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祖父の思い出

母方の祖父の命日を前に、思い出を振り返ろうかと。

母方の祖父は、4年前の10月22日に亡くなった。


幼い祖父とその母の白黒写真が手元にある。

私の曾祖母にあたる女性は、大きな瞳に高い鼻、どうみても異国の血が入った顔立ちだった。

なるほど、だから祖父は大正末期の生まれにしては背が高く、鼻筋も通っており、晩年も豊かな総白髪だったのか。


祖父は東京で生まれた。複雑な家庭環境の中、海軍飛行予科練習生(予科練)に。しかし戦地へ赴く前に終戦を迎えた。


その後は旧国鉄の職員として、車掌や運転手ではなく内勤で働き、労働組合関係の仕事をしていたらしい。

それからは、国交正常化前の中国や旧ソ連へ渡航したり、県議会議員に立候補して落選したり、某政党の立ち上げに尽力したり、祖母や母が言うには家庭を省みずに好きなことしていたそうだ。


自分のことは「僕」、妻である祖母や娘である母や伯母のことは「きみ」と呼ぶ。出掛けるときには三つ揃いのスーツをパリッと着こなす。声を荒げたところを見たことがなく、人好きのする性格なのか友人知人は数知れず。江戸っ子というわけではないが、粋な人だった。


ある日、超有名作家の実父が亡くなった報道をテレビで見た後、祖父宅へ遊びに行くと、その葬儀の知らせの葉書があったときには心底驚いた。昔の知り合いだそうな。超有名作家が小さい頃から知っているらしい。

祖父本人の葬儀では、大手企業の会長や某政党の党首から弔電が届いていたりと、人脈が計り知れない。

祖父は不思議な人だった。


孫である私に、政治や経済、自分の好きな音楽をよく嬉々として話してくれた。私が幼稚園児の頃からだ。わかりやすく話してくれるものの、もちろん全然おもしろくない。昔はそんな祖父が苦手だった。面倒くさいとさえ感じていた。

今思えば、幼子を自分と同じ一人の人間として対等に扱ってくれたのだとわかる。私が大学生になってからも、全く態度が変わらなかったからだ。


70歳代で戦友・親友たちを亡くしたときには意気消沈して、「僕もいつ死ぬかわからないから」と莫大な蔵書を整理し始めた。当時大学生だった私には、勉強していたドイツ語にちなんだ資料的な本をたくさんくれた。「多分これね、初版本だから後々価値が上がると思うよ。お金に困ったら売りなさい」とも言っていた。それから10年以上生きたので、随分早い形見分けだったと今では家族の笑い話である。


私は祖父宅近くの大学に通っていたので、祖父とはよく大学内で出会うこともあった。一般人も入れる図書館で、新聞や本を読んでいたそうだ。

見た目が教授のように堂々としていたので、警備員の人たちから普通に挨拶されているのを見たことがある。私が祖父と大学内で立ち話しているのを見かけたゼミの教授から、「あの人はどこの学部の教授なの?」と後から問われたこともある。


それだけではない。祖父は学生に卒論の書き方まで指導していたのだ。

祖父が言うには、大学内のベンチで休憩していたら、顔色の悪い男子学生がいたそう。心配になり声をかけると、卒論がなかなか書けないと悩んでいた。そこで祖父は卒論のテーマを聞き、こういう展開で書いて、ここに君の意見を書き、こういうふうにまとめてみたらどうかと、提案した。後日また祖父がベンチで休んでいると、笑顔の男子学生が現れ、卒論が完成して提出できたと報告してくれたらしい。

しかも彼だけでなく、他に何人も学生と知り合って課題なりレポートなりに助言を与えたり、自宅に招いて悩みを聞いたりしたそうだ。祖父が亡くなったときには、自宅に弔花が届いたり、線香を上げにきた学生もいたと、祖母から聞いた。面倒見がいいにもほどがあると、苦言しながらも祖母は笑っていた。


祖父は肺癌と皮膚がんで亡くなった。

孫で唯一、私だけが夫を紹介できた。結婚式には間に合わず、衣装合わせであるがドレス姿も写真で見せることができた。少しは祖父孝行できただろうか。


入院してから、祖父は毎日日記を付けていた。

その日の重大ニュース、自分の体調などを簡潔にまとめた内容である。そして、一番最後のページには震える字でこう書かれていた。


「娘たちに良き伴侶を見つけてやれた。私の人生で何よりかけがえのないことだ」。


祖父の葬儀の日、初めてそれを読んだ私は感極まった。

母と父は付き合っているときに一度別れている。母の歴代の恋人の中で、祖父は一番父を気に入っていたらしく、再度付き合って結婚したときには大喜びだったらしい。

仕事一辺倒だった祖父の人生で、何よりかげかえないことが娘たちのことなんて。

しかし、母や伯母、祖母は違ったようだ。


「何が良き伴侶を見つけてやれた、よ! あたしたちは自分たちの力で旦那を見つけたの! 自分の手柄にしないでちょうだい!」


「お見合いじゃなく恋愛結婚なのに! お父さんは何にもしてないじゃない!」


「仕事を理由に家のことや子育てなんて何にもしてないのに、よく言うわ!」


出るわ出るわ、祖父への恨みつらみ。

出棺前の三人の激高に、親戚一同オロオロしたり、ハラハラしたりした。


「でも、お父さんらしいわね」


一息ついた祖母が呟いた。

祖母、母、伯母は、身を寄せて静かに涙を流し始めた。

一番近かった家族にしかわからない思いがあるのだろう。


祖父の命日まであと4日。


祖父の写真を見て、私の子供は「じいじ」と指差す。

何故か血の繋がりのない父と祖父は顔立ちが似ているのだ。

母は祖父が好きではなかったと言う。それでも、父と祖父は見た目だけでなく、性格もよく似ていた。

そして私も父と似た性格の夫を見つけた。確実に母の影響だろう。


祖父の命日は、夫や子供が寝た後に、祖父が一番好きだったガーシュインの「パリのアメリカ人」を一人で聞くつもりだ。

ピアノを習っていた私に、祖父がしきりに弾かないのかと聞いてきた曲である。「そのうち弾くよ」なんてあしらって、「そのうち」は永遠に来なかった。


反省はしても悔いることを良しとしない私の、あまりない後悔の一つだ。ジャズとクラシックが融合された軽快なメロディーに思いを馳せよう。


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