第十一話 特訓と常識
―対象を、発見した―。
捜索に出した内の一匹の蠅から脳内に『通信』が入ってきた。その蠅の視覚から送られてくるイメージは確かに俺が指示した対象で間違いない。予測通り、獲物は俺の匂いに釣られてこちらに移動中のようだ。距離もそう遠くない。遭遇まで十五分といった所か。俺は背後に控える『二本角』に指示を出すと、この数日間繰り返した事を思い出し、息をひとつ吐き出した。
対象を待つ間、改めて自分の装備を見直す。動き易いように腰まで伸びた髪は一足に後ろで纏め特製バレッタで止めている。右手には森で拾った刃渡り20cmほどの短剣、左手には『俺の本体』がその下に収まった小さなバックラー。身体には左胸だけを厚皮で覆った簡素なブレストアーマーと短剣と同じく森で拾って繕い直した、この世界で一般的に流通している黒のシャツとズボン。そして革のお手製特殊ブーツを装備している。
もうちょっと装備を充実させたいのだが、アリスの身体ではこれ以上の装備が不可能なので致し方ない。どんなに頑張っても長剣など持ち上げる事すら出来なかったし、鎧全般――たとえば一番軽いレザーアーマーすら身動きできなくなってしまうのだから何を言われても今の段階ではこれ以上の装備は不可能だ。
「仲間達」に言わせると、森に入ってくる人間達に比べ俺の武装は「死にに行くようなもの」くらい酷いらしいが、そんな重武装ができる人間と非力な少女を比べる方がどうかしている。
―― ガサリ ―
茂みから、そこに現れたのは豚人 ― オーク。
匂いで誘導され誘い出されたオークは待ち伏せされていた事に瞬時に気がつき、同時に目の前にいるのがたったひとりの人間の少女である事に困惑する。
その困惑の隙に、俺は相手の武装を確認する。防具はない。だが、オークの皮膚は厚い脂肪に覆われており、確実に刃を当てなければ傷をつける事は難しい。更に…
「ハルバード、か…」
厄介である。オークの持つ武器、斧槍。あの武器は叩いて良し、斬って良しの万能武器だ。そこへオークの剛腕が加われば驚異的な破壊力を持つ。どんな重装備をしたとしても人間がその一撃を防ぐ事は不可能だろう。
むろん、今の俺にとっても脅威では ― ある。
オークの逡巡は一瞬。相手は人間の小娘たったひとり。
オークはハルバードを無造作に振り上げると、俺の身体へ向けてその辺の小枝を薙ぐように振り払う。その行動は俺が今まで戦ってきたオークと同じ対応。俺をまったく『敵とすら認識していない舐めた攻撃』だ。
彼らの常識として人間が、それも非戦闘員に近い姿の存在を警戒する必要などない。このオークも当然、そう判断したのだ。俺が普通の少女であれば、抵抗も逃げる事も避ける事すらできずに、この一撃を受け憐れ臓腑を撒き散らし肉塊へと、彼らの餌と変わるだろう。
普通であれば―
オークにとって、その行動は何も意味を持たない筈だった。目の前の人間が自分の武器の先に、左腕を、その身を守るようにバックラーを構えていた。だが、自分の力にとってその小さな盾は障害になりえない。そもそも、あんな小さな人間では仮に攻撃を止められたとしても衝撃で吹き飛び、結局死ぬだろう。
横凪に振るったハルバードが、バックラーを切り裂こうとした瞬間 ―
小盾の内側から黒い靄が周囲に飛び散ったかと思うと、まるで小盾を中心とした黒い巨大な蜘蛛の巣のような防壁が一瞬にして少女の前に出現し、適当に振るったとはいえ生木さえ容易に薙ぎ倒す力を持つ自分の攻撃を――受け止めていた。
慌てて引き戻そうとするが、今度はバックラーからユラリと伸びた黒い糸がハルバードに幾重にも絡みつき怪力を誇るオークの力を以てしても、その黒い盾からハルバードを引き剥がすことができなくなってしまった。
ガムシャラに武器を取り返そうと力を込め、それでも武器が剥がれない事に狼狽するオークを暫く眺めたあと、俺はおもむろに軽く左腕を振った。
途端、バックラーから伸びた黒い靄が消え去り、今までオークのハルバードを拘束していた糸も消え去った。大地に放り出されるハルバード。武器を返された事の意味や、未だ逃げ出す様子すらなく余裕すらみせる少女―。
いよいよ混乱を来すオークに、
「本気で、来い。練習に。ならないわ。」
まだ言葉が通じない事を知りつつ、俺は左手の中指を天に突き立ててオークを挑発する。挑発行為ってのは不思議なものだ。言葉が通じなくても不思議と理解できるのだから。それが異世界だろうと。
自分が愚弄された事、馬鹿にされたと理解したオークの表情が一気に険しさを増していく。大地に転がされた武器を手に取ると改めて俺に構えなおす。そこには先程まであった気の緩みはもはや見られない。
