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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

噛みつきゃ牙まで砕け散る

作者: 蒼田 ガイ

 薄暗い下水道を男は逃げていた。


 男は黒のタンクトップに迷彩柄のカーゴパンツという出で立ちだ。

 息が上がっており、タンクトップは汗で湿っている。沿道に散在する水たまりを避ける余裕もないのは恐怖に歪んだ顔を見ればすぐにわかる。そのせいでカーゴパンツの裾は水を吸って重そうだ。


 男の背後の闇から蒼白な顔が浮かび上がる――女の顔だ。


 女の顔は腐っており、肉が剥がれ骨が覗いている。

 腐肉と白骨の隙間からは無数の蛆が溢れており、あるものはこぼれ落ち、あるものは女の残り少ない顔の肉を貪った。


 その惨状にも関わらず、女の顔に苦痛はない。

 仏像のように穏やかな微笑を湛えた顔だけが宙に浮いている。


 男は前だけを見て走っているので知る由もないが、宙に浮いた女の顔はジグザグに移動しながら男を追いかけていた。それはジグザグの動線を描くのではなく、消えたかと思えば現れ、現れたかと思えば消えるという超常現象だった。


 女はそうやって男に接近しながら、顔しか無いのに口からものを吐いた。吐き出されたのは十本の血に塗れた指だった。指は窮屈な女の口を上下に広げると、二本の腕となって口の外へと這い出た。腕は血と唾液で濡れていた。


 女の口から生えた腕は男を捕らえようと伸びるのだが、微妙に届かず空を切った。そのまま両手が打ち合わされる。手を叩いた音が下水道内に響き渡った。


 その音を聞いた時、男の体力は既に限界に達しつつあった。

 男は驚きと疲労で足をもつれさせ、転んでしまう。

 バランスを崩した瞬間に男の生きる意志は挫けてしまったようで、男はもう立ち上がれなかった。


 男は背後を見た。

 そこに女はいなかった。

 ただ薄闇が広がるばかりで、動くものと言えば鼠くらいだった。

 拍子抜けしたような顔で男が前に向き直ると……


 画面が暗転した。

 テレビの電源が消えている。

 画面には不意打ちを食らって目を丸くした私が映っている。同様にそのうしろにはリモコンをテレビに向けている母の姿が映っていた。


茉莉(まり)()ちゃん、(まり)()ちゃんが怖がるからそういうのは自分の部屋で見るよう言ったでしょ」


 弟の毬雄が母の腰に抱き着いてこちらの様子を伺っている。


「は?」


 信じられない言葉を耳にして、私は勢いよく母と弟の方を振り向いた。思わず大きな声が出る。


「こんなのが怖いわけないでしょ! ベッタベタのB級ホラーじゃん」

「でも、毬雄ちゃんは怖いのよね?」


 小学四年生の毬雄に、あやすような口調で母が確認した。

 こういう時の母は死ぬほど癪に障る。

 母の問いかけに毬雄が頷いた。


「はぁ~? おい毬雄テメェちんこ付いてるのか? タマぁ摘出すっぞゴラァ」

「茉梨花ちゃん、そんな言葉遣いはいけませんよ。お外でそんな言葉が出たらはしたないわよ」

「知るか!」


 DVDプレーヤーからディスクを取り出すと、私はわざと大きな音を立てて床を踏みしめながらリビングを出て行った。

 毬雄とすれ違いざまにヤツの脚を蹴飛ばすことも忘れない。ヤツは鈍くさいからそれだけでバランスを崩して床に倒れ込んだ。背後でゴン、という硬い音がして毬雄が泣き出す。


「まぁ~、毬雄ちゃん、あぁ、あぁ、大丈夫? 痛かったわねぇ~。よ~しよし、痛いの痛いの飛んでけ~。飛んでけ~。飛んでけ~……」


 アホか、っての。

 二人の不愉快なやりとりから早く遠ざかりたくて、私は二階の自室へ向かう足を速めた。


† † †


 厚手のカーテンを閉めきった自室で、私は口をあんぐりと開けていた。

 たった今、パソコンでDVDの続きを見終わったところだ。開いた口が塞がらないのは、映画の内容がクソだったせいだ。


 やはりしょうもないB級ホラーだった。

 映画の続きは、男が前を向くと顔だけの女がそこにいるというお約束展開。しかし、その後がおかしい。


 男が悲鳴を上げ、幽霊女に襲われるというシーンでモーター音が聞こえてくる。

 下水の中を小型のモーターボートに乗った、男の仲間がやってきたのだ。

 幽霊女が男に襲いかかる直前、すれ違いざまに仲間達が男の腕を掴んで救出。幽霊女とあっという間に距離が開いていく。


 だが、一行が安堵したのも束の間、次なる魔の手が伸びてくる。


 快調に飛ばしていたボートが急に速度を落とすのだ。男がうしろを振り向くと下水の中からいつの間にか現れたゾンビがボートの縁を掴んで進行を妨げていた。しかもさらにその後方からも、無数のゾンビが泳いでやってくる。


 男が悲鳴を上げると、仲間達がどこから取り出したのか、ショットガンとライフルで応戦。

 戦闘中に先ほどの幽霊女も追いつくが、流れ弾に当たって倒される。そのままゾンビを全滅させると一行は下水道から脱出して生還を喜ぶ。ハッピーエンド。


 本当に色々おかしい映画だった。B級とも呼べないお粗末さに呆然とした。


 つっこみどころしかなかった。

 そういうぶっ飛んだ映画も嫌いではない。

 B級をホラー映画の本道と言われると嫌だが、たまに観る程度なら楽しい。でもこれはあんまりだ。

 大画面で観られなくなった代わりに装着していたヘッドホンを外す。

 ペットボトルのジャスミンティーをラッパ飲みして空にする。


「ハズレ映画だな」


 パソコンからDVDを取り出して片付けていると、


「キャアァ!」


 階下で繰り広げられている日常に一石を投じるような悲鳴。

 バタバタという足音が二階まで上がってきた。足音は私の部屋の前で止まり、ドアが開かれる。


「茉梨花ちゃん、G! Gが出たのよぉ! 殺してきてぇ!」

「わっ、こっち向けんじゃねぇよBBA!」


 怯えた顔の母が蠅叩きをこちらに突き出してきた。

 蠅叩きとは言うものの、その得物はうちではムカデやゴキブリを(たお)すべく使われたことの方が多い。

 柄が長いのでスリッパや丸めた新聞紙といった他の近接武器よりも便利なのだ。


 つまり、網目部分には害虫どもの体液が付着して乾燥し、こびりついている。

 有り体に言って汚い。

 刃物に例えたら、その切っ先を相手に向けているのと同じだ。

 親しき仲にも礼儀あり、という言葉を母は知らないのだろうか。


「何で私なわけ? めんどくさい。そういうのは男の仕事でしょ? お父さんか毬雄にやらせてよ」

「パパは出かけてるし、毬雄ちゃんは虫怖い人でしょ。だから、中学生のお姉ちゃんに頼んでるんじゃない」


 出たよ、都合の良いときだけ年長・大人扱い。


「はぁ? どうせあんな愚図は結婚とかできねぇだろうけど、万が一何かの間違いでしちゃった時、どうすんだよ。嫁がゴキブリ出たって騒いだ時に、一緒になって怯えるタマ無しに育つじゃん。親としてそれは教育して矯正しとくべきじゃないわけ?」

「でもでも、鈍くさくて臆病な毬雄ちゃんに任せたら仕留め損ないそうなんだも~ん。だから、茉梨花ちゃん早くなんとかしてよ~」


 アンタはのび太君か。


「毬雄ちゃんはまだまだ小さいんだから」


 息子に酷いこと言ったのを別の理由で誤魔化そうとしやがった。小さい毬雄には無理ってことは高いところにいるのか? めんどくせぇ。


「殺虫剤でやっつけたらいいじゃん」

「ママだって怖いんだもん」


 すげぇイラつく反応が返ってきた。これ以上粘られると私の左手が疼いて家庭内暴力に発展しかねない。


「どこ?」

 母から蠅叩きを引ったくって案内を要求する。


 一階にある客間に向かうとそこの壁にゴキブリが張り付いていた。

 移動したのかもしれないが、それほど高い位置にはいなかった。

 私は狙いを定め、蠅叩きで一撃の下に仕留めた。


「さすが茉梨花ちゃん! かっこいい!」


 母のおべっかは無視して死骸を蠅叩きの網で掬い、玄関に向かう。玄関の靴箱を開け、中からターボライターを取り出す。それからビーチサンダルを突っかけて庭へ出る。


 庭へ出ると、適当な石の上に死骸を置いた。ターボライターの着火レバーを押すと青い炎が立ち上る。私はその火で死骸を炙った。完全には殺し切れていなかったみたいで、そいつは弱々しく脚を動かし、きいきいと悲鳴を上げた。


「己の生命力の強さを後悔して(かく)()へ逝け。二度と現世に還ってくるなよ」


 焼き魚にも似た臭いを漂わせながら死骸が焦げていく。こいつらの体はキチン質で出来ていて、むしろエビの殻と同じなのだが。


 同年代はもっとスマートに殺す。

 死骸を焼きながらスマートな殺し方を思い出す。


 クラスの男子が害虫の殺し方について話していたのを偶然聞いたことがある。

 虫を殺すには食器用洗剤を直接ぶっかけるのがいいと言っていた。洗剤に入っているカイメンカッセーザイは虫を窒息させる効果があるのだと。


 実際にそれで殺したこともある。

 容器の口をゴキブリに向けてジェル状の洗剤を発射し、対象の全身を包み込む。ジェルの中で対象はもがくのだが、それがやがて動かなくなる。


 人間が溺れるときもこんな感じなのだろうか。

 洗剤をちゃんと拭き取れば壁が汚れる心配もない。すごくスマートだ。私は信じていないのだが、死の間際にゴキブリが目には見えない程小さな卵を産むのも防げる(もしくは一緒に殺せる)。


 でも、殺してくれと頼まれた時は叩き潰した上で焼く。

 まず、快い音を立てて何かが死ぬことが気持ちいい。それで面倒を押しつけられたストレスをいくらか発散できる。

 焼くのは完全に殺しきるため。そして、得体の知れない薄暗い欲望を満たすことができるため。


 本当なら同じことを毬雄にしたいんだけどなぁ。


 ないとは思うのだが、ボヤが起きないよう焼いた死骸に水をかけておく。

 庭には洗車や両親の趣味である園芸に使うためのホースがある。ホースの先には園芸用のシャワーヘッドが付いている。蛇口をひねってから死骸のところまで戻った時だ。胸のすくようなことを閃いた。


 閃きがあまりに愉快だったので、シャワーヘッドのトリッガーを思いっきり握ってしまった。シャワーヘッドから噴きだした水が死骸ではなく自分の足下へ降り注いだ。


 あのB級映画で逃げ惑っていた男のように長いカーゴパンツを穿いていたら裾が濡れて面倒だったろう。

 私は焼けたゴキブリの死骸をキュロットのポケットに入れて家の中に戻った。


† † †


 深夜十一時半。


 明日は月曜なので両親も既に寝ている。

 弟は早寝遅起きなのでそれより早く眠っている。

 私は両者の中間の時間にベッドに入り、この時を待っていた。目を闇に慣れさせるのも兼ねて部屋の電気を消し、それでいて眠らないようにするのは少し辛かった。


 自室の机、その引き出しに仕舞っておいた書店のビニール袋を取り出した。

 袋を振ってみると中からカサッカサッと軽く薄いものが擦れる音がした。

 中に手を突っ込み、ゴキブリの死骸を握った掌に隠す。


 音を立てないように自室を出ると、隣接する毬雄の部屋の様子を伺う。

 物音はしない。

 ドアノブに手をかけて中を覗くと、真っ暗だった。

 携帯ゲーム機の明かりは漏れていない。毬雄は胎児のポーズでぐっすり眠っている。


 私は毬雄の部屋へ侵入した。

 そのまま毬雄のベッドへと接近する。

 自分にこれから何が起きるのかも知らずに毬雄はのんきに寝息を立てていた。

 思わず、口角が吊り上がる。


 私は寝ている毬雄の口に指を滑り込ませて開かせた。そこへ右手に握った死骸を入れると、すぐに、しかしそっと口を閉じさせた。


 ……大丈夫、起きる気配はない。


 火を通しているからお焦げの苦味で起こしてしまわないかが心配だったが、大丈夫そうだ。

 毬雄はむにゃむにゃ言いながら咀嚼している。

 これは明日が楽しみだ。


 やることを済ませた私は毬雄の部屋を後にすると、一旦、自室へ戻った。

 しかしすぐに自室を出て、トイレへ向かう。


 大人は子供に比べて眠りが浅いのか、たまに「昨日の夜遅くにトイレ行った?」とか朝に親から聞かれることがある。

 だからそれを利用してカモフラージュをしておくのだ。


 その実、足音を忍ばせずに普通を装ってトイレに行くだけなのだが。

 手を洗い、ついでだから本当に用も足して部屋に戻ると、私はベッドに入った。やっと寝られる。今日は良く眠れそうだ。


† † †


 声変わり前の子供の叫び声がする。


 うるっせぇなぁ、動物園の方がまだ静かだぞ。

 舌打ちしながら起き上がり、関節を伸ばす。


 ドアの開閉音がして、ドタドタと階段を降りていく音がする。

 足音から察するに体重が軽めの人間……毬雄か?


