前編
数年前のことだが、あるところに、「裏野ドリームランド」という大変賑わっていた遊園地があった。
その遊園地には開園初日から大多数の来園者が押し寄せ、その勢いは数ヶ月経っても留まるところを知らなかったという。
ジェットコースター、アクアツアー、ミラーハウス、ドリームキャッスル、メリーゴーラウンド、観覧車など、そこにあるアトラクションは全て大盛況だった。
しかし裏野ドリームランドが開園して一年過ぎたときのことだ。不思議なことに、そこは何の前触れもなく閉鎖されてしまったのである。
真相は明かされていないが、不可解な子ども誘拐事件が多発したからだそうだ。これは関係者とその他僅かな人しか知らないことである。
人々はその遊園地が閉園することに対して非常に悲しんだ。悲しむ人の中には、閉園しないで欲しいと請う人もいた。しかし、この遊園地は呪われていると批判する者もおり、結局その遊園地は閉鎖されてしまった。
そんな理由で今の裏野ドリームランドは廃園として、ひっそりとその地に枯れ残っている。
そして、ある夏の夜、一人の女性が寂れた裏野ドリームランドのゲートを密かにくぐって行った。
彼女の名前は麻里。例の誘拐事件に初めて見舞われた子どもの母親である。
今日彼女がここへやって来た理由は、この裏野ドリームランドの創設者――裏野に誘拐事件について話したいと呼び出されたからである。
裏野は麻里の高校時代からの友だちであり、最初にこの遊園地へ遊びに来ることができたのも、裏野が直々に招待してくれたおかげだった。
そして今夜も彼女は――ある意味だが――ここへ招かれた。
今、麻里はゲートを抜けてすぐの場所に立ち、落ち着かない様子で辺りを見回している。裏野を探しているのだ。
明かりの点いていないメリーゴーラウンドやコーヒーカップ、飲食店であったはずの建物などが彼女の目に自然と入る。そして彼女はうっすらと笑みを浮かべた。
営業していた頃はとても賑やかだったなあ。彼女はそう耽り、ふと高いところに視線を移した。外装が汚れてしまったドリームキャッスルや、今稼働したら壊れてしまいそうなジェットコースターが仄見える。
しかし問題の裏野は見当たらなかった。彼のことなら私が来てすぐ認識できる場所に姿を置いているだろう、と彼女は想像していたが、今夜は例外のようだ。
麻里は小さく溜息をついて小柄な腕時計で時間を確認する。時刻は九時二分。待ち合わせの時間とほぼ同じだ。
彼女は再び周辺を見渡してみる。それでもやはり裏野は現れない。
彼女はやれやれと頭を横に振り、仕方のないので彼に電話をかけることにした。黒のガウチョパンツを穿いた腰に片手を当て、スマホを耳にあてがう。
電話ならさすがに出てくれるだろう、と彼女は口を手で隠した。だがコール音は切れることなく続く。一向に応ずる気配がない。
終いには「お出になりません」と抑揚のないアナウンスに告げられてしまった。
一体裏野さんは何をしているのだろう、と麻里は腕を組み、頬を膨らませてその場に立ち尽くす。
本来彼は他人を呼び出しておいてこんな粗末な扱いをするような人間ではない。もしかすると何か重大なことでもあったのかもしれない。
それに彼はどうしてこんな夜遅くに、この朽ちてしまった廃園で会談を行おうとしたのだろうか。ここへ来てから考えると裏野さんの提案はやや不可解なものである。
麻里は組んでいた自分の両腕を解き、肩にかけているバッグの金具をいじりだした。
しばらくすると彼女は背後から小さな足音を立てて近づいてくる霊気を感じ取った。やっと来てくれたか……。
足音は徐々に距離を詰めてくる。規則正しいリズムでゆっくりと地面を踏んでくる。
そして、その音がついに彼女の真後ろで止んだとき、彼女は素早く後ろを振り返った。
「まったく、遅かったじゃな――きゃあ!」しかし、麻里の目に映ったのは元同級生の顔ではなく、全然知らない人の顔だった。彼女は予想外の光景に驚愕し、地面に尻をついてしまう。
「わあ! だ、大丈夫ですか!」とその人物も瞠目して一歩後退してしまう。だがすぐに心配する声をかけて手を差し伸べた。
「え、ええ……」激しく動揺している彼女はか細い返事をするも、伸べられた手には目もくれずに突然現れた男の顔を見つめてしまう。
見たところ、彼は中学か高校生くらいの子だった。声は若々しいが、態度は大人な雰囲気を醸し出している。
彼女が何も反応を示さずに口を開けっ放しにしていると、それを見かねた青年は自分から彼女の手を取って立たせてやった。
「あなたは……?」彼女は目を白黒させながら言葉を発する。少しは落ち着いてきた様子だ。
青年はその質問にやや狼狽する。「ああ、ええと……、ちょっと肝試しで、ここに……」
