第七話 ごはん、見せてください
暑くて死にそうです。
「平太さん、平太さん、大丈夫ですか?」
暖かい。
初夏の澄んだ空の下、ふいに声が聞こえる。
優しい音色を纏った声の方に目を向けると、そこには艶やかな長い黒髪の、涼しげな目元の美人さん ― 竹淵さん が心配顔でこちらを覗き込んでいた。
…はぁ、この人は本当に美人さんだなぁ…。て、やべっ!
「あ、いや、すみません。寝ちゃってました?」
俺は慌てて姿勢を直す。
「ふふ、いいですよ、別に。疲れてるんでしょ?」
「あ、でも、こうやってミーティング開いてる意味なくなっちゃいますし。」
俺は慌てて言い繕う。
ハッキリ言おう。俺は竹淵さんが好きだ。だから週一で行う社内ミーティングは、俺にとって『色々と』重要なのだ。疎かにする事など許される筈もない。俺は気合を入れ直すと、
「で、今度使うチーズなんですけど、近所にある工房さんから使ってみてくれって試作した奴を持って来たのがあるんです。コレ試食してみたんですけど、あとに引かないスッキリした風味で、これからの時期にドンピシャなんですよ。」
「今年、猛暑だそうですから…柑橘系で勝負するんですか?」
おお、流石。以心伝心だぜ。
俺が細かい事説明しなくても理解してくれるって、これもう告っていいかな?
「そうです!来月はこのチーズを使ったケーキで勝負、かけますよ!」
…
あれ?
「竹淵さん…?」
笑顔の竹淵さんの顔が急にブレてゆく。
だけど、声はどんどん大きく鮮明に聞こえ始める。
「ヘータ、起きて」
…いいえ、俺は起きたくありません。
「ヘータ、起きて、起きて」
声が更に大きくなり、それに比例するが如く竹淵さんの笑顔が消えてゆく。
嫌だぁ!誰がおきるかってんだ!くそぉぉぉ!!!
☆☆☆
俺 ―平田平太― は逃げていた。
『ちくしょう!どんだけ『美味そうな』匂いしてんだよ、俺ぇー!』
折角作った白のワンピースが台無しだ―
「くはっ」と息を切らせつつ後ろをチラリ眺めみると、薄汚い緑の肌を持つ小さな子鬼 ― ゴブリンが四匹、口から涎を垂れ流し狂気乱舞、嬉々として俺を追いかけてくる光景が、そこにあった。鈍く光る黄色の目が非常に怖い。殺意丸出し、ヒャッハー状態である。
「…はぁはぁ、囮作戦、上手く行きすぎ、だよ…」
隠れ家までおよそ20mの距離。
俺の作戦では、そもそもこんなに追い詰められる筈じゃなかった。もっと、こっそり密やかに一匹倒して隠れ家に戻る予定だったのに、それがどうだ?今、大ピンチだよ。作戦、穴だらけだったわ。
一匹なら幾らでも倒す方法がある。だけど『今の』俺には無理だ。更に残念な事に逃げ切る事も不可能に近い。今も全力疾走してるつもりだが『この身体』は非常にウンチ…運動神経が絶望的に無い。あんな短足ゴブリン達にみるみる距離を縮められているのが良い証拠だ。…だからって『この身体』をみすみす傷つけさせるつもりはない。
『根性決めて、やるしかないか…神様仏様、どうかお助けを!』
俺は『唯一俺の思う通り自在に動かせる左腕で』疾走しながら目に映る木々に片っ端から触っていく。触れた木肌が、即座に白紙に垂らしたインクの如きに青一色に変わってゆく。
肩で息をきらしながら長い髪を振り払い背後を振り返った視線の先には、もう5mない距離へとゴブリン達が迫っていた。のぉ?!ゴブリンの足、こんなに早かったー?!タイミング図るとかそんな事言ってる余裕ないぞ!
