リンゴと流星と人魚
魔法使いは知り合いの人魚が体調不良であるという情報を耳にした。
魔法使いの彼は早速お見舞いに出かけることにした。
ここは一発サムゲタンなる異国料理をこしらえてみようと、無駄に張り切っていた。
だが地元のニンゲンに、
「病人に出すような料理じゃなくね?」
と突っ込まれたので、見知らぬ料理にチャレンジをするという欲求をグッと堪えた。
仕方なしに普通の弁当で我慢することにした。
ほうれん草を混ぜた卵焼き。
味の染み込んだ肉じゃが。
料理をタッパーに詰めて、万が一中身がこぼれても大丈夫なようにビニール袋にくるめる。
電車に乗って三十分。
魔法使いは人魚が借りているアパートメントにたどり着いた。
扉を開けて驚いた。
人魚が眠る布団の横、ちょうど枕元の辺りに一本のリンゴの木が生えていた。
「あれ、魔法使いさん」
木陰の下で人魚が布団をモゾモゾとさせている。
蠢きに合わせて、毛布からのぞく紅い尾ひれがあやしげに揺らめいていた。
「やあ、人魚さん」
魔法使いは人魚の彼の名前を呼ぶ時間も惜しむように、部屋の中に現れた厄介事に目が釘付けになっていた。
「これはいったい全体、どうしたんだよ?」
魔法使いの質問に人魚が、力なく答えている。
「ああ、これね」
人魚の、アイスティーのような色合いの瞳が不安げに揺れている。
「昨晩掲示板でレスバを繰り広げてたら、翌朝こんな風になってたんだよ」
「レスバ」
ネット文化に関心が薄い魔法使いは、言葉の意味を少しだけ考える。
「ああ、要するに限定された空間内におけるコミュニケーションの不具合のことか」
「まあ、言い争いだよね」
何でも魔法製作についての相談の場が不必要に、過剰なまでにヒートアップしてしまったらしい。
「半年ROMれ、って言われたよ」
人魚は疲労感たっぷりに、布団のなかで笑っていた。
その様子から、魔法使いは人魚が電子上でもっと悲惨な目にあったことを無言の内に想像し終えている。
「魔力回路暴走やらなんやら、それがこんな現象を呼び起こしたんだろう」
人魚は鬱に苦しめられながら、生えてしまったリンゴの木を憂いを込めて眺めていた。
「早く処理しないと、掲示板にひしめく将来有望な若手魔法使い達の魔力で木はどんどん育つかも、な」
さてどうしたものかと、人魚が下半身に生えているウロコの隙間に悩みを海水のように染み込ませていく。
完全に水の冷たさに染まりきる前に。
「おまかせあれ!」
魔法使いが人魚から毛布をはぎ取っていた。
という訳で彼らは海岸線に訪れていた。
いわゆるビーチとは全く異なる、コンクリートに舗装された人工の波打ち際である。
「え?」
海岸の淵に魔法使いが自分のスマホをそっと置いているのを、人魚はポカンと眺めていた。
魔法使いの、細くしなやかな腕に見合わない豪腕によって、人魚はあれよあれよと車椅子に乗せられていた。
「いやあ、気持ちいいね」
「言っている場合か?」
人魚の問いに魔法使いがハッとさせられている。
「確かに……! スマホから生えたリンゴの木を部屋の外に出すのにも一苦労だったよ。いやあ、僕は今、引っ越し業者さんの運搬技術には脱帽させられるね」
思い出を語る魔法使いは他人を尊敬している。
「ここまでスマホに生えたリンゴの木を運ぶのに、それはそれはもう、たくさんの親切で素敵な人たちに助けられたものだよ」
「親切心の浪費に相応しい一幕だったよな」
人魚を車椅子で運んできた魔法使いは、全く疲れを感じさせない様子で上着のポケットから、指揮棒のような魔法の杖を取り出している。
「ちょっと離れていてね」
「ちょっと」
魔法使いと人魚は、競技用プールを二つ繋げた程度の距離を作っていた。
海原は遠く、スマホはコバエのように小さな点になっている。
「危ないからねえ」
何をするつもりなのか、人魚が魔法使いの彼に問おうとする。
しかしその前に、魔法使いは呪文を唱えていた。
「青さよ、紙一重の危うさよ、鮮やかに切り捨てて踊ってくれ」
歌うように唱える。
歌詞のような言葉の連なりから、魔法の杖から光が天に向かって飛んでいく。
最初、人魚はそれを雷鳴であると勘違いしていた。
確かに今日の天気は人魚の心理状態を模写したかのような曇り空である。
雷が鳴っても、違和感はない。
だが、音は人魚の許容を遥かに越えた異常性を増幅させ続けた。
風をズタズタに引き裂く。
空間の連続性を断絶する重さ、重力の狂暴さ。
目に求まらぬ早さで、空からスマホと、スマホに巣くうリンゴに向けて隕石が炸裂していた。
とてつもない轟音。
「……ッ?!!」
人魚は衝撃に、魚の下半身が車椅子から吹き飛ばされないように必死になっていた。
「あはは」
暴風のなかで魔法使いの笑う声が聞こえた。
衝撃波が通り抜けた後、スマホとリンゴがあった場所には直径二メートルほどの穴が出来上がっていた。
「どうかな?」
どう、と問われて、人魚はウロコが恐怖で逆立つのをどうにかして堪えようとしていた。
殺されるのではなかろうか?
人魚はそう考える。
その上で、人魚は少しでも肯定的な意見を捻り出している。
「な、なるほど、ネットのトラブルなんて、所詮はスマホを消し飛ばせばただの他人事、ってことになるんだよな」
なかなか良い解釈ではないだろうか?
人魚は車椅子の上で自画自賛したくなる。
「違うよ?」
しかし魔法使いの答えは違った。
「今から君を誹謗中傷した人みんなに、さっきの魔法を贈ろうかなって、それだけだよ」
どうやら魔法使いは人を殺したがっているようだった。
「安心してよ。知り合いにハッカーがいるから、個人情報ならすぐに集まる」
あくまでも魔法使いは人魚のことを、心の底から心配しているに過ぎない。
「僕は、僕に親切にしてくれる人たちを愛する、尊敬する」
病気療養に気合いを込めた料理を作ってしまえるぐらいの、魔法使いのやる気に人魚は戸惑う。
「同時に、僕は僕に優しくしてくれない人、助けてくれない人、傷つける人を皆殺しにしたい。
だってそうだろう? 彼らが生きていても楽しくないじゃないか」
しかし困窮に身を任せておく場合ではなかった。
このままでは、魔法使いによって世界中にクレーターが拵えられてしまう。
「あ、えっと、ちょっと待って」
人魚が魔法使いを呼び止める。
「その前に、……あー……壊れたスマホを新調したいんだが」
魔法使いは人魚に少しの敵意を向けていた。
「俺は」
それでも人魚は言葉を止めない。
「嫌いなやつだって、殺さずにいられる人魚でありたいよ」
我慢をすること、秘密が魔法使いの一番嫌いなものであることを、幸運にも知っていた。
それだけの事、感情を素直に表現した上で。
「そうだね、それはとても大切なことだ」
人を殺したかった魔法使いは、諦めて、人魚の彼の提案を受け入れていた。
「じゃあ、行こうか」
車椅子を魔法使いに押してもらいながら、人魚は携帯ショップに向かうまでに、世界を救う方法について考えなくてはならなかった。
恐れは、悲しいかな、嬉しいかな、鬱をしばしの間だけ忘れさせた。