 あ、そういえば私、昨日の夜にあいつの口にゴキブリの死骸を放り込んだんだった。

 そりゃあ、騒ぐか。


 私はベッドから降りて、毬雄の部屋に入る。

 枕の近くに黒い昆虫のバラバラ死体が転がっていた。毬雄が咀嚼して吐き出した死骸だ。それは唾液に塗れて生前の光沢を取り戻していた。


 火を通していることが母にバレると、これが事故に見せかけた事件であると見抜かれてしまう。だが死骸が焼かれたものだとわからなければ言いくるめることができる。


 信じたくはないのだが、人間は眠っている間にゴキブリを体内へと入れてしまうことがままある。唾液を水分として与えてしまうだけのこともあれば、もっと奥へと侵入されることもある。

 そういうことが作家の体験談として小説のあとがきか何かに書かれていた。


 それを言えば私の犯行は偽装できる。

 なので、毬雄が母を連れて戻ってくる前に証拠を隠滅しなければならない。

 毬雄の部屋のティッシュを数枚取って、それでバラバラになった死骸を回収する。そして、そのティッシュを持って足音が聞こえてくるのを待つ。


 ほどなくして、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。

 私の予想とは少し違い、足音は一つだった。

 大人のそれでない、ということは毬雄が一人で二階へ戻ってきたことを意味する。

 毬雄が隣、つまり私の部屋のドアを開けた音が聞こえた。


「おねえちゃん……あれ?」


 私が部屋にいないことに毬雄が首を傾げているのが見なくてもわかる。

 大方、母はまたしても害虫関連の用事は私の仕事だから、とか言って死骸の回収を拒否したのだろう。


 ちなみに父は仕事でもっと朝早い時間に出勤している。


 だから毬雄は役所の窓口をたらい回しにされるようにして、私の部屋へ向かったのだろう。そうしたら私は部屋に居なかった。

 当然、毬雄は自屋へ帰ってくると思っていた。だが実際には、この部屋のドアは開かれなかった。毬雄の足音は階段の方へ向かって遠ざかっていく。


 馬鹿か、と思ったがそれは毬雄からしたら正しい反応か。

 普段から私は毬雄を口汚く罵っている。

 そんな私が毬雄の吐いたゴキブリの死骸を片付けてくれるとは考えにくい。

 それで母に私が居なかったと報告し、母に死骸を処理させるつもりなのだろう。

 私は毬雄の部屋から出た。

 毬雄は今まさに階段を降りようとしていたところだった。毬雄は自分の部屋から私が出てきたことに驚いて目を瞬かせている。


「……お姉、ちゃん?」

「あ? 何だよ」

「ぼ、僕の部屋で何、してたの?」


 毬雄は死骸を包んだティッシュの塊を見ていた。


「オメーが朝っぱらから超うっせぇから何だと思って見に行ったんだよ。そしたらオメーのベッドにゴキの死骸が落ちてんじゃん。だからそれを回収してきたんだろうがよ。どうせ、こういうヨゴレの仕事は私に回ってくるんだからな……ホイ」


 嗜虐心からティッュの塊を毬雄の鼻先へ突き出した。すると毬雄は悲鳴を上げて尻餅をついた。そこまでは愉快だったのだが、毬雄が持ち前の鈍くささを発揮したのが良くなかった。

 毬雄は尻餅をついてから尻を滑らせやがったのだ。

 毬雄は何が起きたのかわからない、という顔で落ちていく。

 背筋を冷たいものが伝う。

 反射的に私は毬雄に手を伸ばしていた。

 毬雄と違って鋭敏な私は、毬雄の腕を掴んでいた。


 やべぇえ、なにこれ。ドラマとかマンガみたい。

 私カッコ良すぎるだろ!


 助けた相手が毬雄なのが癪だが、ここで毬雄に落ちられるとまずかったので良しとしよう。

 この状況で毬雄に怪我をされると、当然、因果関係を探られる。相手が母になるか警察になるかは怪我の程度次第だろうが。

 警察沙汰にならなくても、母に死骸を包んだティッシュのことで責められると面倒だ。私のマッチポンプもバレてしまう可能性が高くなる。 信じられない、という目で私を見上げている毬雄を引き上げてやる。


「……お姉、ちゃん」

「勘違いすんじゃねぇぞ愚図。オメーを助けたんじゃあないからな。オメーが怪我して泣きでもしたら母さんが騒ぐからな。私はそうやってオメーと母さんがうるさくしてるのを聞きたくないから、仕方なく、私の平穏を守るためにやっただけだかんな?」


 元はと言えばお姉ちゃんが僕を驚かしたのが悪い、とか何とか毬雄が言う前に睨みつけてやった。

 毬雄が小さく頷くのを見ると、私は鼻を鳴らして階下へと下りて行った。


 一階に下りるとトイレに直行し、ティッシュごと死骸を便器へ流した。ティッシュを流すと詰まりの原因になるのはわかっている。だけど面倒だったので分別して廃棄することができなかった。


 水を流す音を背後に聞きながらトイレから出る。トイレを出て左手の洗面所へ行こうとして母と鉢合わせた。洗濯機から洗い終わった衣類を籠に入れているところだった。


「あら茉莉花ちゃん、おはよう」

「ん」

「ねえ聞いて茉莉花ちゃん。今朝ね、毬雄ちゃんが起きたら、毬雄ちゃんの口の中にね、Gがいたらしいのよ」

「あぁ、ゴキブリって喉渇いたら寝てる人間の唾液飲んだりするらしいよ」

「えぇ~! 茉莉花ちゃんそれ本当?」

「あぁ、マジキメェけどマジらしいよ」

「嫌~だ~怖~い~! もぅ、昨日一匹茉莉花ちゃんにやっつけてもらったばっかりなのになぁ。駆除の業者さん、呼んだ方がいいのかしらぁ」

「マンションの五階に引っ越して、三食全部外食とかにすればちったぁマシになるかもだけど、そんなん無理っしょ」

「う~ん、無理かなぁ」


 顔を洗おうとして洗面台の前に立って、私は心臓を鷲掴みにされた。


 洗面台には焦げたゴキブリの死骸の欠片が貼り付いていた。

 毬雄が死骸を吐き出すなり一目散にここへ来て、口を漱いだ時のものだろう。


 不意に視線を感じた。

 私は再び母の方を見た。しかし、母は思案顔で洗濯物を籠に移しているだけだった。

 気のせいだと自分に言い聞かせて、顔を洗いながら死骸の欠片も洗い流した。


† † †


 私の家は東西に広がる住宅街の中の一軒だ。


 住宅街は大きな川に沿って並ぶように建てられている。川の水位は普段なら私の足首くらいまでしかない。

 川の両側に高い堤を作っているので大雨になってもまぁまぁ大丈夫だ。避難とかはしたことがない。


 川を挟んだ向こうには大きな山があって、初詣とかはその麓にある神社へ行っている。湧き水が出ているとかで、老人とか県外の人がポリタンク持参で参拝に来ているのを見かける。


 そんな所に住んでいるから早朝と夜はだいぶ静かだ。

 住宅街から出ればそれなりに車の流れが多い道路がある。その辺りは申し訳程度に賑わっている。


 私の通う中学は西側の道路沿いにあって、家からは自転車で十分くらいの距離だ。

 いきはよいよいかえりはこわい、とは童謡「とおりゃんせ」の歌詞だが、私の通学路も帰りが怖いのだ。


 人間誰しも怖いものはある。


 愚図な毬雄はそれが多いようだが、私が怖いもの無しというわけではない。

 部活に所属していない私はHRが済み次第、愛用の自転車に乗って下校する。

 

 一人で帰るし、基本的には寄り道もしない。大半の生徒は部活に所属しているので、帰り道はまぁまぁ空いている。道路では基本的に自分以外の存在は邪魔以外の何者でもないからだ。


 だが、私の下校時間には最も邪魔なヤツが待ち構えていた。

 ヤツは逢魔が時にやってくる。

 大きな口を広げて笑っているような顔をしているのだが、目が笑っていない。涎に塗れた舌をだらりと垂らし、ひたひたと歩く。


 今日も一人で家へ直帰する私の前に、ヤツは規則正しく現れた。

 おばさんを従えて我が物顔で歩いてくる毛虫(けちゅう)

 有り体に言えば犬。

 種類はよくわからんがたぶん雑種。


 いつもではないのだが、こいつは私の不意を衝いて脚に噛みつこうとしてくる。

 自転車に乗っているとかそんなことは関係ない。

 犬に加えて犬を散歩させているおばさんという二者とすれ違うわけだから、私は自転車の速度を落とす。

 さらに、私は犬が死ぬほど苦手だから上手くペダルをこげなくなる。だから犬にちょっかいをかけられる隙が生まれる。


 犬がダメになったキッカケは、三歳くらいの時に父方の実家で飼っていた犬にふくらはぎを噛まれたのが原因だ。あれ以来、恐ろしくてたまらない。


 殺してかまわないのならここまで恐れたりはしない。もう中学生だし、こちらは自転車に乗っているのだ。轢き殺していいなら轢き殺している。

 だが残念なことに、蚊や蠅と違って犬は殺すとただでは済まない。私はそういう仕組みを作ったヤツのことが徳川綱吉と同じくらい嫌いだ。憎んでいると言っても過言ではない。


 ホラー映画のモンスターは殺せない、もしくは簡単には殺せないから恐ろしいのだ。

 だから私が犬を怖いと思うのはごく自然なことだ。殺しまくっていいのならとっくにこの弱点は克服している。


 この犬は本当に性格が悪い。

 毎回襲うのではなく、ときどき襲いかかることで飼い主と私の油断を誘い、また私の驚きと恐怖を増幅させる。


 弱い犬ほどよく吠えるという言葉があるが、この個体は妙に悪賢い。

 人間のからかい方を心得ている。

 今日はどっちなんだ。

 対敵し、両者の距離が縮まっていく。


 ワン公もワン公だが、飼い主も飼い主だ。

 今まで何度も私は噛まれそうになっているのに、どうして散歩の時間とコースを変えないのか。

 ……きっと私の若さと美貌と鋭敏さを妬んでいるのだな。おのれクソババア。裸虫(にんげん)の風上にも置けん心根の腐ったクソババアだ。


 本格的にウイリー走行の練習をした方がいいかもしれない。アレさえできれば威嚇も攻撃もバッチリできる。


 今日は、どっちなんだ。

 冷や汗が頬を伝う。

 脳内で考え得る回避パターンをシミュレーションするが、どれも私の技量を超えている。ウイリー走行もできないのにどうやって後輪で跳ねるというのだ。


 すれ違う時までの時間が秒読みになる。

 ……三、……二、……一……。


 雑種が口角を吊り上げたように見えた。

 今日は来る日か!

 雑種犬は牙を剥き、甲高い吠え声を上げながら襲いかかってきた。狙いは私のふくらはぎの辺り。そこに獣の生温かい息が掛かる。


 やばい、噛まれる。


 そう思った瞬間、ペダルをこぐ足が止まる。

 飼い主のクソババアはワンテンポ遅れてリードを引いて犬を私から離そうとする。

 お蔭で雑種の攻撃は寸前で阻止された。


 しかし、それは直接的なものだけだった。

 私の乗る自転車の車体は傾いた。

 犬の飼い主は歩道の奥側を歩いていた。

 必然、すれ違う時に私は車道側を走ることになる。

 私は車の行き交う車道へと自転車ごと横転してしまう。


 ――――あ、死ぬ。

 正面から迫ってくる黒いバンを見て自分の運命を悟った。


 † † †


 私は轢かれなかった。

 バンのドライバーが鋭敏にも私を避けたのだ。

 後続の車もそれに倣って通って行った。

 私はあたふたと自転車を起こして立ち上がり、歩道へと戻った。


「ちょっとアンタ、大丈夫なの?」


 心配する気が微塵も感じられない声が降ってくる。

 犬の付属品のクソババアだった。

 迷惑そうに眉をひそめ、非難するような目で私を見ている。


「まったく、電話の画面ばっかり見ながらチャリンコ漕いでいるからこけるのよ。しっかり前を向いてないから。気をつけなさいよね、まったく。近頃の若い子は電話の中に住んでいるから困ったものだわ。は~嫌だわ」


 電話? 画面?

 私がスマホを操作しながら自転車に乗っていたと言いたいのか?