「くっ、倒せ!」
俺の『可愛らしい声』の号令と共に、青く染まった木々が、一瞬「ざわざわ」と煽動し、一気にゴブリン達へと覆い被さっていく。ただ倒れるのではなく、正しく木々が意思を持つ生命体の様にゴブリン達を押し潰す様に。命令を果たした青…カミキリ虫達は消え去り、代わりに視界全てを隠す程の土煙がモウモウと舞い上がる。
武道の心得などない俺だが、それでもなんとなく左手を正中に構え、右足を一歩前に左足を僅かに踵を上げサウスポースタイルで万が一の事態に体勢を整える。伊達に週一でボクシングエクササイズに通っていた訳じゃないんだぜ!格好だけはつけられるんだ!
自分を空元気で励ましつつ、ジッと真紅の瞳で砂塵を俺は見つめ続ける。
正直、体力がもうない…。『召喚』もまともに行使できないだろう。俺の『本体』と比べても仕方ないとは思うが、人間の体とは斯もか弱き生き物なのだね…。
待つ…五…十…三十秒…
…アレ?もしかして万事オールオッケー?
さっきの一撃でゴブリン四体倒しちゃった?マジで?
『おお神様!日頃の行いが良いとちが…ってないッ?!』
砂塵が消え去った其処には僅かに傷を負ったゴブリンが二匹。此方を睨みつけ立っていた。先程の異常な攻撃を警戒しているのか、安易に飛びかかって来なかっただけの様だ。
『くそ…』
タイマンなら、今の状況からでも『絶対』ゴブリンなんかにヤラれはしないが一体多数。この状況が変わらない限り、さっきよりちょっとマシな程度でしかない。
ゴブリンがジリジリと距離を詰め始める。もはや油断はみられない。一体が前に出、もう一体はその背後に隠れるように近づいてくる。
隠れ家までは後、3m。― もう賭けだ。
前衛ゴブリンが一気に俺との距離を詰める。
振りかぶった手斧が、半身をずらし躱した俺の身体の脇を通りすぎ大地へと突き刺さる。予測が当たった嬉しさも一瞬、ひ弱な俺の身体は躱した勢いが殺せずに地面へと転がってしまう。慌てて倒れた勢いのままゴロゴロと逃げる様に地面を転がり、俺は用意していた最後の召喚を実行する。
その間に、もう一体のゴブリンが既に俺の頭に向けて、刃壊れした剣を振りかぶっている。
「喰らえ!」
俺は迷いなく、ゴブリンの眼前に左手を突き出し、
その手の中に生まれた数百匹の蠅をその顔面に叩きつけた。あの数では今までの方法は使えない。でも―
「蠅よ!くびり殺せ!」
号令より早く、俺のイメージが伝わった瞬間、蠅達がゴブリンの顔面のあらゆる穴から体内に入り込み、窒息させる為に喉を塞ぎにかかった。ゴブリンの顔が、喉が一気に膨れ上がり、ゴブリンはその場に倒れこむと苦しそうに首を掻きむしりながらのたうち回る。
もはや力の入らない身体を引き釣り起こし、チラリと隠れ家の位置と周辺に他の敵がいない事を確認する。そして、手斧をやっと地面から抜き終わった最後のゴブリンと相対した。
喉はひりつき、膝が疲労の為にガクガクと笑っている。
こちらが疲労困憊な様子が分かっているのだろう、苦しむ仲間に目もくれず最後のゴブリンの容赦のない必殺の一撃が、俺に向かって振り下ろされる。
ゴブリンは確信しただろう、自分が勝った、と。
『…一体一なら負けはない、俺の勝ちだ。』
振り下ろされた剣が、少女のか細い左腕に止められていた。いや、そうではない。少女の白いワンピース、その妙にダボついた長袖の中、其処にゴブリンが今まで見た事のないモンスターが、少女の腕にへばり付き少女への攻撃を受け止めていた。