―そう、それで良いんだよ。
俺は右手に持った短剣をオークに対して僅かに正中、そして若干下げ気味に構えると、右足の踵を僅かに浮かせ戦闘態勢に入る。オークも油断なくハルバードを両手で右脇から構え、切っ先を此方に向け様子を伺っている。
やはり魔法は、無しか。
武装を見た時に見当はついていたが、こいつはオークの中でも純粋な戦士職のようだ。魔法を使う為のロッドやワンドを持っていないし、そも魔法刻印のある左手をフリーにしていない。この時点で魔法はまずないと思って支障ない。
オークが、一歩前に出る。それだけで獲物の長いハルバードは攻撃圏に俺の体を捉える。俺が動かないと判断したオークが一気にハルバードを突き出し、俺を切り裂かんと先端を跳ね上げる。正しく必殺。その本気の一撃が眼前にせまり、オークの態勢が完全に傾いたのを見届け、俺も行動を開始する。
俺のイメージが足に伝わり、特製ブーツが「意思を持ったひとつの生物の様に大地を踏み込み」押し出されるように一気に速度を得た俺の身体が、オークの掬い上げるように迫るハルバードの更にその下、そこに飛び込み掻い潜るように身体をねじ込むと、ガラ空きのオークの胸板に短剣を突き立てる。
刃が十cmほど突き刺さったが、やはりオークの脂肪に阻まれ致命的な傷は負わせられそうにない。俺の人間離れした動きを見てもオークは動じる事なく、素早くハルバードの柄を即座に胸に突き立った短剣に叩きつけ、ソレを弾き落とすとそのまま長い柄を半回転させ俺を打ち倒そうと、強引にそのまま振り下ろしてくる。だが――無理な態勢から繰り出されたその二撃目は無限の視界を持つ俺には――通用しない。それを「完全に見切って」余裕を持って躱すと、そのままオークの背後に回り込む。
この時点でオークは完全な無防備。最初の一撃を俺に躱された時点で勝負はほぼ決していた。
「私の。勝ち。」
俺の言葉が発せられるより早く、俺の左手から生まれた一匹の蠅がオークの耳の中に潜り込む。蠅は鼓膜を喰い破り内耳の奥に潜り込むと羽と体毛を揺らし、周囲に消化液を僅かに飛び散らせる。
たったそれだけでオークは倒れ伏し痙攣を始め、目や鼻、口のあらゆる穴から体液を撒き散らし悶絶している。
――、我ながら恐ろしい攻撃である。
最初の頃は蠅に対象を食べさせていたのが酷く効率の悪い戦法だったと思い知らされる瞬間でもある。この攻撃だと敵が何体いても関係ない。仮に十万の軍勢が攻めてきても、俺にとって十万の蠅を生み出し敵に潜ませる事はそれほど難しい事ではない。アリスへの魔力供与がなければ本当にできそうなところが我が身の事ながら背筋が凍るほど馬鹿げた能力だ。
――。
ザッと周囲の草木が風に揺れ、その音と共に『二本角』が俺の前に姿を現した。以前連れてきたミノタウロスの内一体。特に理性の発現が強く闇魔法と隠形スキルに秀でた一体で、その特性のせいかミノタウロスにしては体毛が黒一色で肌も黒に近い。右目は大きな刀傷によって癒着し潰れている。野性味が薄れたとはいえ歴戦の勇者だと十分に分かる風貌を持った、そのミノタウロスが俺に問いかけてくる。
『アイリス、まダ続けるノ?』
「…今日は、もう終わり。でも、明日もやる。私。弱いから。」
そう。俺は弱い。戦闘力の事ではなく実戦経験があまりに少ないという意味でだ。いくら高い攻撃力と対応力をもつとはいえ持久力がなく、トラブルには滅法弱いのが今の俺だ。アリスが装備できる最低限の装備品、脚力を化物並にするバッタを生きたまま埋め込んだ特製の革ブーツと人間の匂いを完全に押さえ込む蝶の特製バレッタ。それらの装備品を装備してさえトラブルがあった時、適切に対応できるか分からない。失敗がそのまま死に繋がる事。復習ができる事柄ではない以上、何度も繰り返し訓練し経験を積むしかない。
『私トしては危険ナ事は辞めテ欲しいンだけどねぇ…』
俺は自然と口を僅かに尖らせ、
「だから、クロ。いるんでしょ。本当は、自分の力だけで。練習したい、のに。」
クロと呼ばれたミノタウロスは僅かに肩をすぼめると、胸にある大きな二つの山を揺らしながら気絶したオークに近づくき、
『で、コのオークも連れて行くノ?』
「うん。もっと、仲間増やさないと。計画進まない、から。」
『アイリスノいう事ナら従うケドね…』
「…なに?歯切れ、悪い。何かあるの?」
『なんデもないよ。さあトットと戻るヨ。そのヒト族の体、限界だロ?』
確かにクロの指摘通り、アリスの体力はもう限界だ。アリスの身体だけは俺の「眷属化」の恩恵を何故か受ける事ができない。「仲間達」のように傷を癒したり進化する事もなく多少腹が満たされる程度の効果しかない。
