愚物の最善手
某SF新人賞落選作です。
森松はソフト開発のデスクに物を置かない主義だった。白い大きなデスクにはディスプレイとキーボード、マウスのみが載っている。紙の資料などはいっさい置かない。いつも画面に見入るように顔を近づけるので、背もたれに身を任せることはないから椅子にもあまりこだわらない。百キロ近い彼の体を、ぎしぎし余計な音をたてずに支えられる椅子ならなんでもよかった。
ヘッドハンティングと言えば聞こえがいいが、開発部次長といっても部下はアルバイト気分のひよっこばかりで、今夜も彼の前にならぶ八つのデスクは空だ。彼は自分ですべてやってきた。
プロの有段者と対戦し、ことごとく打ち破ってきた将棋ソフト『棋脳』は、彼が心血注いで育て上げてきたプログラムだ。そして、ついに現代の棋界最強とだれもがみとめる山越永世名人との対戦が決まった。対戦は三日後。あと、もう、六十時間を切っていた。
開発管理者用の簡素なコンソール画面の『勝率予想値』が変わるのを見逃すまいと凝視しつづけて、もう一時間。彼は68.7%からピクリとも動かないその数値が、動くと信じて疑わなかった。
そしてついに、その時は来た。
黄色い数字が緑に変わるとともに、72.9%という新しい値が表示された。
「よぉおおし!」
森松は両手を硬く握りしめ、立ち上がってガッツポーズをした。
ちょうどそのとき、人気のなかった廊下を、早いテンポの足音を響かせながら誰かがやって来た。ドアを開けて入ってきたのは、開発部長の立花だった。
「部長! ちょうどいいところへ。今、最新の予測値が70%を超えたところです。72.9%ですよ! これで勝てます!」
満面の笑みで報告する森松の表情が固まった。部長の様子がおかしい。いつもなら、数字の意味もわからずに森松といっしょになって喜ぶフリをしてくれるはずなのに、渋い顔のままだ。
「・・・・・・70じゃ、だめなんだよ」
「え?」
森松が訊き返したのは立花の声が小さく、また、いつもなら言いそうもない否定的な言葉だったからだ。
「臨時の幹部会で厳命があった。・・・・・・90%を超えろということだ」
立花の答えは信じがたい話だった。
「きゅ、90%って・・・・・・。そんな数字、名人相手に出るわけないでしょう?! アマ相手じゃないんだから! 今までだって70%台でプロを破ってきたじゃないですか
」
興奮のあまりに怒りを隠さない森松をなだめるようなしぐさをしつつ、あくまで上司として諭すように立花が言う。
「ああ、そうだ。私たちはそれで勝ってきた。だが、今度はこれまでとあきらかにちがう。今の将棋界の最高峰なんだ。これに勝てば『棋脳』の名前は日本中に知れ渡り、将棋ソフトの歴史を塗り替えることになる。だが、試合が大きくなりすぎた。永世名人を引っ張り出したことで、逆風も生まれている。もし負ければ、名を売るために無理な試合を組んだとののしられ、マイナスイメージは本社にも及ぶと」
この会社は正社員百人ほどのソフト開発会社だったが、親会社はデジタル家電大手の全世界に二十万人の社員を抱える大企業だ。『棋脳』は同じ名の廉価版ソフト販売で数十億の利益を得るはずだが、その市場は親会社にとってはゴミのような存在だろう。
言い返せない森松の肩に手をやり、立花がつづける。
「幹部会は90%を超えないなら、マシントラブルなりの理由をつけて不戦敗にすると言ってる。ほんとはなぁ、100%と言われたんだ、それをわたしが、そんな数字はありえないと説得して得た数字が90なんだよ」
対戦相手の過去の棋譜を分析することで事前に策を練り、その過程で勝利予想値を計算する『棋脳』は、棋士の過去と戦っている。実際の対戦では棋士は新しい手を打ってくるからそれよりは厳しい戦いになる。プロ相手に100%と予想することはあり得ない。
「どうなんだ森松君、なにか手はないのかね。棋譜はもう全部入れたのか?」
「ええ、手に入る名人の棋譜はもうすべて、子供のころの大会のから。門下で影響が濃いといわれるプロの棋譜も検討に加えて、それでやっと70を超えたんです。苦労して組み込んだ盤外戦の要素は0.1にもならなかった。反則にならないように制限つけすぎてるし。そもそも、打ち手の早さとか音とかなんて、過去にどういう影響があったのか映像からじゃ読み取れなかったし」
もうこれ以上無理だと思っている森松の口調は、ぐちのような抑揚のないものになっている。そんな様子を困り顔で見ていた立花が、ほんの思いつきのように提案した。
「そうだ、もっと棋譜は手に入らんのかね。ほら、公式戦だけじゃないんだろ、棋士の対戦は」
うつむいていた森松は、顔を上げて眉を八の字にして立花の目を見た。
棋士は当然ながら公式戦の何倍も研究のために将棋を打つ。そして、昨今の将棋界ではコンピュータを研究に使うのは常識だ。研究会での試合や、自宅での新しい手の検討、そういったものはデータ化されているが、非公開だ。
立花はハッキングを提案したことになるのだ。はっきりとそれとは言わずに。
八の字の眉が咎めだてするように顔の真ん中に寄って、睨みつけるような表情になる。
立花はしらを切るように目をそらし、森松の肩にかけていた手を放して足早にドアへ向かう。
「あ~長居してじゃまをしちゃいかんからな。いいね、90%だ。伝えたよ」
森松はしばらく立花が出て行ったドアを睨んでいたが、ため息をついて自席に腰掛け、いつもは使っていない背もたれにどっぷりと体重をかけた。椅子のスプリングがギッギッと聞きなれない音をたてた。
ちらりとコンソールに目をやるが、値に変化はない。
