後編
麻里と青年はほとんど崩れてしまっている螺旋階段の足下に来ていた。辺りには乱雑な落書きが執拗に描かれており、飾られた絵の額縁のガラスは例外なく割られてしまっている。また、二人の前には、扉の開いた倉庫と思わしき部屋が猛然と存在していた。
何だろうここ。ここだけ異様に寒く感じる。と麻里はか細い腕をさする。
すると、青年は躊躇なく倉庫の中へ入ろうとする。
「ちょっと待って! まさか、この中に入るの?」と彼女は咄嗟に呼び止める。
「はい、たぶんここで落し物をしたので」青年は振り返って答えた。不安気な表情など微塵もない無垢なほほえみを見せている。
「ここでって、もしかしてもう入ったの?」
「はい、そうですよ」
「何もなかった?」
「何もって、虫とかですか? 特にそういうのはいませんでしたけど……」彼はこめかみをぽりぽりと掻く。
「そ、そう……」ああ、思い出した。ここは――。
倉庫の中にはたくさんの壊れた家具や器具が放置されていた。スプリングが飛び出してしまったソファーに、足を乗せたらすぐに壊れてしまいそうな脚立、そして埃の被った様々な塗装用具などがびっしりと密集している。
二人は懐中電灯で舞う埃を照らしながらガラクタの間を縫って奥へ進んでいく。
「どうしてこんなところまで来たの?」と麻里は青年についていきながら尋ねる。
「ははは、何ででしょう」彼は淡白な笑い声を上げて答えた。
しばらく歩いていると、少し開けた場所に出た。ふと天井の隅に懐中電灯を向けると大きな蜘蛛が立派な巣を作っているのが見えた。
すると、突然ズルズルと何かを引きずる音が近くで聞こえた。
ビクッと麻里が体を跳ねらせ、音のした方を見やると、そこにはなぜか床の板を引きずっている青年がいた。
「何してるの!」と彼女は屈んでいる彼に声を荒げさせる。
「よく見てくださいよ」青年は元々板が置かれていただろう箇所を指で指し示した。
麻里はその示された場所に視線を移す。するとそこには、地下へと続く階段があった。石の階段だ。
彼女はそれを無言で見つめた。固く唇を結び、岩になってしまったかのように体を硬直させる。
「さ、行きましょう」青年はにやりと笑って階段を降りようとする。
「待って、行かないで」麻里は低い声で請う。下には、あれが――。
麻里に呼び止められた彼は階段に一歩足を踏み入れて止まる。
「これ以上は駄目……」麻里は懇願するかのように言った。見ないで。絶対に見ないで。
青年は笑顔で彼女を振り返る。「どうしてですか?」
麻里は何も言わない。ただ服の裾を握りしめて立ち尽くすだけ。
「ふふふ」彼は目を細め、口を隠して笑い声を漏らした。
そのとき麻里は気付いた。そして絶句した。まさか、あなたは――。いや、ありえない!
