中編
十年前、麻里はその年に初めて息子を裏野ドリームランドへ連れてきた。そのとき彼はまだ五歳の幼稚園児だった。
幼い彼は初めての遊園地にとても興奮し、何度も何度も母である麻里の手を離れて遠くへ行こうとした。そのため彼は激しく転んでしまい、湿潤治療を施すまでの怪我を負ってしまった。
しかし彼の笑顔は非常に眩しく、ときには太陽よりも輝いているように見えた。そんな無闇矢鱈に走り回る息子の表情に、麻里の顔は自然と綻んだ。
そして麻里達がドリームキャッスルへ訪れたときのことである。息子が突如として姿を消してしまったのである。まるで神隠しにあってしまったかのように。
麻里は警備員にそのことを伝えた。すると警備員はすぐに捜索を開始してくれた。しかし彼は見つからなかった。城の一階から四階まで、隅々を探索したのだが、彼はどこにもいなかったのだそうだ。
また、警備員は遊園地全体までも捜索してくれた。だが、結局彼は今の今まで発見されないでいる。
麻里は、息子が一体どこへ行ってしまったのかは考えない。どこかにそれがいるとしても、彼女は彼がもう死んでいると信じて疑わないからである。
「お母さん……」ふと麻里は自分を呼ぶ声を聞く。
息子もこのような無垢な語調で私を呼び立てていたなあ。と彼女は懐古し、依然としてそびえ立つ廃城を見上げている。
「お母さん!」
「は!」そこで麻里はびくっと僅かに体を跳ねさせた。
彼女を呼びかけていたのは、今隣りにいる青年だったのである。彼は心配そうな表情で彼女を見つめていた。
彼女は目を丸くして彼をちらりと見る。「ああ、ごめんね。少しぼーっとしちゃった」
「どうかしたんですか?」
麻里は青年に余計な心配をかけさせまいと、軽く目を閉じて横に顔を振った。「いいえ、なんでもないわ」
「そうですか」と彼は浮かない顔をし、薄汚れた靴の先でトントンと地面を叩いた。
「それより、どこらへんで男の人を見かけたの? 物音一切しないし、人の気配なんて全く感じないんだけど」麻里は冷静な態度で城の周りを見渡しながら青年に問いかける。
「ああ、この中で見かけました」と彼はドリームキャッスルのぼろぼろになってしまった扉を指差した。
麻里は青年の指し示す方を見て顔をしかめた。「この中、ね……」あまり入りたくないな。と彼女は渋る。
彼女がドリームキャッスルの中へ入るのを躊躇していると、青年の方が先に歩き出した。「僕が落し物をしたのもこの中なので、一緒に入りましょう」彼はさっと振り向いてそう促す。
「え、ええ……、そうね」麻里は若干顔を引きずって、不承不承と城内へ忍び入った。
中は麻里の思っていた以上に悲惨な状態だった。扉を開けて目前に広がったのは大きな舞踏場だったが、壁は滅茶苦茶に剥がれ落ち、床のカーペットも虫に食い散らかされている。まるで廃校の寂れた体育館のように見えた。今もパラパラと何かが崩れようとしている音が聞こえる。埃が大量に舞っており、まともに息を吸えば咳き込んでしまいそうだ。
彼女はその広大な部屋を見渡し、硬い表情で青年に尋ねる。「ねえ、本当にここで見たの?」彼女は裏野が他人を待たせておき、こんな心胆を寒からしめる場所へ寄り道するだなんて思えなかった。
「はい、きっと奥にいるんでしょう」と青年は廊下があるであろう先を見つめて答える。
麻里は床が抜けないようにゆっくりと歩き出した。「本当かなあ」木で張り巡らされたフロアがミシミシと不安に軋む。
そのとき、丸天井に吊るされていたシャンデリアのワイヤーが突然プツンと切れてしまう。そして不運なことに、それは真下を歩いている麻里に向かって猛スピードで襲いかかった。
彼女は未だそれに気付いていない。
「危ない!」そこで落ちてくる危機にハッとした青年が大声で叫び、即座に床を蹴り上げ、彼女にタックルをかましてやる。
電球の割れる音が城全体に響き渡った。
青年に突き飛ばされた麻里はとてつもない勢いで吹っ飛ぶ。幸い、着地した地点のカーペットは健全なままであり、幾分クッションになったため、彼女が怪我をすることはなかった。
しかし青年の方はそうともいかなかった。彼は全身に怪我を負うのは免れたものの、右足がシャンデリアの下敷きになってしまっていた。
「ぐっ……!」青年は苦悶の表情を浮かべる。
麻里は素早く身を起こし、彼の姿を確認して仰天する。「大変!」彼女はすぐに彼の元へ駆け寄り、少ない力でシャンデリアを持ち上げる。
「大丈夫、です……」と片目を強くつぶって歯を食いしばり、足をシャンデリアの下から抜き取る。すると大量に出血している右足が顕になった。ズボンには赤い液体が染みこんでしまっている。
