈御嬢様に於かれましては精一杯。
御母様であらせられる真弓様と瓜二つの御美しい御顔にも、不安気な影が下りていらっしゃって、それが何とも御労しく感じられるのです。
「良い事、英里奈さん…貴女は我が生駒家の大切な跡取り娘。それ相応の自覚と礼節とを備えて頂かなくては困りましてよ。」
「はっ、はい…」
頭を垂れる英里奈御嬢様の御姿を御覧になっても、まだ真弓様は物足りない御様子でした。
むしろ、一切の抗弁を試みない英里奈御嬢様の殊勝な御様子を、却って「不甲斐無い」と認識されたのかも知れませんね。
「本当に、どうした物かしらねぇ…」
ガラス細工の如き細首を軽く傾げ、折り畳まれた扇子でシミ一つ無い桜色の頬をヒタヒタと叩かれる真弓様。
その御姿は、何かを思案されているようで御座いましたよ。
「そうですわ…カスミさん、此方へおいで下さいませ?」
「かしこまりました、奥様。」
真弓様の名指しとあらば、粗相があってはなりません。
私は普段以上に背筋をピンと伸ばし、頭や首を動かさないように細心の注意を払いながら、御二人の元へ馳せ参じたので御座います。
「御覧なさい、英里奈さん。カスミさんの御美しい足取りを。頭どころか御髪さえ微動だにせず、背筋もスンナリと伸びておりますわね?」
どうやら真弓様の真意は、私を引き合いに英里奈御嬢様を教育する事にあったようで御座います。
幾ら教育上の方針とはいえ、真弓様も容赦が御座いませんね。
使用人に過ぎない私と比べられてしまっては、英里奈御嬢様も立つ瀬が御座いませんでしょうに…
「よい事?これこそが淑女の足取りで御座いましてよ。心得ましたわね、英里奈さん?」
「はっ、はい…かしこまりました、御母様…」
静々と歩まれる真弓様の後ろ姿に向かい、英里奈御嬢様は深々と頭を垂れていらっしゃいました。
四十五度の美しい御辞儀の姿勢は、真弓様が廊下の角を曲がられるまで維持されたのです。
「あの…カスミさん…」
御辞儀の姿勢を崩された英里奈御嬢様が真っ先に行われたのは、私への呼び掛けで御座いました。
私を真っ直ぐに見据えられたその眼差しには、訴えかけるような光が宿っていらっしゃったのです。
「いかがなさいましたか、英里奈御嬢様?」
こうは申し上げたものの、私には英里奈御嬢様の仰りたい事は薄々勘付いておりました。
「カスミさん…私が塾と学校の宿題を仕上げるために寝不足になってしまったのは、貴女御自身が御存知のはず…」
御声にも御顔にも、不興の感情を隠しきれない英里奈御嬢様。
寝不足でお疲れが取れていらっしゃらない事も、奥様から御叱りを受けた事も、そして私が助け船を出さなかった事も、英里奈御嬢様には不本意極まりない事だったのでしょう。
それに御叱りの要因である姿勢の乱れに付きましても、一般家庭の水準ならば充分過ぎる程に整った物で御座います。
不愉快に感じられる英里奈御嬢様の御気持ちも、多分に同情出来る物で御座いましたよ。
とはいえ、あくまでも私は生駒家に仕える使用人。
旦那様と奥様が定められた教育方針には、逆らう事も口を挟む事も許されません。
そこで私は出来る限り感情を押し殺し、英里奈御嬢様にお答えしたのです。
「姿勢が乱れる前に諫めるなり、奥様から御叱りを受ける前に執り成して欲しかった。英里奈御嬢様は、このように仰りたいのですね?」
「うっ!そ、それは…」
どうやら図星だったのでしょう。
端正な御顔を強張らせた英里奈御嬢様は、声もなき有り様でした。
「それでは英里奈御嬢様の為になりません。奥様直々の御叱りを受けられた方が、却って気も引き締まると存じまして。」
取り付く島もない。
この時の私を形容するとしたら、この諺が適切でしょうね。
「さあ、英里奈御嬢様。グズグズされている御時間は御座いませんよ。これからバイオリンのレッスンで御座いますから。」
「わ…分かりました、カスミさん…」
英里奈御嬢様への余りにもつれない物言いに、我ながら気が引けてしまいます。
然しながら、これも英里奈御嬢様の御将来を案じられた旦那様と奥様の御考えに従っての事。
獅子が我が子を千尋の谷に落としたように、時には厳しく接しなければならないのも、子育てで御座います。
そう信じたからこそ、私も敢えて心を鬼にさせて頂いたので御座います。