「もう無理だよ」彼は瞼を上げ、視線を彼女に突き刺した。
「――っ!」麻里は青年を見て後頭部を強く殴られたかのようにめまいを起こした。
彼の目は、人間のものとは到底思えないほど暗黒に覆われており、邪悪な靄を纏っていた。
麻里は体を小刻みに震わせる。心臓の鼓動が激しく乱れる。息がまともにできなくなる。
彼女は完全に恐怖に陥ってしまった。
「本当は……」青年は黒い眼光を彼女に浴びせながら一歩近づく。「自分から行って欲しかったなあ」そして軋む床を思い切り蹴り上げた。
その瞬間、彼女の視界は恐ろしい悪霊の顔で満たされ、直に暗転した。
*
私は、真実を隠していた。本当のことを言うと、息子はいなくなってしまったわけではない。
――私達が消したんだ。
今から十五年前、私は一人の子どもを授かった。とても元気な男の子だった。私に似て好奇心も旺盛で、いつも笑顔ではしゃぎまわっていた。
だが不審な点が一つだけあった。当時私には付き合っていた男性がいたのだが、どうしてか息子はその彼氏に似ていなかったのだ。あまり表情豊かではないけれど、優しくて、他人のことを第一に思うことができる彼。私はそんな彼が好きで、子どもが出来たらすぐに結婚した。でも、息子は彼と正反対な性格だった。
私がその理由を知ったのは息子が五歳になった頃だった。
ある日、私は高熱を出した息子を病院へ連れて行き、同時に息子の血液型も検査した。
私の血液型はA型、旦那はO型。となると、息子の血液型はAかOになるだろう。私はそう予想していた。しかし、いざ結果が出ると、私は瞠目してしまった。
息子の血液型はAB型だったのである。
そこで私は初めて気が付いた。この息子は旦那の子どもではない、と。
誰との子どもか思い当たる節はあった。ある友人の結婚式の際に再開した元同級生――裏野さんだ。
私達はその日の打ち上げの後、ついアルコールの勢いに乗せられて羽目をはずしてしまったのだ。
裏野さんの血液型はB型。しかも漠然とだが顔が息子と似ていた。
私は葛藤した。この事実を旦那に明かすかどうかを。
もし明かしてしまえば、旦那は私に裏切られたと失望し、私達の元から去ってしまうかもしれない。しかし、だからといって真実を明かさないわけにはいかない。
そこで私は裏野さんに相談してみた。この事実を隠すために良い方法はないかと。
すると、裏野さんはこのように提案した。
「バレないように殺してしまえばいいんじゃないか」と。私達はすぐにその計画を練り始めた。
よく晴れた気持ちの良い朝、私は息子と一緒に裏野さんの経営している裏野ドリームランドへ出かけた。わざわざ旦那の仕事がある日を選んで行った。
計画は開園したらすぐに実行する予定であったが、裏野さんに午前中急な仕事が入ってしまったということで、決行は午後にずれ込むことになった。
仕方のないから、私は息子の最期を祝うつもりで息子を様々なアトラクションに乗せてやった。あまりに嬉しそうにはしゃぐものだから、私は憎たらしく思った。これが旦那の子どもだったらよかったのに。私は密かに嫌悪感を募らせた。
午後になって私達はドリームキャッスルで裏野さんと合流した。ここが一番息子を殺すのに都合がいい場所とのことである。
改めて息子と裏野さんを並ばせて見てみると、やはり顔がよく似ていた。裏野さんは独身だから、このまま彼が息子を引き取ってくれたらいいのに、と思った。だけどそうすると浮気をしていたことが明るみになってしまうので、やっぱり殺すしかない。
私達はスタッフだけが入れる倉庫の中へ入った。そこは非常に広く、ふかふかのソファーや作業するための足場、ペンキなどがたくさん置かれていた。まるで工事現場のような臭いがその部屋を満たしていた。
裏野さんは元々ここをアトラクションの一部にするつもりだったらしいが、没となり、今では園内最大の倉庫になっているとのこと。ここの設計は裏野さんしか携わっていなかったため彼しか知らない仕掛けがいくつかあるらしい。
息子はつまらなそうな顔で辺りを見渡しながら裏野さんについて歩く。私達のような年になると、このような薄暗い場所に興味を抱くようになるが、幼い子どもはやはり壮大で明るいところの方が好みなのだろう。