「あの! 私、スマホ見ながら運転とかしてないんだけど」


 どこの異次元を見ていたのか知らないが、言いがかりを付けて去ろうとするクソババアの背中に抗議した。

 だけどクソバアバアは私のことなどすっかり忘れて「らん♪ らん♪ ラボアジエちゅわあ~ん」などとソプラノで謎の歌を唄いながら去って行く。

 (はらわた)が煮えくりかえり、頭に血が上った。


「無視すんなババア!」


 腹から声を出して、クソババアの耳にも聞こえるように叫んだけどクソババアはそれでも止まらない。

 私は泥除けに貼られている通学用の自転車登録ステッカーに爪を立てた。

 うしろから追いかけてクソババアかクソ犬、どちらかだけでも撥ね飛ばしてやろうか。

 ステッカーを剥がすと、自転車をうしろ向きにして、サドルに跨がる。


「おいコラ待てやクソババア! 詫びも入れんと逃げるたァお里が知れやせんかや! 逃がさへんぞクソ年増ァ! 出すもん出してもらうけんなァ!」


 どこの方言かもわからない罵倒が泉のごとく湧いて出る。

 それらを絶叫に乗せて口にし、クソババアの背中に浴びせかける。それでもクソババアは振り向きすらしない。その間に私はクソババアに追いついた。


「何か用かしら。ワタクシ、ラ~ボアジエちゃんと楽しいお散歩の最中なんですけど?」


 クソババアは犬のリードを短くし、胡乱うろんげに私を睨む。

 私も睨み返した。

 その時に、ラボアジエとかいうたいそうな名前の犬が、いやらしい目で私を見ているのが目に入った。

 しまった。怒りに我を忘れて犬の傍へと自分から行ってしまった。


「だから私、スマホいじりながら運転とか、してねぇんだよ。アンタの、下品な犬が寄ってきたせいで転んだんだっての。飼い主として、詫びぐらい入れるのが、筋じゃねぇのかよ」

 凄もうとしてもいまいちドスが利かねぇ。犬が怖くて声が震える。

「下品なのはアナタじゃないかしら。なんですその言葉遣いは。お里が知れますわ」

 クソババア。やっぱり私が怒鳴っていたのが聞こえていたんだな。それで同じ言葉を返してきやがった。

「お里が知れるんなら、当ててみろ! 何県何市何町のどの病院で、何年何月何日何秒、地球が何回まわった瞬間に私が産まれたか? わからねぇだろ、この耄碌もうろくババア!」

「そういう低レベルなことを言う人に対して、育ちが悪いのだから仕方が無いと諦めるときに使う言葉なのよ。お里が知れる、っていうのは。まったく近頃の娘は電話ばかりして年上を敬わないし、食べないから細っこい脚だし、それでフラフラ歩くから危なっかしいったらありゃしない」


 このクソババア何が何でも自分の非を認めない気らしいな。


「最近の若者の傾向はいいから、テメェの犬のせいで人が死にかけたんだから謝りやがれ! 私がフラフラしてんのは、テメェの犬のせいだっつってんだろ! それを言いがかりつけて、逃げてんじゃねぇ!」


 く、くそう。相手は歩きとはいえ、自転車で併走しながら叫ぶのって疲れるな。


「威勢のいいわりにワンちゃんが怖いの? ダッサいわねぇ~。はいはい、それは悪かったわね。ごめんあそばせ」


 まったく誠意の感じられない言葉とともに、クソババアは犬のリードを緩めた。犬がまた私の脚に近寄ってくる。

 私は小さく悲鳴を上げて自転車のブレーキを握った。

 クソババアと犬は私を省みなかった。きっと私を嘲笑っているのだろう。

 私も追いかける気力が挫けてしまった。


「畳の上で死ねると思うなよーッ!!」


 最後にだみ声で捨て台詞をぶつける。クソババアはまるで反応しなかった。

 私はやるせない気持ちで一杯になり、仕方がないから家に帰ることにした。

 帰るとき、通行人やドライバーの視線が痛かった。

 

 † † †


 翌日。

 私は今日も自転車で登校した。


 倒れたにも関わらず、愛車のカゴが歪まなかったのは不幸中の幸いだ。

 母に昨日の顛末は話していない。

 面倒な騒ぎ方をされるのが嫌だったからだ。

 いや、あの母なら「茉梨花ちゃんが生きてて良かったー」で済ませてしまうかもしれない。

 本当はその素っ気ない反応が予想できて、だから黙っていたのかもれない。


 私はいつも通り昇降口で靴を脱ぎ、二年の教室がある三階へと上る。

 ちなみに一年は四階で三年は二階。職員室は一階にある。歳を食っているやつほど楽できる構造だ。

 だったら最年長の教師か校長が過ごす場所はどこに作るのが最適だろうか、と益体のないことを考えながら教室の扉を開けた。


 違和感があった。

 クラスで何かが起きているのだとわかった。

 目を引いたのは教室の右手奥にある窓の向こう。

 ベランダにクラスメートが集まっていた。どいつもこいつも上を向いている。餌を期待して集る池の鯉みたいだ。


 鯉どものうち三人が、教室に備え付けの箒を持っている。

 彼ら三人と向かい合って、両手を広げている男子が一人。何やら険しい表情をしている。


 クラスで一番背が高い、バレーボール部の韮沢(にらさわ)瑞祥(みずよし)だ。

 対する箒持ちの三人衆は、韮沢より背こそ低いもののがっしりとしている。

 一人は丸刈りで野球部とわかる、厚木(あつぎ)正義(まさよし)。よくは知らないけどエースピッチャーで次期キャプテンらしい。それでいて勉強の方の成績も良い。

 一人はいつも「俺は柔道の道場に通っているんだぜ」と吹聴している、黒井力(くろいちから)

 一人は給食でパンは残すがご飯のおかわりは欠かさない、大釜巧也(おおがまたくや)

 そして彼らの背後には自分の意見などない、長いものに巻かれることを処世術とする野次馬が群れている。


「そんなのは人間のエゴだ!」

 韮沢がいかにも声変わりの途中って感じの声で叫んだ。

「クラスの総意は「助ける」なんだよ。エゴはお前じゃあないのか?」

 厚木が嘲って韮沢に問いかける。

「そうだ、エコなら環境にいいんだろうが!」

 黒井が中学生とは思えないドスの聞いた声で恫喝する。しかし、言っていることがとんちんかんなので逆効果だ。隣の厚木が吹きだしている。

「鰻重!」

 大釜の叫びは虚空に吸い込まれて消えた。脈絡がなさ過ぎる。


 一体何が起こっているのだろう。

 私は自分の机に荷物を置くと、ベランダへ出てみた。


 群衆の視線は韮沢の斜め後ろ上に向いていた。

 各階のベランダを貫く柱と教室の外壁部分が作る角に何かがある。

 鳥の巣だ。

 中からはピヨピヨと雛の鳴く声がする。

 そのすぐ近くにある高窓から蛇が顔を出していた。

 教室に入った時にはカーテンに隠れて見えなかったから、そこに蛇がいるなんて想像もしなかった。

 蛇は口から舌を出し入れしながら雛を狙っている。


 ……鰻重発言の意味がわかった気がして頭が痛くなった。

 どうしてこの状況で蛇と鰻を間違えるのか理解に苦しむ。

 鰻が窓の桟を這い上ることができるだろうか。いや、できない。


「蛇が雛を食べるとしても、それは大自然の営みなんだよ! そこに人間が立ち入る資格はないんだ!」

「いやいやいや。そもそも、その蛇は大釜が持ち込んだんだろ。それが逃げ出して、ベランダにいる、クラスのみんなが可愛がっている雛を食べようとしている。これでも大自然の営みって言えるの?」

「そうだ! どうせ帰って調理するんだから、消化しきれなさそうな餌を飲み込まれると邪魔なんだよね!」

「長いものには巻かれろ、だ。俺も黒帯に巻かれたいもんだぜ」


 反論された韮沢は苦虫を噛み潰した顔をする。

 え、言い返せないの?

 そんなのは感情論だ、とか言ってみればいいのに。


 韮沢が黙ったことで、韮沢と三人の男子の膠着状態が解けた。

 三人組が韮沢に掴みかかり、押しのけて、雛を救うための行動を取った。


 まず黒井が韮沢を羽交い締めにしてベランダの柵に押しつけた。

 韮沢は黒井を振り解こうとしたが、びくともしない。

 邪魔がいなくなったところで厚木と大釜が巣に近づき、箒で蛇の回収を始める。


 一人対三人の言い争いが終わって興味を失ったのか、何人かが野次馬をやめて教室へ戻っていった。

 厚木はともかくとして、馬鹿二人がまだ何か言いそうな気がしたので、私はその場に残った。


 厚木と大釜は特別に仲が良いわけではない。それなのに妙に息の合った棒さばき(箒さばき?)で蛇を挟み、ベランダまで下ろした。

 大釜はベランダを這う蛇の頭を軽く踏んだ。そのまま蛇の頭の後ろを掴み、蛇を拾った。


「ありがとうなぁ、厚木君。今日、良かったらウチにおいでよ。鰻重、半分こしよう」

「気持ちだけいただいておくよ。今日も遅くまで部活だし、それ鰻じゃなくて蛇だし」

「そっかぁ、部活がんばってね」


 厚木が大釜に背を向けて片手を上げる。その顔は苦笑を浮かべていた。

 厚木が教室へ戻ると、黒井も韮沢を羽交い締めにしたままその後へ続いた。


「韮沢。お前、あんなこと言ってたけど蛇が好きなだけじゃあないのか? 気色悪いやっちゃなぁ」


 黒井は韮沢の耳元に口を寄せて、下卑た声で笑った。

 一瞬、韮沢の肩がぴくりと跳ねたように見えた。


 あー、韮沢はスクールカーストの底辺へ転落コースだな。きっと夏休み前後にはバレーボール部も辞めて不登校になる。

 野次馬もいなくなり、ベランダには蛇と箒を持った大釜と私だけが残っていた。


「もう逃げられないようにしないとなぁ。先生に言えばビニール袋くらいならもらえるかな? 早く鰻重食べたいなぁ。あ、でもその前に給食か。今日の給食は焼き鳥だった気がするなぁ。それも楽しみだなぁ」


 大釜はひとしきり独り言を吐くと、大きく伸びをした。大したことはしていないだろうに、一仕事終えた男の顔だった。

 ちなみに今日の給食は焼き鳥ではなく、チキンカレーだ。


 トンッ、と硬い物が何かを突く音がした。

 両腕を斜め上へ突き出す形で伸びをしたのが悪かったのだろう。

 大釜の右手に握られていた箒の尻が、鳥の巣に突き刺さっていた。

 大釜はそれに気付かないまま腕を振り、巣をめちゃくちゃにしてから箒を引き抜いた。雛が三階から地上へ落ちた。


「どうしたんだ、麻里邑(まりむら)。あ、さてはお前、オレん()が今夜鰻重なのが羨ましいんだろ? へへーん、絶対に分けてやらないからなぁ」


 大釜が舌苔(ぜったい)塗れの舌を出して挑発してくる。

 大変良い度胸をしていやがりますなぁ。


「汚ぇもん見せてんじゃねぇよ糞袋」


 頭に血が上った。

 気が付いたら右足が大釜の腹にめり込んでいた。やわらかい肉が足を包み込む。ぬかるみに足を突っ込んだみたいで不愉快だ。

 右足を引き抜き、左足を軸にして身体を回転させる。

 有り体に言うと回し蹴りを放った。私の足の甲が大釜の横っ腹を打ち、小気味良い音を立てた。

 次は顎を蹴り上げ、その足を折り曲げて膝蹴りを腹にぶち込み、うずくまったところを踏み潰してやろう。


 蹴りの連携を考えていたが、背後からクラスメートの誰かに取り押さえられてしまった。

 怯えていた大釜の顔が、私が引き離されていくにつれて笑みに変わっていく。

 暴れてみたが、私に組み付いた複数のクラスメートを振り解けそうにない。


 私が身動きできなくなったので調子づいたのだろう。大釜は「ざまあみろ」と吐き捨てた。黙っているのが業腹だったので、蹴り飛ばす代わりに唾を吐いた。奇跡的に大釜の目に命中した。痛いのか、単にひるんだだけなのか、大釜は膝を折ってうずくまった。


 その際に大釜は蛇を握る手を緩めてしまったみたいだった。蛇は口の前の方についている長い牙で大釜の手に噛みついた。捕らわれていた怨みを晴らして満足したのか、蛇はベランダを逃げ出した。


† † †


 大釜は病院に運ばれた。

 私の蹴りが致命傷になった、とかではない。

 大釜が持ち込んだ蛇がマムシだったのだ。


 大釜は私に蹴られた件を職員室へチクりに行ったのだが、その最中に様子がおかしくなった。

 クラス担任が話を聞いていると、途中で大釜が激しい痛みを訴えだしてまともに喋れなくなった。慌てたクラス担任は大釜を保健室へ連れて行った。


 保健室の先生は大釜とその手の咬み痕を見ると血相を変え、自分の車に押し込むなり病院へと飛ばして行った。

 それが生徒相談室で副担任から聞いた、私が暴れた後の話だった。


「救いようのない馬鹿だな。大釜家ではケチって蛇のことを「陸鰻」とでも言って常食してたんじゃねぇの? 先生、そこらへん聞いてないの?」


 今は一限の途中だ。大釜と私以外のクラスメートは教室で理科の授業を受けている。

 副担任こと海原(かいばら)(すばる)は、私の悪態を咎めることもなくこちらを見ている。


 海原は浅黒い肌のイケメン新任教師で、特に女子からの人気がある。

 担当科目は英語だが、ティームティーチングでベテラン教師の補佐をする立場だ。


 二十代で生徒と歳が近いために同じ目線で接してくれるし、話題も合いやすい。たまに零す冗談はキレが良くて、しばしば私達を笑わせてくれる。そのため男子からも兄のように慕われている。