身体を起こしてキーボードに手をやり、コマンドを入力する。目標値を70%から90%に変更するのに数秒しかかからなかった。その差はとんでもなく離れているのに。
コンソールの72.9%という数字が緑から赤に変わる。目標値を超えて、緑表示にもどることはあるのだろうか、あと三日、いや六十時間たらずで。
森松は電話を取り出し、古い仲間のダイヤルを探した。ハッキング用のプログラムを作っていそうなヤツだ。足がつかないようにやらなければ。敗戦の引責でクビになるのは御免だが、違法行為で検挙されるのもまっぴらだった。
『棋脳』は将棋ソフトで、固有のコンピュータではない。このソフトは森松の会社が親会社から共有レンタルしているスーパーコンピュータ上で動いている。
プロとの対人戦に特化した将棋ソフトである『棋脳』は、対戦中の盤面を評価検討するだけでなく、対戦前に相手の棋譜をネット等から収集して検討し、独自の類似性評価方法で癖や好みを読み取り、事前に無数の仮想戦を行って勝率を求めながら最善手を模索するるしくみだ。ほかにも、対戦時のインパクトを強めるために導入されたグループ会社のロボットアームで駒を動かす機能や、盤外戦で勝率を上げる検討を行う機能が追加されている。
そこへあらたに追加されたのは、ネットに接続されているコンピュータから特定の情報--山越永世名人の棋譜--を搾取する機能だった。海外のサーバを迂回し、こちらの痕跡を残すことなく巧みに消し去る。
それが違法かどうかなど、判断する機能はなかった。通常の検索・収集と同じように、ハッキングは繰り返された。名人の自宅パソコン、弟子のパソコン、研究会のサーバ。単純なパスワードによるガードなど、無いも同じだった。
棋譜はあっというまに集まった。それらをこれまで検討に使用してきた公表された棋譜といっしょにして、検討が再開される。
残り時間は五十六時間になっていたが、親会社のスーパーコンピュータの性能をもってすれば十分な検討時間だった。もっとも『棋脳』には残り時間にあわせて手順を調整するような機能は備わっていなかったから、効率悪くても端から順に検討する。複数の検討を同時進行で行い、ある程度までいくと仮想戦で評価する。評価結果が目標である90%に達していないとき、それがまだ検討の余地がある手の場合は、たとえ低い値でも『再考の余地あり』のフラグを立てて後回しにする。検討の余地がない手は、たとえあと1%で90に届くとしても『破棄』のフラグを立てる。72.9%の手も、目標が変更された瞬間に破棄されてしまった。
もったいない、などという迷いは存在しない。
『棋脳』は、振り飛車の検討の最中に並行して盤外戦の検討に入った。今回の対戦にあたって定められた約束事に関する検討だ。盤上での勝負以外にも、人対人であっても対戦におけるルールやマナーがある。『棋脳』が検討できるのは、そのうちの明文化されているものだけだったが。今回の対戦には、契約書のような条文からなる約束があった。スポンサーからの賞金の分配方法、持ち時間や食事休憩、そして、対戦が始まったらプログラムを改変したり助言を与えたりしないこと。
すべてを読み飛ばさずに端から検討するから、当然その項目にいつか行きつくことになる。
『第十四項 不戦勝について
開始時間を過ぎても、一方が対戦を開始できる状態にないとき、他方を勝者とする。
ただし、天災などによる場合は無効試合とする。
裁定は主催者が行う。』
それは『棋脳』がマシントラブルによって動かなかった場合を想定したものだったが、明確にそう書いてあるわけではなく、名人側にも当てはまる約束事だ。そもそも、人対人であっても、開始時間に着席できなくて不戦敗になることはある。
『棋脳』は、まず、過去の公式戦での不戦勝不戦敗の事例を調べる。けがによるもの、交通機関の乱れによるもの、うっかり時間や日にちを勘違いしたもの。
事例は数あるが、山越永世名人は不戦敗したことがない。そして、他の棋士の不戦敗の事例が当てはまるような確率を計算してみたが0.1%にもならない。彼は事故で足の骨を折った直後に対戦して勝利した経験を持っている。
だが『棋脳』は過去の事例の中でいくつか特殊なものをみつける。
対戦者の死亡によるものだ。
人間は死ぬと、復活して将棋を指すことはない。死さえ与えれば100%不戦敗となる。名人があと二日ほどで命を落とす可能性は、これもほとんど0に近いが、『棋脳』にとっては0ではない。
盤外ルールの検討を数秒で終えた『棋脳』は、『再考の余地あり』のフラグを立ててメモリにしまい込み、新たに入手した棋譜を使った櫓の検討に入った。
朝日が昇る時間になっても、目標を超える手はみつからない。新しい棋譜によって、78%を超える手もみつかったが、それは検討しつくして『破棄』となった。その様子を、もしも、森松がモニタしていたら、それで十分だと考えて数値をいじって90%を超えたと報告し、対戦させたかもしれなかった。それほど良い手だった。だが、『棋脳』はあっさりと切り捨てた。
ひととおりの検討が終わって、『再考の余地あり』として後回しにした検討を、ひとつひとつ・・・・・・いや、みっつよっつ同時に再検討しはじめる。その中には、盤上の手と同様に、対戦者の死亡による不戦勝の検討が含まれていた。
人間の死因を挙げ、その中で自分が確率に関与できるものがないか検討する。
病死、老衰はほどなく『破棄』される。
交通機関の事故によるものは、可能性があった。
『棋脳』は対人戦で実際の盤と駒を使う。盤を挟んで座布団に正座した対戦者と向き合うのはクレーン車を小さくしたようなロボットだ。一本のアームを使って、駒を持ち、移動させ、打つ。また、成りのために裏返したりもできる。