しばらく歩くと壁が私達の前に現れた。行き止まりのようだ。しかしここは先ほどの連なった置物の山とは違い、ずいぶんと開けていた。あたかもここに最も素晴らしい仕掛けがあるかのような気配だ。
私がそこを歩き回っていると、不自然にがたつく床があった。足下を見てみると板が張られているだけのようだった。
「あ、そこどいて」と裏野さんが私に向かって言った。
私がそのガタガタいう床から離れると、彼は板に手をかけ、それをずらした。
すると驚いたことに、板の陰から下へ続く石の階段が出現したのだ。
裏野さん曰く、城の地下には牢獄や拷問部屋を作るつもりだったらしいが、それでは子ども達が楽しめないどころか、恐怖を与えてしまうということで、文字通りお蔵入りとなってしまったそうだ。
私達は階段をゆっくりと降りていった。横の壁は狭く、天井も低い。おまけに倉庫よりも暗さが濃くなり、湿っぽさも感じる。
息子はあからさまに顔を曇らせていた。直感的に恐怖を感じ取っているのか、ちっぽけな手で私の手を握る。
少し降りると、重そうな鉄の扉が登場した。近代的なかんぬきが備え付けられており、どんな巨漢でも壊すことのできなさそうなドアだ。
裏野さんがちらりと私の目を見る。私がそれに合わせると彼は小さく合図をするようにうなずいた。――この中に閉じ込める――ということだ。
私は視線の高さが息子と同じになるように屈む。「ねえ、何か言いたいことはある?」と私は息子に問いかけた。非常に意地の悪い質問だったと思う。けれど、それが私にできる最低限の配慮のつもりだった。
息子は泣きそうな声で答えた。「ぼくは、お母さんといっしょに、いたい……」と。
私は嫌だ。あなたと一緒にいたくはない。なぜなら、あなたは私の愛する旦那の息子でないのだから。
あなたは私と旦那の仲を引き裂く恐れを持つ哀れな危険物なの。
だから、あなたにはここで消えてもらわなきゃ。
「駄目なの」私はぐちゃぐちゃに崩した笑顔で言い、息子を両手で抱きかかえた。
裏野さんが無言で扉を開ける。今まで感じたことのないじめじめした空気がこちらへ流れ込んでくる。私は息子を引っ抱えたまま最も暗黒な拷問部屋へ入り、抱えている物を床に下ろす。
「さようなら」そう言うとさっさと扉を出て裏野さんに閉めさせた。この一連の流れは驚くほどにあっと言う間だった。
それから私はいかにも息子が誘拐された風を装って警備員に通報した。
しかし息子は当然見つからない。私達が隠したのだ。私達だけの知る拷問部屋に。
きっと息子は何も食べることも飲むこともできず、暗い暗い地下の空間に独りで泣き叫びながら蟄居しているだろう。そして次第に泣き疲れ、倒れ、餓死する。最後には腐敗し小さな生ゴミと化すだろう。
夕暮れ時、私は遊園地を出る直前に遠くのドリームキャッスルを眺めた。息子は誰にも見つからない。人々は私の息子は誘拐されたと思い込む。そうして私は悲しい母親として周囲から憐れまれ、旦那には毎日のように慰められるだろう。遂行後に考えれば、本当に素晴らしい計画だったと思う。
それから私は息子を見つけられないまま帰宅した。旦那が帰って来ていたから泣き付く真似をしてみた。旦那は私の頭を優しく撫でてくれた。きちんと騙されてくれたのだ。
そのようにして私の計画は見事成功した。
――はずだった。
*
麻里は暗い拷問部屋の中央にうつ伏せになって倒れていた。彼女は気を失っており、辺りには何の音もない。石の冷たい臭いとじめじめとした空気だけが広がっているだけだ。
彼女の腕がぴくんと動く。指の先で何かに触れた。滑らかな物体。――息子の死骸だ。
不思議なことに、死体は腐敗しておらず、ほとんど原型をとどめた状態で残っていた。全体は蝋状になっている。
また、部屋の隅には裏野の死体も転がっており、それは麻里の息子と同じように死蝋化しようとしていた。つまり、彼女も彼と同様に騙され、ここに幽閉されてしまったのである。
「ふふふ、これでずっと――お母さんといっしょにいられるね……」そう呪われた城の地下に、五歳の青年の声は響き渡った。