 サッカー部の指導をする時と掃除の時間に着てくるJリーグ選手のユニフォームがよく似合う好青年。

 私に向き合っている今の海原は授業時と同じスーツ姿だ。


「何で大釜君を蹴ったりしたの?」

「蛇……あいつにとっては鰻を自慢されたのでついカッとなって」

「蛇、食べたかったの?」

「んなわけねぇだろうがっ! 馬鹿にするのも大概にしやがれ!」

 思わず立ち上がって叫んでしまったが、海原は動じない。表情一つ変えず、座るよう言うだけだった。

「じゃあ、どうして」

「挑発してきたんだよ。舌出して、私を怒らせるようなことをして……」

「それだけ?」

「直接は」

「直接でないものをぶつけちゃったんじゃないかな? 先生、なんかそんな気がする」

「……あんた、エスパーかよ」

「ただの新任教師だよ」


 私は自分がイケメンに弱いという自覚はなかったし、そうだとも思いたくはない。

 だけど、何となくこの数日溜まっていたものを吐き出したい気持ちになった。

 全部吐き出した。

 一昨日、ホラー映画を観ていたら弟が怖がるからと母に自室へ追いやられたこと。

 そうかと思えば母は自分が怖いゴキブリの退治は私に押しつけること。

 昨日、帰宅中に犬が吠えてきて自転車ごと車道に倒れ込んだこと。それなのに飼い主は謝ることなく行ってしまったこと。

 今日、蛇と雛を巡ってクラスで諍いが起きていたこと。建前まで用意して好きなものを守ろうとしていた韮沢が数の暴力に屈したこと。それが自分の姿と重なったこと。

 それらに対してイライラしていた。

 そんな時に、一人では弱いくせに数の暴力に酔った人間に侮辱された。

 それで私は爆発してしまったのだと。


「先生よぅ、弱いものを守るべきだという考えはよぅ、強者にとって自分の都合が良いように運用していい道具なのかよ! 中途半端に強いヤツは弱者以上に虐げられないといけねえのかよ。楽しみも、生きる糧さえも奪われないといけないってのかよ!」

 興奮で頭の奥が痛い。目頭が熱くなってぼろぼろと涙が零れる。

「……正義の反対はまた別の正義、ってやつか」

「はぁ?」


 対面にいる海原との間に置かれたローテーブルに足を乗り上げて距離を詰める。ネクタイを引っ掴んで、渾身の平手を食らわせた。


「出来合いの言葉で片付けてんじゃねぇよド三流! ここはどこだよ、生徒相談室だろ。生徒に、ちゃんと自分の言葉で向き合えよ! 出来ねぇんなら教師なんか辞めちまえ出来損ない野郎!」


 私は海原をソファへ突き飛ばし、自分も背後のソファへどっかと腰を下ろした。

 憎たらしい。

 一時でもこんなヤツに心を許してしまった自分の愚鈍さが憎たらしい。


「そうだな、先生が間違っていた」

「逃げるのか」

「逃げていたんだよ。これから向き合う。自分の言葉、か。難しいな」


 海原は頬をさすりながら、机に目線を落としている。

「向き合ってねぇだろ。私はローテーブルじゃねぇ。オメェの前に座っている、一人の人間だ」

 言うと海原は慌てて顔を上げた。


「考えていたんだよ。申し訳ないけど大人は麻里邑さんが思っているほど自分の言葉なんか持っちゃいない。大人になればなるほど自分のちっぽけさを思い知らされる。だから自分の言葉を捨てて、大昔に死んだ偉人の言葉や本で読んだ言葉を取り込んでいく。そっちの方が立派だから。だから、先生――いや、僕の言うことは麻里邑さんを納得はさせられないかもしれない」

「予防線を張るなんて不誠実だ」

「そう言わないでくれ」

「良いから話せよ」

「僕はやっぱり、手垢まみれの意見だとしても一人一人が他人を思いやることが大事だと思う。力のある人もない人も。好きなものを守りたい思いと、嫌いなものを遠ざけたい思いはバランスを取るのが難しい。難しいから一人ではできないし、一人でやろうとすると間違ってしまう。その結果、今日の韮沢君や麻里邑さんみたいな人が出てくる。誰かを麻里邑さんみたいに泣かせてしまう」

「別に、泣いてなんかねぇし」


 泣いているのはわかっている。でも認めたくない。


「バランスを取ることに躍起になるより、誰もが泣かないで済むことが大事かもしれないね。そういう道を探したら、自然とバランスは取れているかもしれない。そのためには決して問題の解決に暴力を用いないこと。腕力だけじゃない。言葉の暴力や立場の強さを利用することもダメだ」


 海原が急に責めるようなことを言ってきた。私はばつが悪くて海原の顔から目を逸らした。すると大きな手が私の両の頬を挟んできた。

「こらっ、向き合えって自分で言っておいてどうして目を逸らした」

「うー、離せよ。自分だって舌の根も乾かないうちに立場の強さ利用してるだろうが」

「ぜ~んぜん。僕の立場なんか戦闘力にしてみたらたったの五しかないゴミだよ。何せ、ド三流の新任教師だし。いつただのド三流になるかもわからない身だよ」

「……悪かったよ。言い過ぎたって。男のくせにいつまでも根に持つなって」

「根に持ってないよ。相手の言った言葉を使って返すのは僕の癖なんだ」

「癖を言い訳にするのかよ」

「良い機会だから教えておいてあげるよ。男の本質は女々しさだ、ってね」

「何それ。クラスの他の女子に言ったら先生の株、むっちゃ下がるぞ」

「えっ、それは嫌だな」

「……おい」


「まぁ、それは冗談として。そういうことだ。みんなが思いやりを持ち、暴力を振るわず、話し合うこと。おまけで付け足すなら他人を馬鹿だと見下さないで尊重し合う。みんながそうなれば、涙を流す人はきっと減るさ。それと、麻里邑さんは中途半端じゃなくちゃんと強い人だと思う。だから、先生としては弱い人を守ってあげてほしいな」

「先生の言うこと、すげぇ綺麗事ばっかだな」

「汚いよりマシだろ。綺麗の第一歩として、麻里邑さんは大釜君が学校に復帰したら謝ること。暴力について謝ったら、あとは大釜君の過ちについて何を言おうと僕は我関せずの姿勢を取ります! 終わり! 二限からは授業出てね」


 ちょうど一限終了のチャイムが鳴った。海原はソファから立ち上がって生徒相談室を出た。私が続いて退室すると、海原がドアに施錠した。


「じゃあ、おつかれ」


 海原は職員室へと歩いて行く。


「先生」


 海原が立ち止まり、私の方へ振り返る。


「どしたー? まだ何かあるのか?」


 だが、私は心の中にわだかまる感情を言葉にすることができなかった。


「何でもないです」


 結局そう言って誤魔化した。


 海原は「そうか」とだけ言って今度こそ職員室に入っていった。 

 私も教室へと戻っていった。


† † †


 海原と話してから一週間が経った。

 あの後、色んな事があった。


 まず、大釜が死んだ。


 マムシに咬まれて死ぬ確率は〇・一パーセントらしい。相当に運がなかったのだろう。

 二度と大釜に謝ることはできなくなってしまった。

 代わりに葬儀へは出席した。

 義理は果たしたと思う。


 それから、下校中に雑種を散歩させるクソババアと会わなくなった。

 やっぱり私が轢かれかけていたのを認識していたのだ。罵声も浴びせたし、私から怨まれているという自覚も芽生えたことだろう。散歩のコースか時間を変えたに違いない。


 あとは、母が週一でバルサンを焚くようになったのと……あぁ、そうだ。


 弟の毬雄と話をした。

 毬雄はホラー映画そのものを怖がっていたのではないと話してくれた。

 女の幽霊が出てくる映画ばかり見ていたので、いつか私が幽霊になってしまうのではないかと思ったのだという。


 私はそう簡単にくたばらないと言い聞かせ、女幽霊ものの映画は自室で観るようにする、と言ってやった。そうすると毬雄は安心したような顔をした。

 それに日曜に女幽霊が出てこないホラー映画を借りてきたら、一緒に観ると言って隣に座ってきた。

 毬雄はグズったりせず、最後までおとなしく映画を鑑賞していた。


† † †


 大釜の死からはや三週間が経った。あいつの席は既に教室から撤去され、席替えが行われていた。


 現在、梅雨真っ盛り。

 連日、傘差し運転日和なお天気が続いている。


 数学の時間。

 私を含むほとんどの生徒は教科書に載っている【問、二十五】をやっているフリをしていた。


 老眼鏡をかけた温和な顔の教師、倉松先生が近くを通った時だけ真面目にしてやり過ごす。

 先生から指された韮沢だけは問題が解け次第、黒板に答えを書きに行かなければならない。だけど私たちはそれを写せばいいからフリでいいのだ。


 中には真剣に解いている意識の高い中学生もいたが、それは少数派。

 少数派にはもう一種類いた。それは休み時間と同様に過ごす連中。席を自由に移動して騒いでいるギャル系の女子や、それを注意する先生を呼び止めて「先生、サンとムーンどっちが好き?」と授業に関係の無い質問をしている男子がそれ。


 私は問題を解いているフリに飽きたので壁に発生した結露を眺めていた。


 水滴として目に見える形を持っても最終的には、乾くか落ちて床を濡らすだけ。何の役にも立たない無駄な存在。水そのものは有益なのに、生まれる場所を間違えたばかりに疎まれる。


 大釜は別にクラスで力を持っていたわけでもなく、人気者でもなかった。だからクラスの連中も表面上はすっかりあいつの死を忘却している。

 しかし、こいつらは醜い形で大釜の死を引きずっていた。


 頭に軽いものが当たって落ちる。千切った消しゴムの欠片だった。他愛のないイタズラだ。鬱陶しいことこの上ないが、取り合うのも馬鹿馬鹿しい。

 大釜はさほど愛されていなかったが、その点では私もどっこいだ。いや、どっこいだった。


 今は嫌われている。


 大釜の死因は、あくまでも鰻と称して持ち込んだマムシに咬まれてその毒が回ったからだ。

 非常に低い確率を引いてあいつは死んだ。これは紛れもない事実だ。


 大釜の死後に行われた全校集会でもそのことは公表され、毒蛇に気をつけるよう注意の喚起が行われた。だけど、それでも私が殺したと考えるヤツは少なくない。

 私が大釜を蹴らなければ大釜はマムシに咬まれず死ななかった、つまり私が殺したというのだ。


 馬鹿馬鹿しい。

 韮沢もあの蛇がマムシだと知っていて助けようとしていたのだと糾弾され、私と同じような境遇に陥っている。

 そこのところは聞いてないから真偽はわからないが、そもそもマムシを持ち込んでその管理を怠った大釜が一番悪いだろ。


 私が理不尽な扱いに腹を立てている間に、問題を解いた韮沢が前に出ていた。筆圧が強くて下手な字だった。力が入りすぎたのか、途中でチョークが折れる。

 誰かがクスクスと笑う声が聞こえた。

 チョークを折ったのが韮沢でなくてもあるようなことだ。それでも私は笑われたのが韮沢だったことに特別な意味を見出してしまう。クラスメートの陰険で幼稚な悪意を感じてしまう。

 自分が過敏になっているとわかるが、不愉快だ。我知らず小さく舌打ちしてしまっていた。


 韮沢の答えは不正解だった。

 写した韮沢の答えを消し、倉松先生が解説しながら書く式を新たに板書する。


 先生がわかりやすく説明してくれていると、黒井が「先生、授業もう終わるよ」などと言って話の腰を折った。「あと少しだから大人しく聞いていなさい」と先生が黒井を窘める。