そのロボットは、工場用ロボットを開発する会社が作ったもので、それを『棋脳』が遠隔操作できるようにするソフトが組み込まれていた。『棋脳』が、単に盤上の指し手をロボットに伝えるのではなく、実際に遠隔操作するソフトそのものが組み込まれ、指し手と連動させることができたのだ。
その機能とハッキング機能を使えば『棋脳』は親会社の関連グループのさまざまな機械を遠隔である程度操作できた。外出中に電話で操作するようなタイプの家電や、信号を送って暖気運転させられる車などだ。
自分が動かせるものとその範囲を検討し、名人の移動手段と比較して、死亡させられる可能性を一分近く探ったが、それほど長時間検討しても1%にもならなかった。これも『破棄』だ。
次に検討した死因は焼死だった。
火を起こせるかどうかの検討のため、再び自分が動かせるものを検討する。さっき破棄した交通事故関連でデータを確認していたときに、発火に関する情報もあったのだが、さっきはそれを対象としなかったから、一から検討のやり直しだ。人間と違い「そういえばさっき」などというアプローチは存在しない。検討の条件に含まれていなかった発火に関することのために、同じような検討をもう一度やり直すのだ。
超高速の計算能力があれば、そのやりかたでよいのだ。計算が早ければ、難しい判断にして一度で済ますより、簡単な判断をくりかえし行うほうが効率よくなる。
誤った利用方法による発火の危険性、あるいは欠陥部品による発火の恐れがあるリコール対象。火事の原因となるものはたくさんあった。
それらの膨大なリストを作りつつ、さらに進んだ検討が行われる。ある条件下で確実に発火するものに絞り込むのだ。発火の可能性がある、だけではだめだ。遠隔操作により、ある状態にすると必ず発火するものを探し出すのだ。
そのために必要なデータは、メーカーテストなどのデータであり、これもまたハッキングが必要な場所にあったが、オープンなデータの収集との差異なく収集される。
山越永世名人の自宅を調べ、その周囲にある発火可能なものの位置を確認する。都内の古い一軒家に住む永世名人の家は火災に弱かったが、『棋脳』にとってはそれは幸運でもなんでもない。彼は、ただ、機械的に検討しているだけだ。
この『手』を評価するには、火事と焼死の関連を結ぶデータが不足していた。
『棋脳』はネット上にそれを求め、そして消防庁のデータベースにそれをみつける。
棋譜を比較するのと同じように、火災現場の図面と名人宅周辺を比較し、類似性を評価する。そして、ついに就寝中の名人を焼死させる『手』を見つける。
人は死ねばすなわち不戦敗となるから、焼死させられる確率がイコール勝率予想値となる。
92.3%だった。
『棋脳』はその手に『目標到達』のフラグを立ててしまい込む。そしてなにもなかったかのようにほかの手の検討をつづける。この確率を超えるものを求めて。
デスクに向かって座ったまま眠ってしまっていた森松は、出社してきた他部署の管理者が立てる音で目を覚ました。
寝ぼけ眼をこすってコンソールを見ると、数字が緑色だ。
「きゅ、92.3?!」
昨夜と違って、少し間があった。あまりにも信じがたい数字だからだ。非公開の棋譜で名人の弱点を見つけたとでもいうのだろうか。
しかし、間は一瞬だけだった。そのあとは昨夜の再現だ。
「よぉおおし!」
森松は両手を硬く握りしめ、立ち上がってガッツポーズをした。
違法なハッキングによるものだという罪悪感は吹き飛んでいた。
まもなく出社してきた立花に報告し、92.3%の手は『最善手』として実施が承認される。『棋脳』のさらなる新しい手の検討に停止命令を入力し、『最善手』の実施命令を入力すると、森松は笑顔で大きく息を吐いて、帰宅の途に就いた。ここのところ睡眠時間が不十分だから、あさってのインタビューやプレゼンに備えて、休養するつもりだ。
『最善手』の内容確認などは誰も行わない。それは対戦前のこの時点では、何億もの分岐がある手の総合体であり、人間の理解を超えたもののはずだったからだ。
警視庁捜査一課科学捜査係の横河原警部補はアナログ人間だ。
机の上には書類が所せましと置かれ、右の一番上の引き出しをいっぱいに引き出した上に、折り畳み式の木製将棋盤を置いて、棋譜雑誌を片手にプロの試合をなぞって駒を進めている。事件がない昼休みの決まった風景だった。
そんな横河原に、斜め向かいの席の刑事が愛妻弁当を食べながら声をかける。
「横河原さんは名人とソフト、どっちに賭けてたんですか?」
横河原は盤面から顔を上げ、机の上の書類を皿代わりにしてのせてあった食べかけの市販サンドイッチを頬張り、もぐもぐさせながら答える。
「健全なデカが賭けなんかやんねぇよ」
別に同僚をひっかけようとしていたつもりはない愛妻刑事が質問を変える。
「あ~、じゃあ、どっちが勝つと思ってました?」
「そりゃあ、名人に決まってる。ソフトなんてまだまだだよ」
サンドイッチの最後の一欠片を口に放り込み、横河原は再び盤面に目を戻す。
愛妻弁当を食べ終わって弁当箱を片付けながら、さらに同僚の話がつづく。
「いやあ、でも、ずっと『ソフトはまだまだだ』って言ってた名人が今度の対戦を受けたのは、まだまだだって証明するためか、それとも、自分が人間の時代に幕引きするつもりだったのか、興味ありますよね。・・・・・・ま、もう永遠にわからないですけど」
銀を進めようとした横河原の手が止まる。
山越永世名人と将棋ソフト『棋脳』の対戦は明日の予定だった。しかし、昨晩、山越永世名人は自宅の火事で焼死したのだ。将棋ファンでなくとも、今日はその話題で持ち切りだった。