それを目にした麻里は顔を真っ青にさせた。「こんなに血を出して全然大丈夫じゃないでしょ!」
青年は主として負傷していない左足に体重をかけ、ゆっくりと立ち上がる。「いいえ、なんとか立てますから……」ぎこちなくほほえんで彼女を向く。
「私のせいよ、私の……」と麻里は酷く狼狽し、俯きながら詫びる。
「そんな自分を責めちゃ駄目ですよ。誰も予測のできなかったことなんですから」
「でも……」と彼女は眉を下げ、本当に申し訳ない様子でおろおろとする。
「分かりました。少し休んで落ち着きましょう」と青年は提案した。「僕も正直、このままでは歩きづらいので」
青年は右足を引きずりながら近くの瓦礫山へ移動し、ゆっくりと腰を下ろした。
麻里も同じように隣に座る。
「いっ……」と青年は短く声を上げた。骨は折れていないようだが、痛みは猛烈なものらしい。
「本当にごめんね。私の不注意のせいで……」と麻里は痛みに悶える彼の顔を覗き込むようにして謝る。
「もう謝らなくていいですよ」彼は歯を噛み締めながら血だらけの右足を前に伸ばし、ぎこちない笑みを浮かべる。「ところで、水とかってありますか?」
彼女はこくんとうなずき、鞄の中から水の入った水筒を取り出して、それを青年に手渡す。
すると彼はその水を負傷した右足にかけた。「うっ!」と彼は両目を閉じてしまう。
麻里はそれを見てキョトンとした。「それって……」
青年は彼女の声に反応して顔を向ける。「あ、気になりますよね。こうすると菌が入りにくくなるらしいですよ」
「いや、昔息子が怪我したときにもそんな風にしたなって思って……」彼女は呆然として言った。――湿潤治療。私はそれを何度息子に施したことだろう。
そのときシャンデリアの残骸の一部がガシャンと音を立てて崩れる。
「あ、お子さんがいらっしゃるんですね」青年は意外そうな表情を浮かべた。
それに対して麻里は口を開けて押し黙ってしまう。それからすぐに苦い笑いを作り、首を横に振る。「いいえ、今はもういないの」彼女は遠くを眺めて言った。
「亡くなって、しまったのですか……?」彼は目を細めてささやいた。
「分からないの」
それを聞いて青年は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。麻里の言っていることをよく理解していない様子だ。
「私の息子は、行方不明になってしまったの」
「行方不明……」青年は顔を厳しくしかめ、麻里の説明を噛み砕くように反芻する。
「ええ、それも……、この遊園地で」
「ここで、ですか」
麻里は深く頷いた。それから、彼女は息子が誘拐されたことについて詳しく青年に語った。今いるアトラクションで姿を消したということ。一階から四階のどこにもいなかったということ。結局見つけることができなかったということ。その後、別の誘拐事件が多発したと言われているということ。その他、彼女が知っていることはほとんど教えた。
「だから、この遊園地は閉園してしまったんですね……」と青年は感慨深くささやく。
麻里は脱力しきった表情で浅くうなずく。「ええ、そうよ」彼女はそう言うと重たそうに立ち上がる。「きっともう私の息子は生きていないわ。あれから十年も経っているんだもの。それなのに息子の手がかりは一つもなし。絶対に息子と再会することなんてできない」
青年は麻里の顔を低い位置から見上げた。それから彼も足の怪我を庇いながら立ち上がる。「まだ分かりませんよ」
彼女は訝しげるような表情で隣の青年の顔を見つめた。
「そんな嫌そうな顔をしないでくださいよ」青年は自分を見つめる麻里の視線に対して若干怯んだ。「もしかしたら意外な形で再会することができるかもしれませんよ? お母さんの話していた裏野さんという人も、今回息子さんについて新しく分かったことがあって連絡してきたのかもしれません」
しかし麻里は表情を変えなかった。再会することはできないと確信していたからである。
青年は彼女の様子をしばし窺うと、やるせないほほえみを浮かべてため息をついた。「何を言っても駄目みたいですね。ははは」後頭部をボリボリと掻きむしる。
麻里はそれに対して作り笑いを見せる。「お気遣いありがとう。だけど私には必要ないわ」それから彼女は虚ろな表情になり、青年の傷付いた足に目を落とす。
「ああ、これはもう大丈夫ですよ。もう歩けます」と彼は右足をぷらぷらと振って大事はないことを示した。そして彼女に背を向け、続く廊下へ向かおうとする。「さて、さっさと落し物と人の探索を終えて、一息つきましょうか」と振り返り、声を張って彼女に声をかけた。
麻里は彼の元気な姿を見て小さく口を開けた。そうして彼女はほほえむ。「ええ、行きましょう」