 教室のあちこちから不満を漏らす声が聞こえてきた。先生は溜息を吐いてから解説を再開する。


 チャイムが鳴った。黒井がまた「ほら、先生、授業終わったぜ」と声を大にして言う。蜂の巣をつついたように、黒井に付和雷同する声が男子とギャル系の女子を中心に上がる。

 先生もそれに対抗するように声を張り上げて解法の注意点を述べると、授業を切り上げた。


 授業が長引いて休み時間が潰れるのはたとえ一分一秒でも嫌だ、できれば早く終わって欲しい。

 それはわかる。

 だが黒井が茶々を入れたせいでその一分一秒が失われたことにあいつらは気付かないのだろうか。本当にげんなりする。馬鹿ばっかりで嫌になる。


 教室を出て行く時の先生の不機嫌そうな顔を見るに、帰りのHRでクラス担任からこの時間のことでお説教がありそうだ。

 帰る時間が遅くなる方が休み時間が減るよりも嫌な私にとっては最悪の展開と言える。


 休み時間になっても特にすることがない。靴下止めでも塗ろうかと思っていると、机の足が床を引っかき、動いた机から物が落ちる音も聞こえた。

 あぁ、もう中学生嫌だ。早く大学生になりたい。


「おっと、すまんな。拾うのを手伝うぜ」


 横目で音のした方を見ると韮沢の机が斜めになっていた。

 すぐ傍に黒井がいるのを見るに、あいつが韮沢の机にぶつかったのだろう。その足もとには韮沢の教科書や文房具類が散乱している。


 わざとだ。

 黒井の半笑いを見ればわかる。離れたところからそれを見ているヤツらもいやらしい顔をしている。


 韮沢は机の向きを直し、イスに座ったまま屈んでペンに手を伸ばした。

 散らばったペンの上で韮沢が手を広げた時、黒井がその手を踏んだ。


「痛っ!」

「おっと、すまんなぁ韮沢君。すぐに退けるよ」


 黒井は仰け反って手を引き抜こうとする韮沢の頭を手で押さえてから足を浮かせると、韮沢の顔面に膝蹴りを入れた。韮沢は顔を押さえてうずくまった。


「ごめんなぁ。悪気はないんだぜ? ちょっと滑っただけなんだ。誰にだって失敗はあるよな。お前がさっきの時間、当てられた問題を間違えて授業が長引いたのと同じでさ」


 一部始終を見ていた野次馬どもがそれを聞いて笑う。そうでない奴らも一貫して見て見ぬフリをする。胸くそ悪い。


 私は席を立つと大股で歩いていき、間に韮沢を挟んで黒井の正面に立った。


「授業が長引いたのはテメェらド屑が早く終われって先生にイチャモンつけたからだろうが」


 韮沢が私を見上げるような気配があった。

 でも私は黒井にムカついている。韮沢に手を差し伸べてやる余裕はない。

 黒井や野次馬をしている連中は雑魚をいたぶって悦に入るようなヤツらだ。急に私が割って入ってきたことに一瞬戸惑いを見せた。が、すぐにいやらしい顔に戻る。


「麻里邑、今度は俺を殺そうってのか?」


 バカにしやがって。

 そう言えば私が傷つくと思っているんだな。もちろん傷つかないわけじゃないが、それで泣き出すような私じゃあない。


「別にそれでもいいんだけどな。柔道やってるとか言っても黒井、テメェどうせ弱いんだろ? だって力の持って行き場がなくて弱い者いじめなんかしているくらいだからな」


 黒井の眉間に皺が寄った。図星みたいだ。


「人殺しのくせに堂々としやがって」

「無実だからな」

「よく学校に出てこられるな」

「脅しのために柔道やってる屑に言われたくない」


 顔を赤黒くさせた黒井が右腕を振り上げた。

 殴られる。

 私は何も間違ったことは言ってないし、暴力も振るってないのに。

 私は腕で顔を守り、目を瞑って衝撃に耐えようとした。

 だが、私は殴られなかった。


「やりすぎ」


 目を開けると、丸刈りが黒井の右肩に手を置いていた。

 厚木だった。

 黒井は首だけを後ろに向けて厚木を見ると、ゆっくり腕を下ろした。黒井のそんな様子を見て厚木は頷くと、韮沢の側にしゃがんだ。


「大丈夫か? 保健室、ついて行こうか?」


 厚木は床に広がった教科書や文房具を拾いながら、韮沢に尋ねた。韮沢は少しの間を置いてから首肯した。厚木は拾ったものを韮沢の机に戻し、韮沢に肩を貸して立たせた。


「先生に伝達よろしく」


 厚木は私にそう言うと、韮沢を連れて教室を出て行った。


 クラスでいじめられている韮沢に、実質的にクラスの牽引役である厚木が手を差し伸べた?

 私を助けたのだって変だ。

 このいじめは厚木が煽ってるんじゃないのか?

 大釜の件があった後も、クラスで人気取りに走らなくてもいい地位にいる厚木が、何故こんなことをするのだろう。どうにも胡散臭い。


† † †


 いじめは最初、つまり大釜が死んだ直後は私がちょっとした嫌がらせを受けるだけだった。

 手始めにクラス全員から無視される。

 触ると殺人菌が感染(うつ)ると言われ避けられる。ペンやノート、上靴といった物を隠されるか、ごみ箱へ捨てられる。机に「人殺し」「犯罪者」「お前が死ね」などのラクガキをマジックで書かれる、または彫られる。すれ違いざまにぶつかられる、足をかけられる、悪口を言われる。消しゴムの欠片を投げられる。教室を離れている間に机を倒される。


 他にもあったがだいたいそんなところだ。

 直接の嫌がらせは無視すれば良かったし、他人とすれ違うときには十分距離を取れば安全だった。

 ぶつかるためだけにわざわざ近づいて来るのは一部の男子だけだったし、鬼ごっこをしたいだけだと思えば何でもない。ちなみに、その一部の男子に大釜の事件の当事者は含まれない。つまり厚木と黒井、それに韮沢は私に直接関わろうとはしなかった。


 幸いにも私は走るのが速い。それに目付きこそ悪いけど顔は整っている。

 チョッカイを出す男子を追いかけて捕まえてみればいきなりドギマギしはじめるから面白かった。もちろん口では「人殺し」とか言うんだけど、顔が嬉しそうなのだ。


 そんなことより物に当たられるのが嫌だった。

 やられたことを見た瞬間に、頭から飲み物をぶっかけられたみたいなショックに襲われるのだ。もう慣れたから今では溜息しか出ないけど。


 こういう嫌がらせは、大体はスクールカースト上位の女子が煽って、男子がそれに乗っかる形でイジメに発展する。

 男子主導のイジメのターゲットは同じ男子。女子がターゲットになる時はそいつがブスか根暗の時。あるいは好きの裏返しでしていたことが波及して後戻りできなくなったかだろう。


 男子は私に対していじめているような態度を取るには取っていた。

 だけど、朝と帰りのHR前と昼休みは私と鬼ごっこをして遊んでいる。大釜の死をダシにしてスケープゴートを作り出そうとした誰かは、上手くいかなくてイライラしているに違いない。

 私はそういう風に考えていじめの首謀者に勝ったと考えていた。


 しかし、いつの間にかいじめのメインターゲットは私から韮沢に変わっていた。

 普通は助かった、と喜ぶところなんだろうが、見ていて気持ちの良いものじゃなかった。

 韮沢がいじめられているのを見ていると、海原に言われたことが頭に浮かんできて、渦を巻くのだ。

 私は本当に強いのだろうか。私が韮沢を助けなければいけないのだろうか。


† † †


 放課後。

 私は帰宅すると宿題のプリントをさっさと片付けようと思って通学鞄の中を見た。しかし、プリントはどこにもなかった。鞄の内ポケットにも、教科書やノートの間も探したけれど見当たらない。


 単純に忘れてきたのだと思った私は、学校に取りに戻ることにした。まだ制服を脱いでいなかったので、着替える手間が省けて助かった。


 迷惑な犬を散歩させるクソババアがいなくなった通学路を自転車で走る。今はいつどこを散歩させているのだろうか。別に知りたくもないが。

 そんなことを考えながら漕いでいると、校門に着いた。駐輪場に自転車を突っ込んで、教室へと向かった。


 外からは運動部のかけ声や、吹奏楽部の演奏が聞こえていたが、教室はしんと静まり返っていた。みんな部活や寄り道で忙しいのだろう。

 だけど、無人というわけではなかった。


 私が教室に入ると、後方の引き戸の側に置かれたごみ箱の前に韮沢がいた。

 奇妙なことに、給食で出た牛乳の瓶を持っている。その瓶は飲み口が下に向けられ、中身は空っぽだ。

 給食の時間が終わった後に返し忘れたわけではなく、たった今空になったようなのだ。瓶の内側が牛乳の残りで薄くコーティングされている。


「お前、何やってんの?」


 瓶の飲み口から白い雫が滴り落ちた。

 私に見つかって韮沢はひどく怯えた様子で必死に首を左右に振り始めた。


「違う、違うんだ。これは、その」


 韮沢は脚までがくがくと震わせ始めた。

 韮沢がしたことは明らかに迷惑なことだ。もったいないことでもある。しかし、顔をぐしゃぐしゃにしてベソをかき出したのが腑に落ちない。単なるイタズラの現場を見られただけの反応ではない。その場合、真っ先に黙っててくれるよう頼むのが普通だ。


 だいたい何があったのか想像はついた。見たら凄く嫌な気持ちになることはわかりきっていたが、ごみ箱の中を覗きこんだ。


「おい、何してくれてんだよ! もう最悪。どうせそんなところだろうと思ったけどさ!」


 歴史の資料集がごみ箱の中で牛乳を浴びて白くなっていた。

 裏表紙の名前欄に私の筆跡で⑲と書いてある。

 私は持ち物に名前を書くのが小学生っぽくて気に入らない。でも再々隠されたり捨てられたりするので、仕方なく自分の出席番号を書いておいた。

 だからすぐに牛乳をかけられた歴史資料集が自分の物だとわかった。


 一応、いじめられているのに私物を置いて下校するのはどうなのか、と思わないでもない。でもそれを持って帰っても机や靴箱、いくらでも被害を受けるものはある。だから私は今までの生活態度を変えることはしないと決めていた。もうメインターゲットじゃなくなったし。

 その油断がこの惨状を招いたのだが……。


 牛乳がページの方へできるだけ染み込まないようにしながら指で資料集をつまんで持ち上げる。ポタポタと牛乳の雫が資料集から落ちた。そのまま教室の外にある手洗い場へと持って行くと、表紙を水で軽く洗った。


 こういうことがままある環境で使われる本だと出版社も分かっているからだろうか。表紙に使われている紙が水を弾いている。

 お蔭で牛乳を洗い流しても何とか使えそうだった。そもそも来年になれば科目も歴史から公民になるし、そんなに使う教材ではない。何とかなるだろう。


 だからといって許せることではない。

 物を捨てるだけの嫌がらせでも嫌なのに、その上牛乳をかけられたのだ。嫌な臭いが付くのは避けようがない。


「ご、ごめんな、さい、ごめ、んなさい」


 嗚咽混じりのくぐもった声がしたから振り向くと、韮沢が土下座していた。


「泣いてんじゃねぇよタマ無しが! 私だって女なんだからよぉ、顔見られただけで男に怯えられて泣かれたりしたら傷つくんだぞ? ほら、顔上げろ!」


 イラついて仕方がないから肩を爪先で蹴り上げてやった。

 韮沢は仰け反って、涙と鼻水だらけの顔を一瞬だけ見せた。でもすぐに両腕で頭を守るような格好でうずくまった。

 まったく、これじゃあどっちが被害者かわかりゃしない。


「で? 誰の差し金だよ」


 鋭敏な私の頭脳は、韮沢が誰かに命令されてこんなことをしたのだとわかっていた。

 自分が好きなものを好きと胸を張って言うことすらできない韮沢だ。こんな悪質なことを一人で考えて実行する度胸なんかあるわけがない。

 韮沢は防御の姿勢のまま、首を左右に振った。


「僕が、したこと、です。ごめんな、さい」

「違う、誰がやったかは見てたから知ってる。私が聞きたいのはそれをやるようにテメェに言ったのは誰かってことだ」


 なおも韮沢は首を振ってバックに誰もいないことを主張する。


「あのさぁ、韮沢さぁ。勘違いしてるみたいだから教えてやるけど、このクラスで一番恐ろしいのは私だぞ?」

 少なくとも私はそう思っている。韮沢はそう思っていないからか、顔を上げない。

「理由を教えてやろうか。私は躊躇わないからだ」


 私は韮沢の前にしゃがみ込むと、前髪を鷲掴みにした。そのまま思い切り上に引っ張って、無理矢理に韮沢に顔を上げさせた。


「痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!」

「楽しいからいじめる、相手が弱いからいじめる。そういう他のヤツとは違うんだよ。私はムカツいたら相手を蹴り飛ばすからな」


 海原にそれをたしなめられたことと、相手が犬を連れていると手も足も出ないという情報は言う必要がないので伏せた。


「誰に言われてやったんだよ。言うまで放さないからな」


 さっきから韮沢は自分の前髪から私の手を引き剥がそうと必死になっていた。でも根元に近いところを掴んでいるから上手くいっていない。


「言う、言うから放して」

「ったく。最初から言えってんだよ」

 私が手を放すと、韮沢は私に握られていた前髪を少し直してから話し始めた。


「……好きなんだ。麻里邑さんのことが」


「は?」


 私は韮沢の胸倉に手を伸ばし、自由な方の腕を振り上げて握り拳をつくった。

「乱暴しないで最後まで聞いてよ」

「好きな女に意地悪したくなる、なんてのが許されるのは小学生までだ。もっとも、私は小学生相手でも許す気はないけどな」

「あの時から好きなんだ。みんな僕の話を聞かずに馬鹿にしたけど、麻里邑さんは違った。こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、麻里邑さんが大釜を蹴ったのを見た時、凄くすっきりしたんだ」

「百点満点中、三点の嘘だな。誰でもでっちあげられる」

「最後まで聞いてよ! でも、キッカケが不謹慎というか、ひとが死んだ直後に愛の告白なんかするのは、はばかられたから」

「周りの目が気になるようならその気持ちは墓まで持って行け。不愉快なので減点一点」

「えっ、そんな! でも、えーと、最近、麻里邑さん、男子と遊ぶようになったよね」

「本人たちにとっては私よりも私に触ると付く殺人菌の方が重要だって言ってるけどな」

「あれを見てたら、凄く羨ましくって。でも僕そんなに走るの速くないから、すぐ追いつかれて麻里邑さんにあんまり追いかけてもらえないし……どうしたら気を引けるかなって思ったら」

「それで資料集に牛乳かけるのかよ。そんなので好きになるわけないだろ! テメェの脳みそはプリンかよ!!」


「例え脳みそがプリンでも、麻里邑さんを好きな気持ちに嘘はないんだああああああああ」


 韮沢はまたうずくまって泣き出してしまった。別に泣いてもいいけど、話せる姿勢で泣いてほしい。下を向いて話されると声が聞き取りにくい。


「悪かった、悪かった。脳みそプリンなのは韮沢じゃないもんな。韮沢はその悪趣味な告白を九官鳥みたいに覚えさせられたんだよな? 辛かったな。で、テメェにそれを覚えさせたのは誰なんだ?」