そこへノートパッドを胸に抱きかかえたスーツ姿の女性が入ってくる。火災犯捜査1係の高浜だった。デスクを回り込んで横河原の脇まで来る。
「慧ちゃん、ちょっといい?」
壁際のミーティングテーブルをタッチペンで指す。仕事の話らしい。
横河原の名は慧で、音数が多い苗字よりも名前で呼ぶ人は多い。親しい友人などは横河原が折り畳みタイプの携帯を使っていることにひっかけて『ガラケイ』と呼ぶが、さすがにちゃん付けでは呼ばない。
ちゃん付けで呼ばれた横河原は立ち上がると身長が二メートル近くあり、将棋よりもラグビーボールが似合いそうな体格だった。
ミーティングテーブルにつくと、横河原が不満顔で言った。
「もう『慧ちゃん、ちょっといい?』はだめだろ?」
「はいはい。横河原警部補、ちょっとよろしいですか?」
高浜がふざけた敬礼をする。同期でいっしょに働いたこともあり、改まった言葉使いは必要ないのだが、高浜は科学捜査係への配置を希望していた。希望してもいない横河原が警部補に昇進して配置になったことでぎくしゃくしそうなところを、軽口でごまかしていたし、横河原も不愉快ながらそれを知っていた。
「仕事の話」
真顔になった高浜がくぎりをつけて、ノートパッドをテーブルに置く。昨夜の火災現場の見取り図だ。消防の火災調査の報告書らしい。
横河原が斜めに見る。そして、発火点のしるしと、赤い色の濃淡で示された焼け具合に驚いて正視する。
「放火か?!」
問いに答えるかわりに高浜はペンで図を指しながら解説する。
「火元はここ、ここ、ここと、ここと、ここの五ケ所。ひとつは名人宅の自動掃除機、あとのは周囲の家の屋内、やはりネット家電。いずれも午後十一時五分ごろ出火」
図面には焼死した名人夫妻の寝室を囲むように火元があった。
「ネット放火殺人ってわけだな」
横河原は高浜が言わんとするところを察した。
「ええ。ネット放火の捜査、前にやったでしょ? あのときのような愉快犯じゃないわ。確実に殺すことが目的よ」
高浜は断言した。調査の初期段階で断言してしまえるほど、あきらかな状況だった。
「となると、明日の試合がらみか・・・・・・」
考え込みはじめる横河原に高浜がさらに情報を与える。
「発火した五つの家電のうち、少なくとも三つの発火について、メーカーのテスト結果がハッキングに遭っているの。それと、消防の火災調査データベースも。いずれも昨日午前一時すぎよ」
ふたりは目を見合わせる。高浜が横河原に何をやらせたいかは伝わっていた。
「ハッキングとネット放火か。まずは『棋脳』のスタッフに当たってみるか、な」
立花部長の部屋は個室で、都会を見渡せる大きな窓と十分なスペースがあった。開発室とちがって、彼の部屋は外から見えてもよかったから、窓がある部屋だった。
朝から名人の突然の死に関する対応に追われていた立花部長が、やっと自室に戻って森松を呼んで話しをしていた。
「主催者の連盟側はスポンサーの意向もあって、代役を立てて明日の対戦はやらないか、と打診してきているが、君の意見はどうだ?」
立花は自席のクッションたっぷりの椅子に座って、広い机の前に立つ森松に尋ねた。
「明日までにその棋士の棋譜研究をして、ですか? 万が一がありますよ。それに、代役って誰です? 今日の明日でいきなり対戦してくれるって、A級の誰かですか? 当代最強ってユーザが思ってくれる棋士ですか?」
森松の口調は熱が冷めてしまっていて抑揚がない。
「うむ、そうだよな。わたしもそう言った。今後は竜王との対戦を模索していくことになるが、ほとんど一からやり直しだ。もし対戦が叶っても、当代の竜王は自身の初タイトルだからな。永世名人と比べると一般向けのインパクトが劣ると言わざるを得ない。スケジュールも組みなおしだ。人類最強を破ったソフト、という称号は絶対必要だ。そのために製品版の発売発表を延ばしてきていたんだから。明日、勝って発表のはずだったのに・・・・・・!」
立花は報道陣のカメラの前で誇らしげに発売を発表する自分の姿を、何度も想像してきていた。もう一歩だったその姿は、今は遠くにあった。
森松が立花との話を終えて、自分の職場へ戻ってみると、部下たちは必死に仕事をしているふうだった。名人との対戦がなくなり、製品版の発売スケジュールが修正になるだろうことはあきらかだったし、このまま発売になるかどうかも不確かだったが、彼らはそうするしかなかった。それに、命じられたことだけ達成すればよい立場でもあった。
あるものはグラフィックデザインを、あるものは音の編集を。ソフトの根幹の部分ではないが、製品化するには必要なことだ。
部下たちの悩みがなさそうな働きっぷりに、森松は羨ましさを感じていた。
自席に腰掛け、コンソール表示に目をやる。それは習慣になっていた。
思わず立ち上がって叫びそうになるところを危うく抑える。
勝率予想値表示が100%の青い文字になっていて、その横に『WIN』という表示が加わっている。
この表示は、対戦中に勝利までの道筋を完全に読み切ったときのものだ。対戦のスケジュールは明日だ。昨日の92.3%の時点で検討を止めるコマンドは入力したのだから、その方針のまま、手の検討を繰り返しているはずで、微妙な予想値の増減はあっても、そもそも100%なんてありえない。
まさか、将棋を『終わらせて』しまったのか? 将棋は先手後手があるゲームだから条件均等ではない。完全に読み切れば、いずれかに必勝法があるかもしれない。だが、それを読み切るには、スーパーコンピュータと言えど地球の終わりまでかかるはずじゃなかったか? まだ一手も指していないのに勝利を確信するなんて。
