マグリットの空、セピア色の写真
先週、電車から見た空について。
不思議な色の空に出会った。
仕事帰りの電車内、つり革に掴まり文庫本を読んでいた。目が疲れてふと視線を上げると、思いがけず広い空がそこにあった。
電車は高台を走っており、大きく取られた車窓から見えるのは、家々、スーパーマーケット、ガソリンスタンド。そして窓の3分の2を占める、薄く黄みがかった水色の空。
最初は目がおかしくなったのかと思い、うろたえた。反対側の窓は太陽が山の向こうへ沈むところなので、こちらの窓は東側である。光の残滓が空をこんな色に染めているのだろうか。
目の錯覚ではないと気付き、真っ先に思い付いたのは、何故か友人がくれたセピア色の写真だ。カメラ好きの友人が自分で加工したという、静岡の修善寺にある竹林を撮った一枚。一緒に旅行で訪れ、青々とした竹と快晴の秋の空が清々しく、とても気持ちよかったことを記憶している。
何故セピア色に懐かしさを覚えるのだろう。生まれたときからカラー写真だったのに、あの黄みがかった色は郷愁を誘う。戻らない過去の記憶が掘り起こされ、切なく胸をしめつける。竹林というどこにでもあるような風景が、途端に愛しく限りあるもののに見えてくるから不思議だ。
続いて頭に浮かんだのは、ルネ・マグリットの「ピレネーの城」という絵画だった。
ペールブルーの空を背景に、キャンバスのど真ん中に灰色の巨石が浮かんだ、なんとも不思議な作品。タイトルの意味も絵画の真意もわからないが、見るたびに心がざわつく。
昔は、抜けるように真っ青な空こそが本物だと信じていた。例えばハワイのダイヤモンドヘッドの頂上から見た空、夏の北海道のどこまでも続く道の先に広がる空。たまに白い雲がぽかりぽかりと浮かぶだけで、あの原色の青が強く美しく正しいのだと、信じていた。
しかし、マグリットと出会って一変した。
ぼんやりとした薄い水色の昼間の空、飲み込まれそうな深い群青色の夜の空。彼が描くそれらに衝撃を覚えた。
強くなくても、美しくなくても、正しくなくても、巨石が浮かんでいようとも、山高帽の男たちが降り注いでいようとも、信じていてもいなくても、空は空だ。それ以上も以下でもない。
空のいろんな表情を知り、固定概念で頑なだった心は解き放たれ、人に対しても事柄に対しても、ありのままで受け入れられるようになった。こだわりを捨て、先入観なしに向かい合う。そこには新しい発見があり、嬉しい誤算があった。
だから、この空は、これでいいのだ。
私はまた文庫本に目を落とす。
去り行くペールブルーの空、訪れるダークブルーの空。過去をそっと慈しみ、未来に期待を込めて。次は何色の空に出会えるだろう。そう考えただけで、心が弾む。
少し混んできだ車内で、鼻歌でも出そうなほど上機嫌になった。
作中の「山高帽子の男たちが降ってくる」云々は、マグリットの「ゴルコンダ」という作品のことです。
スカッと晴れた真っ青な夏空も、ぼやぼやした薄い春の空も、群青色の密度の濃い夜空も、淡いピンクや黄色や水色が混じった朝焼けの空も、どれも好きです。