「うっ、うぅう……四方田(よもだ)さん」


 うわぁ、それあっさり言うんだったら最初から白状しろよ。手間取らせやがって。

 それにしても四方田か。あいつ嫌いなんだよなぁ。


 四方田(よもぎ)はクラスで一番大きい女子グループの中心的な女子だ。それを利用してこういう陰湿なこともやりやがる。

 私があいつに関して何よりも気に食わないのは、切れ長の目でちょっとキツい顔の美人を気取ってるところだ。

 私とキャラが被ってるのを理解していて、ツインテールとか男子が好きそうな髪型をして媚びてるのはもっと気に食わない。だからってそれだけの理由で四方田を蹴ったら、私がサイコパスか何かと思われそうだし……。

 本当に嫌なヤツだ。


「韮沢さぁ。分かってたけど、嘘の告白とかやめろよ。例えそれも命令のうちだとしても。そういうことされるとさぁ、『おのれ四方田許さん!』って気持ちがどこか不完全燃焼になっちゃうんだよ。最初から黒幕を教えてくれれば、もっとこう、素直に韮沢のことも可哀想だって思えるじゃん?」

「好きなのは、本当なんだ」


 韮沢は零すように言った。何か、びっくりしなきゃいけないことを聞かされた気がする。その言葉を何度か脳内で繰り返したが、にわかには信じがたい。

 そんなことを同年代の男子から言われたことは十四年生きてきてこの方、一度もなかった。


「僕、麻里邑さんにラブレター書いたんだ。だけど、それを麻里邑さんの靴箱に入れるところを四方田さんに見つかって、取り上げられて……何だよこのクソポエムって笑われて」


 取り上げられたって、お前。

 私への想いを書き綴ったものを取られてそのままにしないでほしい。

 負けたとはいえ、蛇が好きってだけでクラス全員と戦った韮沢はどこへ行ったんだよ。


 私は面と向かって告白できないようなヤツからラブレターをもらったところで破り捨てるけど、それでも残念だ。


「それで、そのラブレターをクラス中にバラされたくなかったら、麻里邑さんの持ち物に牛乳をかけろ、って言われて。ラブレター、みんなにバレたら麻里邑さんも恥ずかしいだろうし、代わりに告白のセリフは考えてやるって四方田さんが言うから」


 この野郎。

 わずかとはいえ自分に利がある方を取ったんじゃねぇか。クズ野郎だな、本当に。

 私は思わず溜息をついていた。


「あのさぁ。付き合うとか、正直よくわからないから、気持ちだけもらっておくよ。とてもじゃないが私は韮沢のこと、好きになったりできないから。って、泣くな!」


 またうずくまろうとしていた韮沢の前髪を掴み、持ち上げる。でも、冷静に考えるともう韮沢から聞く話はなかった。私は韮沢の前髪から手を放した。


「ただ、四方田とはしっかり話をしなきゃならない。それと、大釜の事故に便乗していじめをしているヤツらは、不愉快だけど放っておけばいいと私は思ってた。でもこんなことまでするのなら、さすがに許せない。だから韮沢、ついでにお前へのいじめもぶっ潰してやるよ」


 うずくまっている韮沢にそう言ったところで、私は本来の目的を思い出した。

 滑稽だなぁ、と思いながらも私は自分の机を調べた。宿題のプリントはちゃんとそこにあった。プリントを二つ折りにして、鞄に入れた。よし。

 私が顔を上げると、韮沢も顔を上げていた。捨てられた子犬の目で私を熱心に見つめている。ちょっと気持ち悪い。


「や、やっぱり麻里邑さんは僕のヒーローだ!」


 死ぬほどげんなりする言葉を聞いた気がした。こいつ、やっぱりまだ小学生なんじゃねぇか?


「……ごみ箱にぶちまけた牛乳、何とかしてから帰れよ。私はもう行くから」


 私は言って教室を後にした。


† † †


 翌日。

 四方田とどう話をつけてやろうかと考えながら登校した私だったが、闘いのゴングはもう鳴っていたようだ。


 教室に入ると落書きだらけの黒板とそれを消す韮沢の姿が目に入った。韮沢は背が高いから消すのが楽でいいよなぁ。そんな感想を持ったのは、自分が日直で授業後に黒板を消さないといけない時のことを思い出したからだ。

 私の身長では黒板上部に書かれたものを消すには背伸びしなくてはならない。


 今日は韮沢が日直なのか、くらいに思って席に座ろうとした。だが、黒板の落書きの内容を見て私は呆れ果てた。

 既に韮沢によって消されかけていたが、黒板には相合傘を囲む大きなハートマークと、それを彩るリボンやらキューピッドの絵がチョークで描かれていた。

 相合傘の下には私と韮沢の名前が書かれているのだ。

 

 このクラスには小学生が何人紛れ込んでいるんだ……。


 犯人が誰かとか考えるまでもない。

 私が教室に入る直前までニヤニヤ笑いを浮かべていたのに、私が入ってきた途端に無表情になった女子数名。その中には四方田の姿があった。


 私は窓際後方の席でたむろしているその女子数名の前まで直行し、四方田を問い詰めた。


「四方田さ、どうしてこんなことするんだ?」

「はぁ? 何のこと?」

 四方田は肩をすくめて取り巻きたちと顔を見合わせた。


「しらばっくれても無駄だ。黒板の落書きはテメェらがやったんだろうが」


「証拠は? 証拠も無いのに他人を疑うのってね、名誉毀損めいよきそんものよ?」


 四方田は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。取り巻き達からは冷たい視線が刺さってくる。

 たぶん四方田って、正当防衛は知ってても過剰防衛は知らないタイプだろうな。


「そうは言うが、黒板にあんなこと書いて面白がるヤツなんて他にいるのかよ」

「昨日、あんた数学の後の休み時間にかなり目立つ形で韮沢のこと助けに入ったじゃない。あんなのを見ちゃったら、勘繰る人はいくらでもいるでしょ?」

「ほう、じゃあ私にいじめの邪魔をされた黒井が書いたとでも? 黒井があんな絵を描くか?」

「知らないわよ。ってか、また他人を根拠もなく疑ってるし」

「じゃあ本人に尋ねてやるよ」

 私は振り返って教室内を見回した。

 黒井は、まだ黒板を消している韮沢を何人かの男子と一緒になってからかっていた。


「おい、黒井!」


 ふざけていてもちゃんと聞こえるように私は声を張って黒井に呼び掛けた。

 猿のように喚き、囃し立てながら韮沢の腕を叩いたり肩を引っ張ったりしている連中が動きを止める。

 黒井はゆったりとした動作でこちらに向き直った。私のことを睨んでいる。黒井以外のクラスメートの何人かも「またか」という迷惑顔で私の方を見た。


「何だよ」


 黒井は機嫌が悪いのをアピールするように悪態をついている。

 自分のことを、強く恐ろしい存在に見せたいのだろう。虚勢を張っているようにしか見えないが。


 私は黒井のところまで歩いて行くと、その左肩に手を置いて横に立った。こうすると、私は黒井と四方田たちの両方の顔を見ることができる。私は背後の黒板を指で差して黒井に訊いた。


「あの相合い傘の落書き、黒井が書いたのか?」

「はぁ? ふざけてんじゃねぇよ!」


 黒井は凄い剣幕で怒り出し、野太い声で恫喝どうかつしてきた。

 耳元で叫ぶんじゃねぇ、とやり返すのを堪えて私は四方田の方を一瞥いちべつする。

 四方田は微かに頭を左右に振っていた。四方田は黒井に何か伝えたそうだったが、野獣みたいに吠えているヤツにそんなサインを送っても無駄というものだ。


「俺がこんな可愛いもん書くわけねぇだろうが。こういうのは四方田あたりがやることだろ。テメェ、あんまりナメてると女だろうが投げ飛ばすぞ!」

「はいはい、疑って悪かったね。受け身教えてくれたら付き合うよ」


 黒井は精一杯の凄みを利かせながら私の制服のリボンを引っ張り上げてくる。内心、今度こそ殴られるかと冷や冷やした。

それを悟られるのも悔しいので、私も平静を装って受け流した……受け流せたと、思う。


「……付き合う?」

「黒井、麻里邑と付き合うの?」


 唐突に、私の言葉の一部だけを男子の誰かが取り上げて呟いた。

 それに他の男子が次々と乗っかって囃し立て始めた。

 黒井は自分が煽られるのには耐性がないらしい。私のリボンから手を放すなり、からかう他の男子を無言で追い回し始めた。黒井から逃げる男子のおどけた声と、そいつらにぶつかられたり机を倒されたりした女子の悲鳴と怒声が教室のあちこちから上がる。


 ばっかじゃねぇの?


 私はまだ登校してきたばかりだというのに、凄まじい疲労感に襲われた。

 この状況で怒れる黒井が羨ましい。私はもう怒りを通り越して呆れてしまう。私はどうしてこんなクラスにいるのだろう。私はこんなヤツらと同レベルなのか。


 この状況のそもそもの原因となった落書きの犯人と考えて間違いない四方田たちを見ると、顔を引きつらせていた。

 そのまま見ていると、四方田は私の視線に気付いた素振りを見せた。四方田は次第に肩を震わせ始め、やがて私を指差して呵々大笑し出した。何なんだ、あいつは。


 狂乱の坩堝るつぼと化した教室へ韮沢が雑巾を持って入ってきた。

 黒板を雑巾で拭いて落書きの痕跡をしっかり消そうとは、念入りだな。私へのアピールのつもりだったらまったく意味はないぞ。


 韮沢の後ろにはどういう風の吹き回しか、同じく雑巾を持った厚木がいた。二人とも混沌とした教室の様子に面食らっているようだ。

 私の目の前を早明浦(さめうら)という男子とそれを追いかける黒井が走り抜ける。

 早明浦は教室の出入り口に突っ込んで行き、韮沢と厚木を突き飛ばして廊下へと逃げていった。黒井もそれに続いた。


 黒井が居なくなっても「麻里邑はビッチ」「黒井と韮沢は穴兄弟」という意味不明で事実無根の言葉は未だ飛び交っている。

 男子はその手の言葉を私や韮沢に近づいて直接浴びせたり、安全圏から大合唱したりした。女子は女子で「殺人犯のくせに人気取りかよ」とでも言いたげな目で見やがって鬱陶しい。


 こいつらは食いつきが良い黒井だけでなく、私をも怒らせたいらしい。

 こんな猿同然のヤツらと同じ土俵に立ちたくないんですけど!

 だから私は下を向いて目を合わせないようにした。そういう態度を続けていると、私に集っていたヤツらは散っていった。


 ふと、出入り口の引き戸の方を見ると男子が溜まっている。

 引き戸の陰には韮沢がいるのだろう。背の高いあいつの姿が見えないということはまたうずくまっているのか。結局あいつにウザいヤツらを押しつける形になってしまった。


 しかし、韮沢も韮沢だ。黒井を追いかけて「麻里邑さんは僕のものだ」とかなんとか言ってとりあえず殴るとかすればまだ見直すんだがな。見直すだけで付き合ったりはしないけど。


 そう言えば出入り口のところには韮沢だけでなく厚木もいたはず、と思って教室をなんとなく見回した。そこに厚木の姿はなかった。

 背後の教壇が軋んだ音がして、振り向くと厚木がいた。厚木は黒板を雑巾で拭いている。


「真面目クンかよ」

 私がそう零すと、厚木は黒板を拭くその手を止めた。

「何だか大変なことになっているみたいだね」

「クラスのリーダーが我関せずかよ。まさかテメェが仕組んだことじゃねぇだろうな?」

「リーダーとかじゃないよ。誰かがまとめないと何もしないクラスで、俺はみんながどうしたいかっていう総意を何となく察することができた。要は空気が読めただけなんだよ。それで、野球部に入ってることにどういうわけか特別な価値を見出したみんなから、勝手にリーダー扱いされてるだけなんだ」

「へぇ、じゃあこの騒ぎもテメェが煽動したって認めるんだな」

 厚木は溜息を一つ吐いて、首を傾げた。


「こうなるとは思ってなかったよ」


「なら、どうなると思ってたんだ」

「麻里邑さんが人殺しなんて言われないようにするだけのつもりだった」

「うさん臭ぇ」

「本当だよ。だから黒井に頼んで韮沢をいじめさせた。その方が楽しいって思ってもらえるように、クラスの悪意が韮沢に向かうようにしたんだ」


 厚木は何でもないことのように言うと、黒板を拭くのを再開した。

 物事の流れっていうのは自然にできるんじゃない。流れを作るヤツがいるからできるのだ。

 つまり、強者なのだ。


「じゃあ、昨日テメェが黒井を止めて韮沢を保健室に連れて行ったのは」

「マッチポンプ、ということになるのかな。麻里邑さんがいじめられないよう、標的をずらすには必要だと思ったから。黒井と一緒になって韮沢をいじめない人に対しては、俺の棚ぼた的な人望でどうにかするしかないし」