なんらかのバグがあって、誤った結論に至ったのかもしれない、と開発者の直感が言っていた。だとしたら92.3%の信ぴょう性も疑うべきか。
いったんは、そちらの可能性を考えた森松だが、ひとつの事実に気が付く。名人は死んだ。『棋脳』は不戦勝のことを言ってるんだ、と。盤外戦も検討する『棋脳』にとっては、この時点ですでに勝利なのだ、と。
「下に刑事さんが来てるそうですよ」
部下のひとりが森松に声をかけたのはそのときだった。
「刑事?」
普段なら自分とのつながりなど思いもしないが、今はひとつだけ心当たりがあった。
ハッキングが、まさかバレたのだろうか。
会社は親会社所有のビルに入っていて、玄関はグループ企業の共有だった。ガラス張りの広いスペースだ。四人掛けの丸テーブル卓が5つ。さらに応接卓のブースが6つあり、外来者との面会などに使われる。
森松はエレベータを降りてテーブルを見回す。人を待っているふうな男は二人。どちらも丸テーブル卓にひとりで座っている。
一人はピシッとしたスーツに身を固め、テーブルに硬い革鞄を置いていた。こちらは刑事らしくない。もう一人はがっしりした体格の男でノーネクタイ、鞄も持ってなさそうだ。森松はそちらに近づいて、名乗った。
「開発部次長の森松です」
男は立ち上がって内ポケットからバッジを取り出した。
「警視庁の横河原と言います。昨夜の山越名人宅の火事について調査してまして。お話しよろしいですか?」
森松は無反応を装い、相手に椅子を勧めながら対面の席につく。
刑事の言葉どおりならハッキングは無関係と思えるが、油断はしない。そういう意味では無反応なのもよくないかもしれない。もしもやましいことがないなら、こういうときの反応はどうなのだろうか、と考え、不思議がることにした。自分たちになにが関係あるんだろうか、という疑問の表情だ。
だが、プロのペテン師でも役者でもない森松の演技は、やはり不自然だった。横河原は経験から、森松がなにか隠そうとしている匂いを感じ取っていた。
「実は、放火の疑いがありましてね」
この言葉には、森松は演技ではない反応をした。
「放火?!」
声が大きくなる。やや離れた席で、まだ人待ちふううのスーツの男性が振り返るほどだった。その反応は、横河原から見るとシロのように見えた。下調べで、この森松が『棋脳』の開発運用を実質ひとりで取り仕切っている人物だと知り、最初のターゲットにしたのだが、はずれかな、と思う。だが、刑事に知られたくない隠し事はあるようだから、ニアピンかもしれない。
「ええ。それで利害関係の確認なんですが、名人がなくなったことで御社は・・・・・・?」
「うちは被害者ですよ! 対戦すれば勝てるところまで行ってたんだ! 名人を破ったソフトっていう称号が手に入るはずだったのに」
まさに森松にとって90%超えは勝ったも同然だったから、この言葉に嘘はない。
「対戦が行われたらまずいような状況はなかったのですね?」
横河原は念のためもう一歩踏み込む。
「ええ! おかげでうちは対戦相手の選定から全部やりなおしですよ」
それは部長の仕事だったが、嘘ではない。刑事の質問は会社に対するものなのだから。
「すごい自信ですね。たしか、対戦者の棋譜を事前に検討してその相手に対して強くなる学習力があるんでしたっけ?」
森松は横河原の質問に出てきた『棋譜』という言葉にどきりとする。
「あ、いえ、詳しいシステムについては社外秘でして。捜査にはご協力したいので、どうしてもということでしたらお話ししますが」
令状でも持ってこい、という意味になるが、あくまで口調やわらかく答える。
横河原はまた、なにか隠し事の匂いを感じたが、火事のことではなくソフトのことらしいからはずれだろうか、と思い始めていた。とりあえず、決まりきった質問をする。
「昨夜のことをお訊きしてもいいですか?」
「ええ。昨日は朝まで会社にいて、対戦の作戦を決めてから、休暇とって帰宅して昼間寝てたんです。ここんとこあまり寝てなかったので、夜の八時ごろまで寝てて。そのあとさっぱりしたかったのでサウナに行ってました。持ち物はロッカーに置いてたので、メールやら電話やら気が付かなくて、火事のことを知ったのは今朝のニュースをサウナの休憩室で見て」
訊かれたのは夜のことだったが、火事との無関係を主張して、この会合を早く終わらせたいという気持ちのせいで、昨日の全行動をしゃべることになってしまう。
「なるほど」
サウナの記録や防犯カメラの映像で、すぐに確認が取れそうなアリバイだ。しかも、横河原はネット放火だとは告げておらず、単に放火と言っただけだ。犯人なら居場所ではなくネット環境のことを気にするかと思ってのひっかけだが、それにひっかかった様子はない。
「じゃあ、昨日の午前一時ごろは?」
その時間は犯人につながると高浜が睨んでいるハッキングの時間だ。その時間にパソコンが操作できる環境にいたら、疑いが残ることになる。
「午前一時?・・・・・・たしか、上の部屋の、自席で仮眠してましたよ。『棋脳』の計算待ちで」
なぜ昨夜の放火の調査をしている刑事が、昨日の午前一時のことを訊くのか理解できなかった森松だが、その時間は彼にとっても深い意味がある時間帯だった。彼が施した『棋脳』へのハッキング機能追加の後だ。
また横河原の鼻がなにかの匂いをかぎ取る。それがなにかはわからないが、ひとつひとつつぶしていくのも刑事の仕事だ。
「ほかにどなたかいらっしゃいましたか? それか、部屋に防犯カメラとか」
「わたし一人ですよ。その時間の前に部長が来て話をしてから朝まで。防犯カメラはあります。ビルのセキュリティ管理はうちの会社じゃありませんが」