麻里は小さく溜息をつく。「ああ、そうなのね」と服に付いた砂などを払った。「でも、ここは一応他人の所有地なんだから、勝手に入って来ちゃ駄目なんだよ」
「え、そうなんですか!」青年は目を丸くした。「じゃあ、お母さんはどうしてここに?」
麻里は見知らぬ青年にお母さんと呼ばれたことに一瞬だけ動揺した。中学か高校生ほどの若い人からそのように呼ばれるとは思いも寄らなかった。
「そっか、あなたから見れば私も部外者だからね」なるほどと何度もうなずく。「私はここの持ち主に呼ばれてここへ来たのよ」
しかし青年は不思議そうに首を傾げる。「ここに? どうしてこんな薄暗くて不気味なところに」
「それは私の方が聞きたいことよ」麻里は腕を擦って目を細めながらこぼす。「私だってこんなところを待ち合わせ場所に選びたくないわ。だけど相手がそう決めたのよ。その相手もなぜかいないし……」
「そうなんですか」青年は自信のなさそうな表情を浮かべる。ところがすぐにハッとしたように顔色を変えた。「あ、そういえば、僕さっき向こうのドリームキャッスルの近くで男の人のような影を見かけましたよ」
「え、本当に?」なんでそんなところにいるのよ……。麻里は思わず気怠そうな顔を見せてしまう。しかしすぐに表情を戻した。「教えてくれてありがとう。すぐに帰るようにね。さようなら」そう青年に軽く手を振り、大股でドリームキャッスルへ向かおうとする。
「あ、待ってください!」青年は麻里を呼び止めた。口を阿呆みたいに開けて呆然としている。
「どうしたの?」と彼女は立ち止まって振り返る。
「実は僕、向こうに落し物をしてしまったみたいで……、僕も一緒に行っていいですか?」青年は右手でドリームキャッスルの方角を指し、左手を照れくさそうに後頭部に当てる。
「ああ、しょうがないわね」と麻里は許諾し、再び歩き始めた。
「よかった!」青年は彼女に走り寄り、彼女の歩幅に合わせる。「この時間になると、一人じゃ心細くて怖くなってしまうんですよね」彼は少し分が悪そうに苦笑いをした。
「じゃあどうしてこんなところに来たのよ。肝試しだなんて一人でするものじゃないわよ。友達はいないの?」と彼女は青年をからかうように苦笑する。
「いつの間にか先に帰っちゃったみたいなんですよ」と青年は口を尖らせて答えた。「ところで、お母さんの待ち合わせをしていたって人は――」言葉を切る。「もしかして、彼氏さんですか?」青年は彼女の顔を覗き込むようにして尋ねた。
すると麻里は鬼の形相で彼を睨みつける。「そんなんじゃない」低く恐ろしい声だった。
「あははは! 冗談ですよ、ジョーダン!」と青年は体を元の位置に戻し、愛想笑をしてごまかす。
ふざけないで欲しい。と麻里は鼻をフンと鳴らした。私と裏野さんは例の子ども誘拐事件の当事者だ。それも失ったのは私の息子。決してそんな関係だと言えるものではない!
「ちなみに」麻里は重たい声でささやく。「あなたが落としたものってのは何なの」と横目で青年を見やる。
「ええと……」なぜか言い淀む。「命と同じくらい大切なもの、って言ってもいいかな」青年はバツの悪そうな笑顔で答えた。
「そんな大事なものを肝試しなんかに持ってきちゃ駄目でしょ」麻里は世話がない様子で目を瞑り、首を小さく横に振った。
「僕も今になって後悔しています」と綺麗な髪をがしがしと掻いて顔をしかめる。「あ、そろそろドリームキャッスルも近いみたいですね」青年は目を見開き、進む先を見上げて言った。
麻里も彼の目を向ける方に視線を移すと、そこには「この先ドリームキャッスル!!」とカトゥーンスタイルの字体で、でかでかと色彩豊かな看板に書かれていた。
「随分と分かりやすい案内板ね」
「ええ、本当に」青年もこくんと頷いて彼女に便乗する。
そうして彼らは半ばぎくしゃくとした空気を間に挟みながらドリームキャッスルエリアへ足を踏み入れていった。
二人がドリームキャッスルのすぐ傍までやってくると、麻里は感慨深くその城を見上げる。
当時は海のように澄んでいたはずの青い屋根は所々間抜けに崩れ落ちてしまっており、潔白の城壁は深く黒ずんでしまっている。いくつもの並んだガラス戸も誰かのイタズラのせいでほとんど割られており、扉の近くの壁には「俺様参上!」とスプレーで大胆な落書きをされていた。
「酷いもんですよね。こんなことをするなんて」ふと青年が眉間に皺を寄せて口を開く。
「ええ、そうね」麻里は虚ろな目で荒城を仰ぎ見ながらそっけない返事をした。
私が最後に息子の姿を見たのは、このドリームキャッスルだった。と因縁の建造物をすぐ近くで目の当たりにした彼女は想起し、乏しく嘆息する。
そうして彼女は淡い昔のことを思い起こし始めた。