「人望、か。しかし厚木、テメェどうしてそう私にお節介を焼くんだ?」

「今この場では言いたくないな」

「いじめの首謀者だって公言しておいて、何を今更隠すって言うんだ?」


 私は厚木の背中を睨みつけると挑むように、そして試すように言った。

 もちろん私の鋭敏な頭脳はその理由に気付いている。ただ、厚木はクラスのヒエラルキーで頂点に立つ男だ。

 私はいくら美少女でも、はみ出し者だ。にわかには信じられない。


「ベタ、と言われるかもしれないけれどこの続きは放課後に屋上で……あ、野球部の練習があるなぁ。じゃあ、昼休みに体育館の裏で話す、というのはどうかな?」


 黒板を拭き終えた厚木は私に向き直って言った。平然としているのが無茶苦茶ムカつく。


「はぁ? テメェの都合だけで決めてんじゃねぇぞ。昼休みの私は忙しいんだ。何と言っても、クラスのどうしようもなくガキ臭い野郎共に、私の殺人菌を蔓延させる使命があるからなぁ」

 中途半端なことをして別に被害者を作っただけで私へのいじめを自分が抑えた気になっている。それが今の厚木だ。余裕ぶっこいてる厚木の鼻を折ったと私は確信した。ところが。


「待ってるから、必ず来てくれよ」


 私の会心の皮肉は、厚木のさわやかな笑みによって受け流されてしまった。敗北に打ちひしがれる私に背を向け、厚木は雑巾を洗いに行った。


 私が放心して黒板を眺めていると、後ろから誰かに両腕を掴まれた。首を後ろに向けて顔を見ると四方田の取り巻きだった。

 私は引きずられて教室から連れ出された。抵抗するのも億劫だったのでしたいようにさせてやった。教室前方の出入り口を通った時、韮沢はまだそこで囲まれていた。

 韮沢、本当に意気地なしだな。


 私が連れていかれたのはその近くにある女子トイレだった。

 トイレには廊下と内部を隔てる扉があり、入って右手側に手洗い場がある。床が途中からタイル張りになっており、そこから奥に向かって個室が二列並んでいた。


 私を引っ張って来た四方田の取り巻きはトイレの扉を閉めると、私の両腕を放してくれた。

 中では四方田が目を剥き、仁王立ちをして私を待っていた。見ているだけで疲れが溜まりそうだったので、私は四方田から顔を背けた。


「人殺しのくせに厚木君と口利いてるんじゃねぇよ」

「殺してねぇし。それにテメェに指図されなきゃいけない覚えはねぇんだよ、このビッチが」

「ビッチはアンタでしょうが!」

「根も葉もないことばかり言いやがって。嘘つきは泥棒の始まりだぞ」

「嘘つきも泥棒猫もアンタでしょうが!」


 四方田はヒステリックに叫んだ。顔面は真っ赤で鼻息は荒く、肩も上下している。

 私を泥棒猫と罵ったことで相合傘の落書きの犯人はやっぱり四方田たちだとわかった。同時に、わかりたくなかったこともわかってしまった。


「あー、四方田、テメェ厚木好きなのか。じゃあ昼休み、私の代わりに体育館裏に……」

 行けよ、と言い切る前に乾いた音がそれを遮った。

 続いて、じーんとした痛みが頬に広がる。私は四方田に頬をぶたれた。


「馬鹿にしないで。私はアンタの代わりなんかじゃない」


 四方田は私を突き飛ばしてトイレから出て行った。取り巻きたちもそれに続く。何人かからは冷たい目で見られたり、「最低」「もう学校来ないで」などの有難い言葉を頂戴したりした。

 面倒くせぇーッ!!

 朝のSHRをサボって個室にこもっていたいくらい面倒くさい。それも何か四方田たちに負けたみたいで癪だから教室戻るけど。


 私はトイレから出る前に手洗い場の少し上に取り付けられている鏡を見た。四方田にビンタされた方の頬はまだ少し赤い。


「馬鹿にしないで。私はアンタの代わりじゃない」


 鏡に向かって四方田のモノマネをしてみた。まったく面白くなかった。

 次に女が他人に見せてはいけない類の顔をしてみた。ちょっと面白かった。

 気持ちが少し楽になったのでトイレから出た。


† † †


 厚木が私を呼び出したことは、給食の時間には周知の事実だった。

 誰かがLINEを回したのだろう。

 いずれにせよ好奇の目に晒されながら食べる給食は美味くなかった。


 私は厚木が一方的に結んできた約束を無視して昼休みをやり過ごすつもりだった。

 給食が終わるなり私は教室を出、早足で他の人気がない場所を目指した。

 具体的には理科室や視聴覚室といった特別教室の近くだ。厚木には男子と鬼ごっこをするとは言ったが、最初からそんなつもりはない。


 体育館とは違う方向へ向かう私を厚木が呼び止めることはなかった。

 呼び止めたらだいぶダサいから当然か。


「待ちなさいよ。アンタどこ行く気?」


 実際に私を呼び止めたのは四方田だった。

 普段の昼休みなら、私は殺人菌の保菌者という名の鬼をやっている。

 だが、今日の鬼は四方田だった。

 四方田は背後から爪が食い込むほど強く私の肩を掴み、私の逃亡を邪魔した。


「何だよ、痛ぇな。私に意味のない対抗意識を持つのはやめろ。迷惑なんだよ」

「アンタにどう思われようが構わないわ。アンタが厚木君に会いに行かなかったら厚木君の昼休みが無駄になるでしょう? 自分の都合だけで行動しないで」

「私にどう思われても構わないんなら、どうして代わりに行けって言おうとしただけであんなにキレるんだよ」

「ごちゃごちゃうるさい! いいから体育館裏まで行って厚木君を傷つけないよう断って、謝ってきなさいよ」

「いちいち指図すんな。テメェはいつから私のマニュアルになったんだよ!」

「いいから行け!」


 四方田は私の体を体育館の方へと向けてから、背中を押してきた。

 四方田一人なら、振り切って逃げることもできないことはないだろう。だが、私と四方田の周りには既に野次馬の輪が形成されている。

 それほどの人数を相手にして逃げ切る自信はない。

 捕まったら女子トイレに連れ込まれた今朝みたいな格好で体育館裏まで引きずられていくのだろう。それはかなりダサい。


「わかったから、押すな。一人で行く」


 四方田の手を振り払うと、野次馬が歓声を上げた。四方田は私を凄い顔で睨みつけている。一人で行くことができる空気ではないよなぁ。

「おい、やめろ、押すな! 畜生、後で朽ち木倒しをしてやるから覚えてろよ!」

 まるでモーセが海を割ったように野次馬が道を開けた。すると、つんのめりそうになっている黒井が輪の中へと押し出されてやって来た。


「アンタ何しに来たの?」


 四方田の声は刺々しかった。

 黒井は一瞬、たじろいだような顔をする。

 だがすぐに咳払いをして顔を引き締め、私と相対した。どうにも芝居臭い。


「麻里邑、俺はお前のことなんか何とも思ってないからな」

「あぁ、今朝の。私も馬鹿が誤解するような言い方をして悪かったよ。巻き込んだことについては謝る」


 淡々とした調子で言おうと思ったのだが、どこか拗ねたような感じになってしまった。

 格好がつかないなぁ。

 だけど私は気を取り直して黒井を睨みつけると、その左肩を殴った。野次馬が沸き立ち、歓声と非難の両方が飛んでくる。


「それはそれとして、テメェは私に謝りやがれ」


 黒井には殴られる覚えがないらしい。黒井は左肩に右手を当てて目を白黒させている。


「テメェ、二度と韮沢をいじめるな。頼まれてもやるな。テメェのやり方は見ていて本当に胸くそ悪い。今度やったら金的してやるからな」


 私が膝を上げてやると、黒井は後ずさりした。

 色々と腑に落ちないという顔をしていたが、警告はした。だからこれで構わない。

 野次馬がまた一際盛り上がった。いちいち火消ししなきゃいけないのかよ。面倒くさい。好きに喋らせろよ。


「麻里邑、お前やっぱり……」

「勘違いするな。弱いものいじめをしているのを見るのが嫌なだけだ。テメェ、柔道習ってるんならそっちに打ち込めよ。力の持って行きどころを間違えるんじゃねぇ」


 私が凄むと、黒井はハッとしたようになってきまりが悪そうな顔をした。

「そう、だな。お前に金的されたらたまらないからな」

「そうだ。私の辞書に容赦の二字はないからな」

 何が可笑しいのか黒井は吹き出すと、踵を返した。

「厚木に呼ばれてるんだろ? 時間取らせてすまなかったな」

 どうでもいいことを言って黒井は野次馬を掻き分けてその場を後にした。


「わかってるんなら来るんじゃねぇよ。他人に流されるだけの二流のくせに」


 四方田が、去って行く黒井の背中を見ながらそう呟いたのが聞こえた。

「四方田さぁ、そんなに厚木を大事に思ってるんならどうして私を行かせようとするんだ? 漁夫の利をかっさらえばいいじゃねぇか」

 四方田がもの凄い勢いでこちらを振り向いた。

 その顔は紅潮している。楽しそうな声で騒ぐ野次馬たちをきょろきょろと見る姿からは、あからさまな動揺が見て取れる。


「ちょっと!」


 逡巡した後、という様子で四方田は私の腕を掴むと凄い力で引っ張って女子トイレに連行した。

 厚木はまた待ちぼうけの時間が延びたな。


 四方田は私を一番奥の個室に放り込むと、四方田自身も入ってきて鍵をかけた。

 私は壁に押しつけられているせいで背中がひんやりとする。わずかに湿り気を帯びた冷たさだった。イメージとしては冷房の利いた室内ではなく、地下深くにある鍾乳洞のものだ。


 立ちふさがる四方田、左右と背後は壁。

 私に逃げ場はない。

 外からは四方田の取り巻きと野次馬が押し合っているのが聞こえる。


「衆人環視の前で何てことを言うのよ!」

「うるせぇ。私は体育館裏で厚木と会うことになってるのが知れ渡ってるんだ。テメェを気遣う余裕なんかねぇんだよ」

「アンタって本当に自分のことしか考えられないのね」

 喚き散らしたいのを堪えているのだろう。普通くらいの声量だが爆発した感情が抑えきれずに滲み出ている。


「悪かったな。こちとらテメェみたいな外道にかける思いやりは持ち合わせてないんだよ」

「外道って……アンタはどうしてそういうことばかり言うのよ」

「外道じゃないなら説明してみろよ。韮沢が私に抱いている感情を弄んで、私の歴史資料集に牛乳かけさせた理由を!」

 四方田は目を剥き、口を真一文字に引き結んで黙り込んだ。


「どうして知っているんだ、って顔だな。全部知ってるぞ。テメェらが韮沢のラブレターを取り上げて脅迫したことも、うすら寒い告白文を考えてやるなんて言って韮沢を釣ったこともだ」

 追い詰められて勢いを取り戻したのか、四方田は肩をわななかせながら突っかかってきた。

「だったら何? それの何がいけないの? アンタも韮沢も人殺しの屑でしょ? 屑は屑同士でくっついて地べたを這い回ってなさいよ。それがお似合いじゃない」


「開き直りやがったな。それにしても酷い言い草だ。好きな相手が自分に振り向かないからって、他人を貶めてどうなる? 

 無実の罪で責められて立場が弱くなっている私と韮沢をスケープゴートに仕立て上げる。それでお互いに傷口を舐め合うよう仕向けた。

 まぁ、韮沢は私のことを好きだと言ったが、あいつが私を何だと思っているか知っているか? あいつは私のことをヒーローだと言った。

 どうも大釜の事件の時からそう思ってたらしいが、テメェの作戦でその想いはますます募っていったんだろうな。良かったじゃないか。韮沢の方にはテメェの醜い心根そのものみたいな作戦が成功したみたいで。

 だがな、私にそんなのは効かない。何故なら私は強いからだ。ある人が私を強いと言ってくれた。だから私は弱いヤツと傷口を舐め合ったりしない。私はそいつを助ける。

 そして、力の持って行きどころを間違えているヤツに、テメェは間違っていると言ってやる。それが私だ。麻里邑茉梨花、十四歳だ」


「な、何よそれ。馬鹿じゃないの」

「馬鹿はテメェだ。いいか? もう一度言うぞ? 好きな相手が自分を見てくれないからって、他人を貶めてどうなる? それで仮に厚木がテメェを選んだとして、それでテメェは満足できるのか? テメェが私をぶっ叩いて否定した私の代替品になって満足できるのか? できないだろうなぁ、絶対に」

 最後の、絶対に、を特に強調してやった。すると四方田は私の両肩を激しく揺さぶり出した。


「じゃあ、じゃあ、どうしろって言うのよ! あんなに遠くへ行っちゃったマサ君に、どうやったら振り向いてもらえるって言うのよ! 