横河原は将棋ソフトが自動的にハッキングを実施しているとは夢にも思わない。ハッカーが端末操作している場面を想定していたので、確認するのはログとかではなく防犯カメラの映像で良いと思った。その映像を入手する過程には、対象である森松が介在しないほうが好ましい。
「ありがとうございました。捜査中ですので、放火の件は内密に願います」
横河原は挨拶して立ち上がった。念のため、防犯カメラの映像を入手するために。
夜になって自席で昼間の捜査結果を検討していた横河原のところへ高浜がやってきた。
「な~んにも言ってこないけど、どうだったの? あの会社」
ほかの刑事は帰っているので、かしこまった口調は使わない。
「うん。放火は・・・・・・シロかな。なんかひっかかるんだが」
横河原はノートパソコンで防犯カメラの映像を二十倍速で再生していた。映像には明るい仕事場で机に突っ伏して寝る森松が映っている。よく寝ていて、問題の時間に端末操作は行っていない。サウナの映像では、ロッカーに携帯等は置いて、ネットにつながるようなものはいっさい触っていないことが読み取れる。
「こいつ、いったん大喜びしたあと上司になにか言われたらしくてな。電話で家族にでも帰宅できないって連絡したあと猛烈なスピードで入力したかと思うと、その後はぐっすりさ。そんで、朝になったらまた大喜び。なんでも、明日対戦してたら勝ててたんだと。動機がなしだ。対戦して勝たなきゃ、不戦勝には意味がないってわけさ」
横河原は何度も映像を分析し、森松が心底喜ぶシーンを何度も見ていた。
「動機ね・・・・・・。こっちは、なんとかあちこち話をつけて、ネット上で監視してもらえることになったわ」
高浜がにっこり微笑む。
「監視?」
横河原には何のことかわからない。
高浜が顔を近づける。
「ハッキングの手口がね、巧妙なんだけど単調なんですって。まるで追跡されると思ってないのね。すべて同じルートを繰り返し使っているの。次ももし、同じルートだったら、ログを消し去る前にこっちでログを取ってしまうための監視。ログが入手できたら、発信源まで追跡可能ですって」
『棋脳』は罪悪感もリスクも感じていないから、単純に同じ手順をまったく同じ条件で実施しているだけだったのだ。そうとは知らない高浜は、自信過剰な犯人像を想定して、専門スタッフを動かして監視することにしたのだった。
「次って、いつだよ」
もう名人は死んで、目的を達してるとしたら、次はないじゃないか、と横河原は思った。
「不戦勝でもいいから将棋ソフトが勝ってほしいと願ってる人物がいるのだとしたら、願いが叶わなかったら、動くと思わない?」
不戦勝が成立するのは明日の試合開始時間だ。試合中の持ち時間は考慮されず、開始時間に対戦できないなら負けが決まる。死んでしまった名人は来られないから、主催者の裁定で『棋脳』の不戦勝が確定する。名人が亡くなっているから、対戦会場のセッティングもなにも取りやめになっているが、形式上そうなっている。
森松の会社がシロならば、勝敗で得をすると想定される、勝敗に金を掛けている人間が怪しい。海外の合法的な賭けか、国内の違法な賭けか。今回の対戦は結果が予想もつかないから双方勝ちを予測する者がいて、大きな賭けの対象となっている。不戦勝でも、大金を手にする人物がいるはずだ。
不戦勝は時間が来たら自動的に決まるようになっていない。主催者である連盟が対戦不能と裁定し発表して初めて決定する。
高浜の考えは、調査協力の名目で、主催者に裁定を延ばすよう要請し、理由を伏せて発表すれば、犯人が警察の捜査情報を探ろうとハッキングするのではないか、ということだ。そして、その要請を行うのは、高浜ではなく警部補の横河原ということになる。
「はん」
理解した横河原があきれたように返事とも溜息とも取れる声を出す。
「わかったら、今夜はもう帰って、明日は早起きしてちょうだい。間に合うように連盟に行ってね」
手をひらひらさせながら、高浜が立ち去る。その姿を見送って、横河原はパソコンをシャットダウンした。
本来なら対戦が行われるはずだった日の昼、連盟は「不戦勝」の裁定を当面見送ることを記者とネットに発表する。
これで犯人が賭けで儲けようとした人間であれば、自分の犯行目的を悟った警察による介入をまっさきに疑うだろが『棋脳』はそうではなかった。
時間になって名人が参加できないのに、なぜ不戦勝にならないか理解できないし理由をあれこれと「考える」こともない。ただ、これまでの対戦で『棋脳』側が勝ちを見切ったあとも「まいりました」と言わずに手を打ち続ける棋士との対戦のように、勝利が確定するまで手を打ち続けるだけだった。
ただし、これは盤上の戦いではない。盤外戦だ。まず、勝利の条件にある「主催者による裁定」についてネット上で確認しはじめる。『棋脳』は状況を比較し類似点を評価するタイプなので、ネット上のありとあらゆる競技で、ルールどおりに勝敗が決まらなかった例をピックアップして比較しはじめる。
もっとも多かったのは審判の買収による事例だったが、それらの例は今回のように裁定見送りではない。まったくあてはまらないと人間ならわかりそうなものだが『棋脳』はとことん事例を集めて比較し続ける。
勝率予想値の目標値を森松が設定していたように、はっきりした目標があれば、ある程度検討したのちに、目標を超える案と超えない案に区別をつけることができるが、今回はだれも目標を設定していない。
自分で設定もできないのでとことん検討し、しつくしたら次の案、そして案が尽きたら検討結果を比較するという方法しかない。