レッドやクロ、他の仲間が言うには、この世界の凡ゆる生物が持つ魔力がアリスには「見えない」らしい。
俺には全く視えないが、この異世界に生きる者たちには、魔力とは目に視えるモノなんだそうだ。魔力や魔力刻印の属性によって色と身に纏うオーラの大きさ、そんなものが目に見えるという。PRG的にいえば大雑把なステータスと言った所が適当だろうか。
当然、スキルや魔法によって魔力を隠す事はできるらしいが、よほど力の大きな存在や特殊な理由がなければ態々隠さないのが、この世界…少なくともこの森では常識なのだそうだ。
その魔力が視える彼等に言わせると、「その寄り代は死にかけ、もしくは死んでいる」そして「アイリス状態」になってやっと一般の人間と同等との事だ。
俺とアリスの在り方について、俺はレッド以外には説明していないし、今後する気もないので、俺はあくまでアリスの使い魔である、という事で押し通している。そう思わせておいた方が都合がいいし、俺だって上手く説明できないからだ。まぁ、この件については既に全員から嘘だとバレているみたいだが、誰も突っ込んで聞いてこないので自分から話を降る必要はない。
ちなみに俺が「本来の身体」に戻った状態だと、魔力が天空まで伸びる程膨大な魔力が視えるそうだ。ただ俺の場合は極めて感情に左右されるらしく戦闘状態になった時のみ、その状態になり普段は小さなゴブリン程度らしい。なんにせよ彼等の生みの親である魔王すら遥かに凌ぐ凄まじい魔力を俺は持っているらしい。…のだが、魔法を使うどころか、魔力を一切感じる事の出来ない俺にとっては、その魔力を以てしてもアリスの命を細々と繋ぐ事しかできないのか、程度の感想しかない。
俺の得た情報の範囲だと、この世には回復魔法はあっても、その効果は俺の「眷属化」より遥かに劣り、復活呪文はそもそも無いそうだ。だが、森の、外の世界にいけば彼等の知らない魔法があるかもしれない。それくらいの希望は持ったって良いだろう。
「クロ、今日の。成果は?」
『猪一頭ダね。肉ハこレで十分でしょ。』
クロの肩には俺の能力で昏倒し倒れた一頭の魔猪が担がれ、脇には気を失ったオークを抱えていた。手馴れたモノで魔猪は既に血塗きの真っ最中である。喉笛から吹き出した血が今もドバドバと滝を作っている。その血はクロの両足を濡らし、脇に抱えられたオークも盛大に血を浴びている。
「…クロ。足に。血が、かかってるよ?」
俺の指摘に、クロは不思議そうな雌牛特有の顔で、
『…そうダね。デモそれガどうシタ?』
と気にした様子もない。
…この辺が理性を持ったとはいえ、やはりモンスターなのだ。単純に野蛮すぎる。だが、今後も俺とアリスの傍にいるのなら、極力妥協出来る事は彼等には妥協して貰う。俺自身がモンスターのせいか俺はスッカリこの手の光景に慣れたが、アリスは違う。血まみれのモンスターが傍にいる事で、俺の中にいるアリスが無意識に怖がっているのが、今も伝わってくる。
「クロ。私、血が嫌い。血塗き、終わったら。川で身体洗ってきて。」
『血ガ嫌い?そウなのか?』
「そう、だよ。臭いし、汚いでしょ。清潔にしないと。病気になるよ。」
『血は汚いノか?汚イと病気にナルのか?』
俺がそうだ、と答えるとクロは木の枝に魔猪をひょいッと引っ掛けると、近くの小川へとズンズンと身体を洗いに行った。身体を清める等の行為はレッドに言わせると「人間臭い」行動らしいが、俺が元人間なのだから仕方ない。嫌なモノは嫌なのだ。
彼らは眷属化によって理性と個性、そして飢えから解放され、無駄な殺戮を一切しなくなった。当然と言えば当然の結果だ。眷属化以前と比較すると食事量自体が十分の一以下で済んでいるのだから。先程から周囲には俺が訓練の邪魔になりそうな生物を数頭昏倒させているが、クロはその全てを把握しながら、自分達に必要だと思われる一頭だけを持って来た。この事だけでも素晴らしい心の進化と言える。ただ俺の持つ社会常識まで獲得できる訳ではないし、モンスターとしての本能は変わらないだろう。そこは俺が油断なく、丁寧に教えていくしかない。
――トイレ、行きたくなってきたな…。
なんとなくクロが身体を洗っている川辺にヒョコヒョコと近づいていく。一応、一声かけておこうと思っただけだ。そんな俺の目に入ってきたのは、小川の真ん中に仁王立ちする、まるでアマゾネスのような美しい肉体を晒し――その股間から盛大にアレを垂れ流すクロの姿だった。
…そういえばトイレはまだ作ってなかったなぁ…。
帰ったらトイレを作ろう、そうしよう。
俺はぼんやりそんな事を考えていた――。
貴重なお時間、ありがとうございました。
次話もよろしくお願いします(ペコリ