 マサ君にはクラスのリーダーになんてなってもらわなくて良かった。ずっと、ずっと私だけのマサ君でいてほしかったのに。少しでもマサ君に近づきたくて、また昔みたいに二人で遊んだりしたくて、マサ君に釣り合う自分になろうって、スクールカーストの上位へ昇ってきたのに。今更それを否定されたら、私、もう、どうすればいいのよ!」


 涙をぼろぼろと零しながら四方田はまくしたてた。厚木と四方田は幼馴染み。私はそのことをこの瞬間に知った。


「フッ……ふは、あはは、あははははははははっ!」


「何がおかしいのよ! 人が真剣になってる時に笑ってんじゃないわよ!」

「し、仕方ないだろう? これが笑わずにいられるかよ。やっぱりテメェは馬鹿だってわかったんだから」

「調子に乗ってると後が怖いわよ」

「テメェみたいな可愛いヤツに凄まれても全然怖くねぇっての。何がマサ君だよ。一瞬誰のことかわからなかったぞ。へぇ、昔は厚木のことをそんな風に呼んでたのか。厚木(あつぎ)正義(まさよし)だからマサ君ねぇ。ははは」

 四方田は泣きはらした顔で恨みをこめた視線を向けてくる。

 それはたいそう私の中の嗜虐性を刺激したが、これ以上やると昼休みが終わってしまう。仕方が無いから勘弁してやることにした。


「厚木は私よりも一枚上手だとは、話してて思ったよ。あいつを好きなやつもそこそこいるだろう。でもよ、厚木は遠くになんかいねぇよ。雲の上にいるわけでもないし、高嶺の花でもない。あいつはテメェや私と同じクラスにいる。普通に話せばいい。

 厚木、言ってたぞ。自分はただの空気が読める野球部員でしかないのに、周りがそれを勝手に担ぎ上げてリーダー扱いしてるだけだ、って。四方田、テメェに必要なのは権謀術数や明後日の方向を向いた上昇志向じゃない。厚木はきっとテメェの知ってるマサ君のまんまだ。四方田がするべきなのはそれを理解して厚木に接してやることだ」


 四方田はしゃくりあげながら、憑き物が落ちたような顔で私を見つめていた。が、やがて嗚咽を上げて私の胸に顔を埋めてきた。私は泣きじゃくる四方田の頭を撫でてやった。

「四方田、本当は私に言われるまでもなくわかってたんだろう? だから私に厚木に会いに行くよう言ったんだよな。

 自分のやってることが間違っているのはわかってて、でも自力で正せなかった。だけど、厚木と向かい合う時だけは綺麗な自分でいたかった。だから漁夫の利をかっさらうようなことはできない。そう思ったから、私が厚木と付き合うことになるかもしれないのに、行けって言ったんだよな?」


 四方田は私の胸に額を擦りつけて頷いた。私は胸元が少し熱かった。興奮で体温の上がっている四方田の息がかかってくるせいだ。涙はいいとして、鼻汁が染み込んでいたらどうしよう、と心配になってきた。


「えーと、四方田。私はそろそろ厚木に会いに行かないと。昼休み終わっちゃう。あとは自分の友達に慰めてもらえ」

 私は四方田をつとめて優しく自分の胸から引き剥がした。私の胸から糸を引く液体があった。

 ずばり言って、四方田の鼻汁だった。

 やっぱりか……トホホ。


 私は四方田にトイレットペーパーで鼻をかむよう言った。その間に自分も胸元を同じくトイレットペーパーで拭いた。使い終わったそれらを便器に流す。入ってきた時とは反対に私が四方田の手を引いてトイレを出た。


 トイレ前の野次馬は数が減っていた。平然としている私と、俯いてまだ泣いている四方田とを見比べて彼ら彼女らは憶測を囁き合っている。取り巻きたちは心配そうな顔で四方田を囲んで泣いている訳を訊いたり、私を睨みつけたりした。


「麻里邑。アンタ、蓬に何をしたの」

 取り巻きの一人が私を捕まえて食ってかかってきた。確か稲村(いなむら)呉美(くみ)だ。四方田と同じツインテールにしているのは、四方田への親愛の証のつもりだろうか?


「呉美、違うの。麻里邑さんは悪くないの」

「でも」


 稲村が四方田を省みる。四方田は泣きはらした顔を上げ、頭を左右に振った。

 稲村は最後に私を一瞥すると、興味を失ったというように私を解放した。

 私も四方田とその取り巻きや野次馬たちに背を向け、体育館裏へと歩き出した。


† † †


「鬼ごっこは楽しかった?」

「それより……いいのか、今ここで?」


 体育館は校舎の西に隣接して建っている。

 私の教室を出て西へ曲がり、突き当たりで左手側にある階段を使って二階へ下りる。そのまま正面に向かって歩いていくと左手側に扉が見えてくる。

 そこを開けると簀の子が一直線に伸びるよう設置されている。その上を通って行けば体育館だ。


 呼び出されたのは体育館裏なので体育館の入り口前まで簀の子の上を渡って行った。そこから右手へ折れて体育館の周りを歩いてみた。体育館外周の角を二回曲がる――つまり体育館入り口の向かい側に厚木がいた。なるほど、入り口の裏を体育館裏と考えるわけか。


 私が厚木に、今ここでいいのか、と訊いたのには理由がある。

 何人もの色恋沙汰の好きそうな少年少女がたむろし、こちらの様子を伺っている。野次馬は減ったのではなく、先にクライマックスの現場に移動していたのだ。


「俺は構わないよ。SHR前の教室、というのが嫌だっただけだから。それに比べれば、体育館裏は雰囲気があるから」

「だから、その雰囲気が野次馬のせいでぶち壊しでもいいのかよ」

「問題ない。居ないと思えば居ないのと同じだろう? 見られたところで何も困らないじゃないか」

 あぁ、わかった。厚木は野次馬たちを人間だと思っていないのだ。


 昔々の王様が、便器に座った状態で臣下の謁見えっけんに応じたことがあったという。

 それは王が相手を人間だと思っていないからだというのだ。

 普通は恥ずかしくて他人に見られたくない、排泄という行為を敢えて見せつけることで、王は己の偉大さを示し、相手を卑しい存在に貶めた。


 その説の真偽はともかくとして、厚木が泰然自若としているのはそういう理屈だと思う。

 口では何故かリーダー扱いされている、なんて言いながら腹の底では周りを見下している。

 私も少なからずそういうところはあるが、私のそれは幼稚さに呆れてるだけだ。人間と思っていないのとは違う。


「麻里邑さん、どうしても嫌かい?」

「別にどうでもいい。もう私の答えは決まっているからな」

「じゃあ、単刀直入に言うよ。俺は麻里邑さんのことが好きだ。付き合って欲しい」

「断る。テメェみたいなヤツは嫌いだ」


 野次馬たちのどよめきが聞こえる。厚木の外面が良いのは事実だからな。

 成績優秀で人望も才能もある。非の打ち所がない。

 だが、私はそのないはずの非を知ってしまったのだ。


「うーん、断られるかなぁ、とは思わないでもなかったけど、嫌われてるとは思わなかったな」

 困ったような笑みを浮かべ、厚木は丸刈りの後頭部を掻いた。

「麻里邑さん、ひょっとして誰かに遠慮しているんじゃないの? 例えばそうだなぁ……四方田とか」

「関係ねぇよ。もし仮に、誰かテメェのことを好きだって女子がいても、今の私は絶対に勧めない」

「親切なんだね。だって俺は麻里邑さん以外、眼中にないから。他の女子に言い寄られても邪魔でしかない。世界に可哀想な人は、一人でも少ない方が良い。そう考えているんだね? 嬉しいなぁ、麻里邑さんとの共通点が見つかって」


 どうしよう。

 四方田に厚木の理解者になってやれとか言ったけど、諦めるよう言うべきだったかな。

 言い訳にしかならないけど、ろくすっぽ話したことがない相手の本質なんか見抜けねぇよ。すまない、四方田。


「気持ち悪いこと言ってるんじゃねぇ。私はテメェみたいに小さな群れを率いて得意になってる猿山の大将気取りのヤツが大嫌いなんだ」

「あははっ、クラスを猿の小さな群れだなんて言っちゃダメだよ。そんなことを言ったら、麻里邑さんがお情けで生かされてる反乱分子のメス猿ってことになるじゃないか」

「そのお情けで生かされてる反乱分子のメス猿にどうしてボス猿が発情してんだよ! 示しが付かないことばっかしてたらボスの座から引きずり下ろされて、惨めな余生を過ごすことになるぞ」


「だって麻里邑さん、俺の作った流れに逆らうでしょ? それが面白いからだよ。俺は麻里邑さんのせいでスクールカーストの頂点から転落するのなら別に構わない。

 一人の魅力的な女によって破滅する麒麟児きりんじ! 格好いいじゃないか、ロマンがあるじゃないか! それに転落した先には麻里邑さんがいる。

 なら何も困らない。困るのは他の有象無象だよ。俺を追放したらあの烏合の衆は決してまとまらない。まとまったとしても俺の出す解答より遥かに劣った形になるだろうね。

 そのうちみんなの不満が爆発して、頂点に立つのは俺しかいないという絶対不変の事実に気付く。そうすれば、ほら。俺は復権する。不死鳥のように何度でも俺は蘇る。だから俺は、何をしても何を言っても許されるんだよ。

 そうだ、俺が一度落ちぶれてから復権したら、その時は麻里邑さんも一緒だよ? 君のために一度地の底まで落ちてあげようか? あ、あはは! あははは! あはははははははは!」


 私は長広舌ちょうこうぜつを振るう厚木に哀れみを感じていた。

 厚木は、どうしようもなく孤独なのだ。

 他人を人間だと思わないがゆえに寂しいのだ。自分の作った流れに乗る人間を駒としか見られないから。厚木の言っていた、棚ぼたの人望がもたらした仲間を仲間と思えない。



 厚木は、才能に食われている。



 だから自分の才覚の前にひれ伏さない私に魅力を感じたのだ。

 何だよ、こいつ韮沢と似たような動機で私を好きだと勘違いしているんじゃねぇか。


「厚木、テメェが私を好きだって思ったのは大釜の事件がキッカケだろう」

「そうだよ。俺が作ったクラスの総意「蛇を擁護して雛を見捨てる冷血漢の韮沢をいじめのターゲットにする」に君は乗らなかった。直接俺に楯突かなかったけど、韮沢の側に立った。結果、大釜は悲しいことになったけどね。でも俺にとっては最高だったよ。あの一件がなければ、君というダイヤの原石を見つけられなかったかもしれないんだから」


「あの時にもう韮沢をいじめることを考えていたのか」

「違うね。あの時に決めたのさ。そろそろ俺を慕ってくれる有象無象どもに、ストレス発散に使えるサンドバッグを用意してやらないといけない時期だと思っていたから。そこにちょうどいいカモが現れた。それが韮沢だったわけだよ。あれは実にいいカモだったよ。ネギは背負ってるし、鍋と火まで用意してくれるんだからなぁ」

「私が暴れたこと、大釜が死んだこと、私と韮沢が人殺し扱いされるようになったことか」


「そうだよ。最後に挙げてくれたものは俺が火に油を注いで大きくした感じだけどな。完璧な火加減だったのに、黒井や四方田が不必要に火力を上げたからちょっと冷や冷やしたよ。

 でも、何よりも残念なのは君が俺になびかなかったことだ。出しゃばってきた君を、韮沢と一緒にいじめるのは、名案だと思ったんだけどなぁ」


 衆人環視の中でよくそこまでゲスなことが言える。

 本当に何を言っても何をしてもいいと、確信しているのだろう。

 胸くそ悪ぃ。


「俺はマッチポンプで弱った君につけ込み、その心を手に入れるはずだったのに。何故だ、どうして俺に感謝しなかった。どうして俺を好きにならなかった。俺の威光いこうを笠に着るチャンスをどうしてふいにするんだ!」

 厚木は半ば私に噛みつくようにまくしたてた。

 己の才覚で思い通りにならないものを欲し、だが最終的にはそれをねじ伏せて支配したかったわけか。不可能を可能にするとか、何かを成し遂げる人間っていうのはそういうものなんだろうな。


 だけど私はもう負けられない。

 厚木、テメェがいくら噛みついても、牙が砕け散るだけだ。私はテメェに勝つ。テメェの作った流れは私が変えてみせる。


「テメェの威光が何だって? そんなもの、うちのクラスか野球部くらいでしか役に立たないだろ? 三年生がテメェにかしずくか? 大人がひれ伏すか? 国を動かすことができるか? 世界に影響を与えるか? 

 どれもできないだろうが。そんな何の役にも立たない威光は要らないんだよ。それができなきゃ威光なんかじゃない。厚木、テメェは間違っている。テメェなんかに頼らなくても私は強い。そう言ってくれた人がいる。だから私は自分の強さを信じて生きていく。全ての間違っているヤツにそれを自覚させ、全ての間違いを正しきるその日まで!」


 いくら何でもビッグマウス過ぎたなぁ。

 かなり興奮していることが自分でもわかる。だけど、それくらいの覚悟で挑まなければ負けてしまう。

 厚木は明確に強いのだ。私の強さでは足りない。それでも勝たなければならない。だからハッタリでも何でもやる。


「厚木、そういうわけだから私はテメェとは付き合わない。テメェはたくさん良いものを持っている。使い方を改めろ。それと、大切なものを見失っているんじゃないか? 早くそれに気付け」

 改めて私が厚木の告白を断ると、ちょうど良いタイミングでチャイムが鳴った。私の長い長い昼休みは終わった。

 これからは、掃除の時間。私も厚木も、野次馬たちも割り当てられた場所に向かわなければならない。


「じゃあな、厚木。私はもう掃除行くから」

「待ってくれ。最後に一つだけ訊かせてくれ。君のことを強いと言った人は誰なんだ」

「変なこと訊くなよ。そんなの、決まってるじゃねぇか」

 私は一旦そこで言葉を切り、深呼吸をしてから続きを言った。



「私の好きな人だ」





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