とんでもない遠回りだが、計算の速さがそれをなんとか補っていた。とはいえ、警察の介入の可能性に行き着いたのは日が沈んでからだった。その介入を排除する手の検討のために、連盟へ影響を及ぼした人物を特定し排除するという「手」に行き着いたのは、そのすぐあとだった。
名人戦での例と同じく、人間は死亡させればよいのだ。
連盟の議事録をハッキングで入手したのは夜も更けてからで、そこに「警視庁捜査一課科学捜査係の横河原警部補からの強い要請により、調査協力のため」と理由と同時に排除すべきターゲットの名を見つけた。
そのころ横河原は、自宅のこたつに入ったまま、晩酌の途中でうたた寝しはじめていた。
彼が住んでいるのはひと棟に六戸が入った木造モルタル二階建ての古いコーポだった。彼の部屋は二階の真ん中で、一階にならんだ六つの玄関ドアの左から三つ目が彼の部屋への入り口だ。ドアを開けるとすぐ階段。階段の上のドアをあけると広めのLDKで、そこにこたつを置いていた。そこから寝室にしている和室と、ベランダがある書斎がわりの板間にそれぞれつながる扉がある。
今日は朝から連盟へ行って調査協力を要請し、その後は将棋賭博関係を洗っていた。調査対象が絞り切れないので手探り状態で、余計に疲れがたまった。帰宅して、コンビニで買ったスルメをさかなにレンジで温めた酒を飲んでいて、そのままこたつにうずくまって寝ていた。
こたつ板の中央に置かれて充電中の携帯が、バイブレーション機能で細かく跳ね回り、こたつ板とぶつかって音をたてる。
「んんん?」
寝ぼけ眼をこすりながら、携帯に手を伸ばす。くん、と鼻を鳴らしながら。
なにか焦げ臭い。以前も何度かこたつで寝て、ジャージを焦がしたり低温やけどしたことがあるので、またか、と思う。携帯を開けて受信ボタンを押すと高浜の声だ。
「慧! あんた、どこ?! 大丈夫?! ハッキングがあったの! 連盟と警察に! 署員録の個人情報が抜かれて、さっきはネット家電向けの信号が発信されて! 慧! 返事して!」
「そんなにポイポイ言われたら返事できねぇよ。ハッキングのログは取れたのか?」
横河原はまだ瞼が半開きの状態だ。それを聞いた高浜の安堵の声が返ってくる。
「・・・・・・よかった。ログは取れたわ、そんなことより、無事だったのね。てっきりあなたが狙われたのかと」
「狙われ、って、放火か?」
新たな事件の話と理解して、横河原が完全に覚醒する。そのとき、戸外から声がする。
「火事だ~っ!」
横河原が顔を上げると、階段に通じるドアのすきまから黒い煙が侵入している。
部屋を見回すと、フローリングのつなぎ目からは蒸気のような白いもやがあちこち上がっている。
バチッ! と音がして照明が消える。だが台所の横の小さな窓の外から赤い光が入って部屋を照らしている。サイレンの音が遠くから近づいてくる。横河原が聞きなれた警察のものではない。カンカン鐘の音が混じった消防のサイレンだ。
立ち上がってこたつを蹴り上げながら、出口へ向かう。ドアをあけると、そこは蒸気機関車の火室のように炎が詰まっていた。顔が熱気にさらされる。あわてて閉めてノブから手を離すと手の皮がノブに焼け付いて剥がれた。
すぐ反対の和室へのドアを開けるのに、なにか布で持とうかと躊躇するが、探す時間はない。やけどした右手でそのままドアを開ける。部屋の手前は焼けていないが、窓のカーテンや周囲の家具を中心に、窓側半分は火の海だ。熱気と煙を閉じ込めるために、このドアもまた閉じる。
リビングを斜めに走って書斎への扉を開ける。床や壁、天井が燃え、ベランダ近くでは倒れた本棚と本が燃え上がってバリケードを作っていた。ここも閉めるしかない。
だが、残されたLDKには台所の横の格子入りの小窓しかない。さっきあけた三つの扉のどれかからしか、外へは出る方法はなかった。
煙がドアを超えて侵入してきていた。見えないが二酸化炭素だか一酸化炭素だかも充満し始めているだろう。喉が痛い。気温はもうサウナの中のようだ。
階段に通じる扉が燃えはじめている。
外は消防が到着したようで騒がしい。放水は始まっていない。このままでは焼け死ぬか窒息死かだ。
横河原の脳が、なにか助かる道がないかと記憶の中を必死に探りはじめる。そして、ひとつの手に行きつく。引っ越しのときに上げるのに苦労したでかい冷蔵庫だ。手伝ってくれた友人が「ガラケイが入るんじゃないか」と言った。棚を抜けば入って閉められる。消防が助けてくれるまでもてばいいのだ。だが、台所に置いたままでは助けられる前に熱か窒息でやられる。階段を滑って下りれば、玄関ドアの前まで行けるはずだ。あの火室の中でも短時間なら生き延びられるだろう。玄関ドアの前まで行けばなんとかなるかもしれない。
行動するのは早かったし、力もいつも以上に発揮された。大きな冷蔵庫を階段に通じるドアの前に置いて中のものをかき出し、横に倒す。燃えているドアのノブを手近にかけてあった服を使ってつかんでこじ開けると、さっきの火室状態よりも大きな炎がリビングに吹き上がる。そこへ蓋が開いた冷蔵庫を突っ込み、重心が階段にかかろうとしたときに、中に飛び込んで蓋を閉めた。
中は真っ暗だが、冷気が残っていた。ゆっくりと冷蔵庫が傾いていく。
衝撃に備えて歯を食いしばり、両手で頭をガードする。
ガタン、ガタン、ガタン!と階段に引っ掛かりながら下っていくのは、すでに階段が焼けてまっすぐではない証拠だった。あと三分の一というあたりで、早くから燃えていた段が冷蔵庫の重みに耐えきれずに崩壊する。四段分くらい、冷蔵庫はまっすぐに落下し、縦になって止まってしまって玄関ドアまでたどり着かなかった。
落下の衝撃で、頭をガードしていた指を強く打ち、強く食いしばっていた歯が一本折れて舌の上に転がる。鉄の味が口の中に広がる。血が大量に出ているようだ。