少女の身体が唐突に糸の切れた人形のように大地へ倒れ伏すのと同時に、そのモンスターが腕から飛び立ち、ゴブリンである自分向かって何か言ったような気がする。だが、結局、ゴブリンがソレを理解する時間は貰えなかった。次の瞬間には自分の頭と身体が切り裂かれたのだから―
『お、とととと?!』
ゴブリンを始末した俺は、慌てて『アリス』に同化する。だが、ギリギリまで体力を使い切ってしまったアリスの身体はもはや身動きひとつ、とれそうもない。アリスに同化していた為に俺も疲労が酷い。正直、あともう一体ゴブリンがいたら、俺は無事でもアリスは死んでいたかもしれない。
だが、計算通りアリスは今、隠れ家の真上にいる。索敵に出した蠅達から周囲に脅威はない事も確認済だ。俺は蜘蛛達にひとつ、指示を出しそれが実行されたのを確認すると、疲れとともに微睡みのなかに落ちていった。
☆☆☆
「ヘータ、起きた。」
薄暗闇の中、頭の中に響いた声で俺は目を覚ました。
『おはよう、アリス。身体、平気か?』
「うん。でも。お腹、空いた。」
『分かってるって。今日はちゃんとした肉だぞ?葉っぱじゃないんだ、嬉しいか?』
俺は『同化したアリスの、今は俺の身体』を起こし、胡座をかいて脳内会話を続ける。
「…おなか、いっぱい。なる。なんでも良い。」
『…あー…まあな、タンパク質、大事なんだぞ?特にアリスみたいなちっちゃい娘には…』
「私。ちっちゃくない。」
…そう、ですか…
俺は我が身のささやかな胸にそっと手を当てながら小さく呟いた。
アリスとの邂逅後、更に二日が経った。
アリスは ― 普通の娘じゃない。
彼女が覚えていたのは、自分の名前と年齢、それだけだ。精神年齢も幼児に近い。というか、幼児より酷い場合もある。言葉のやり取りですら危うい。ただたまに「魔法が…」等々の間違いなくファンタジーな用語が出てくる辺り、完全に異世界なのは確定だろう。そして、その摩訶不思議な世界だからだろうか、俺とアリスは、半ば一心同体と、今はなっている。彼女が自意識を保てるのは一日の内、二時間。それ以外の干渉には一切反応する事もなく、彼女もできないそうだ。そして、恐ろしい事にその間『俺が』アリスにならなければ『駄目』だそうだ。俺はそれを同化と呼んでいる。
『…なあアリス、この同化って無理にする必要ないんじゃないの?』
俺の問にアリスはただ幼子のように首を振り、
「神様。言った。ヘータ。私。守る。役目。」
…だそうだ。なんだ、神とか。マジでいたわ。
つか何様だよ、こら。俺の同意をとってからにしろよ、そういう事は。というか、やってる事、悪魔じゃん。神ならもっと優しくしてくれ。説明不足すぎんだろ。
とりあえず、試しにアリスから長時間離れてみたところ、酷く息苦しくなり動く事すらままならなくなった事から、たぶん、本当の事なんだろう。
俺、使い魔とかそんな感じの存在?
俺はため息をひとつつくと、出来上がった料理を前にひとつ手を合わせ「いただきます」と箸を取った。
「ヘータ」
『なんだ、アリス?』
む、左手が動かぬ。こんなトコだけ頑固か。
「やだ。いらない。そんなの。」
『なんでも良いって言ったろ。我が儘言うなよ、他なんてもっと酷いぞ?死んじゃうより、マシだろ?我慢、我慢。』
俺が強引に箸をその料理に突っ込む。
「やだ!やだ!いーやーだぁ!」
― いやね、俺だって死ぬほど嫌だよ。
でも仕方ないじゃん、他に食べ物ないんだから。
俺は泣き叫ぶアリスを無視しつつ、ゴブリン料理を食べ始めたのであった―
ああ神様、頭、叩かせろ
読んで頂きありがとうございました。次話もよろしくお願いします。