まだ熱くならないが、熱は急に来るのだろうか、と横河原は思った。
そのとき、玄関ドアに斧が突き刺さった。
外から消防隊員がこじ開けようとしているのだ。蝶番と鍵部分が破壊され、扉が取り除かれる。冷蔵庫に気が付いた消防隊員ふたりが、強引に引きずり出して地面に転がした。
中では横河原があちこち身体をぶつけていた。
消防隊員が扉を開けると、隊員のヘルメットのライトに照らされて、血だらけの口を開けた横河原の顔が現れた。
地方裁判所の階段を上るベテラン判事の斜め前を歩いていた若い判事補が、夕陽が差し込む踊り場で足を止めて、判事に声をかけた。
「これでやっと、マスコミの報道熱も一段落ですかね」
「ん? ああ、そうだな」
ふたりは今日、将棋ソフト殺人事件と世間で呼ばれている事件の判決を言い渡してきたばかりだ。
「未必にもなにも、故意なんか存在しない。殺人事件と呼ぶマスコミの世論誘導なんかに惑わされちゃいかんのだよ、われわれはな」
判事も足を止めて苦い表情で言った。
「『飼い主が”行け”と人を指さして命じたら、犬がその人をかみ殺した』じゃなくて『料理人の手を離れた包丁が客に刺さって殺めてしまった』ですね」
判事補が言ったのは裁判の中で今回の事件を言い表そうとした検察と弁護人の言い分だった。もちろん被告は『棋脳』ではなく森松だった。
「『ついに人工知能が人を殺した!』とかいう特番組んでたとこもあったなあ」
判事は法廷では決して見せない笑みを見せた。
「あ、ご覧になってたんですか? ああいうとこにこそ、平井教授のお話を全文引用してほしいもんですよね」
判事補のいう平井教授とは、AIの制御に関する専門家として裁判に呼ばれた参考人だった。全てのAIに人を殺さず命令を実行させることができるか、と訊かれ、平井教授はこう言った。
『人を殺めないために、何を避けなければならないかを弱いAIにあらかじめ組み込むことは可能か、という意味なら可能です。本来期待される機能のためのプログラムをはるかに上回るプログラムが必要でしょうけれどね。しかし、全てとなると難しい。相手は人間が予想もしないことをやろうとするかもしれない。そもそも弱いAIに期待されるのはそういう部分ですから。その予想外の行為に的確な制限を加えるのは難しいことです。
今回の例でも、もしも開発者がなんの制限も加えてなければ、このソフトは不戦勝よりも時間切れ勝ちを選んだでしょう。ロボットアームで対戦中に相手の頭を強打すればよいだけです。持ち時間内に次の手が指せない程度に強く。殺しても殺さなくても。おそらく100%近い勝率と予測する手だったでしょう。
それをしなかったのは、倫理感からでもないし妨害行為で反則負けになると判断できたからでもありません。盤外戦がみっともないことにならないように、あらかじめ開発者がアームを動かす範囲を制限し、盤面に手を伸ばすのは自分の手番だけという定量的な制限を施していたからです。殺人を封じるためではなかったが、結果的に封じたことになる制限です。
この例はたまたまでしかありませんが、AIの行動を事前に想定し、先回りして適切な制限を加えてやれば、犯罪的行為は防げます。しかし、弱いAIに対してそれを行うには、人間があらゆる可能性を想定しなければなりません。相手はすべての可能性を模索するのですから先回りするのは非常に困難でしょう。
細かい制限を付け加えるのでなければ、善悪の概念を植え付ける必要があります。AIに自分で自分の行為の善悪を判断させるしくみを組み込むのです。
それはもう弱いAIではない。意識を持つような強いAIです。そして、強いAIであっても、道徳の観念を根幹に組み込むことはAI開発そのものより困難です。そのような研究の必要性を謳うガイドラインを科学者たちが策定していますが、それはあくまで開発者の行動規範となるガイドラインで、どのような技術がそれを可能にするのかは、これからの課題です。
古来のフィクションから考えられてきた”人を殺さぬ”という原則は、今のそう強くないAIには理解できません。人を殺すなと命じられたAIは、人が死んでしまう可能性がある事柄を処理しなくなってしまいます。たとえば百万人が住むような都市開発計画の策定を命じても、彼はその開発の過程や結果で人が死亡する可能性が一万分の一パーセントあると算出していれば、ひとり人間を殺してしまうのと同じと考えるでしょう。たとえ小数点以下であってもゼロでない限り同じです。結局割り切りを覚えさせるしかない。
その割り切りを教えた人物は、実際に人が死んだら、それこそ未必の故意による殺人者かもしれない。
性能面での進歩の速度は早まる一方で、制御のしくみは追いついていけない。また、もし人を絶対に殺めないAIのしくみを誰かが開発しても、それをすべての研究者が採用しないかぎり、全てのAIが安全とはならないのです』
判事と判事補は、今回の裁判と裁判にまつわる周辺の騒ぎを、それぞれに思い出していた。将来を危ぶむ声、特別な例だと笑うもの、内容には無関心でただただ騒ぎ立てるもの。
判事は言った。
「結局、司法の手に負えるのはここまでだ。あとは立法と研究者にがんばってもらわないとな」
裁判の傍聴席に来ていた名人夫妻の娘の姿が判事補の脳裏に浮かぶ。森松が業務上過失致死の判決を受け、『棋脳』が完全に消去されプログラムが永遠に破棄されることになったと聞いて泣き伏した彼女の姿が。明らかに殺人的方法で両親が命を失ったのに、だれもその罰を負わなかったことの不条理を悲しむ泣き声が。
「そうですね」
判事補は夕陽の階段を、また、上り始めた。