青山健太①
8月20日 月曜日
東の窓から差し込む太陽の暑さで青山健太は目を覚ました。
「やば、朝会!」
携帯を開いて時間を確認する。6:55と表示されていた。6:30から5分おきに3回アラームを設定していたのだが、無意識に止めていたのだろう。鳴った記憶が全くなかった。
健太は半ば転がり落ちるようにベッドから脱出すると急いで洗面所へと向かった。
身支度もそこそこに長袖のシャツにパンツを穿いて、ネクタイを手に家を飛び出した。
7:15。健太の車が国道へと滑り出した。
燦然と輝く太陽に目を細めながら、
「なんとか間に合いそ。」
ふーっと一つ大きく息を吐いてそう言った。
健太は美吉町役場に勤める公務員で民間の建材メーカーから転職して3年目になる。健太が住む神座市から役場までは車で40分ほどかかるため、今日のように始業前の朝会がある日はかなりつらい。
これまでの2年間美吉町に引っ越そうかと何回かは考えもしたのだが、デメリットの多さに踏ん切りがつかないでいる。
美吉町と神座市を結ぶ道路は2本、1本は今まさに健太が走っている国道で途中2つの町と1つの村を通り、長い美吉トンネルを抜け美吉町の西側に至るルートでほぼ南北に道路が通されている。もう一つは神座市からいったん東に走ってから峠を越えて美吉町の真ん中に出る県道。だが、この県道の峠区間はカーブの多さもさることながら道幅が狭く、2mほどしかない部分もあるため町外の人間がこのルートを通ることはない。
どちらにせよ、山が美吉町と外界を隔てているため、美吉で生まれ育った者の多くは神座を〟山向う〟と呼ぶ。
それに、余所者を区別するような風習が強く残る町で役場の職員も9割が町民のため、
健太も働き始めたころは苦労したものだ。
走り始めて30分、長い美吉トンネルを抜けると視界が一気に開く。ここが国道ルートからの美吉町への入口で、遠く隣県とを隔てる山々まで見渡せるポイント。わざわざ車を停めたことはないが、健太はこの景色が好きだった。
トンネルを出てしばらく走るとやがて東西に流れる美吉川に突き当たり、ここで国道も川に並行するルートをとる。美吉川は県内でも2番目に水量の多い川で上流にはいくつもダムがあり、美吉町にも汐野波ダムが作られている。
健太は国道の突き当たりにある交差点での信号待ちの間に助手席に置いておいたネクタイを結んだ。T字路の交差点には観光客向けにいくつもの看板がかかげられており、中には誰もが知っている地名や、寺の名前も見える。
ただ、その観光地のほとんどが役場よりさらに奥に位置しているため、健太はわざわざ行ったことはなく、役場の観光マップでだいたいの場所を知っているくらいのものだった。
職場の上司や先輩からは職員が「見たことない」では話にならないから休みの日にでも見学するよう言われているが、土日に1時間以上かけて見に行く気にはなれなかった。
川沿いをしばらく行くと左手に美吉町役場が見えてきた。国道から一本奥に入ったところに鉄筋コンクリート造の建物がある。敷地入口の植え込みの下の御影石には「美吉町役場」と彫ってある。築30年を超える3階建の建物は経年変化で外観は茶系ともグレー系とも言えないような色に変色してしまっている。
建物裏手には職員用の駐車場が用意されていて、手前から3番目に健太のお気に入りのスペースがあった。なんとか5分前に到着することが出来た。
庁舎裏手のガラス戸に手をかけたとき、背後から声をかけられた。
「青山さん。」
健太が振り返ると、日焼けした顔をにっこりほころばした宇多優貴人が駆け寄ってくる。
「おう、宇多。おはよう。」
優貴人は今年採用された唯一の職員で健太のたった一人の後輩である。父親も美吉町の職員だったため、庁内では父親の縁故採用との専らの噂だ。確かに過疎が進む美吉町に新規職員など必要なさそうだが、優貴人は雑用でも進んでやるし、仕事もそつなくこなす。配属は観光産業課のため課は違うのだが、その新人らしい新人の優貴人を健太は気に入っていた。
二人並んで階段を上がり、2階会議室のドアを開けると在室していた面々がそれまでの雑談を中断し、一斉にこちらに視線を投げてきた。
どうやら朝会参加メンバーはすでに全員席に着いているようだった。
「お、ぎりぎり来たな。じゃあ全員揃ったし、始めようか。」
この会のリーダーを任されている中川政和が場を仕切りホワイトボードにマーカーを走らせだした。
健太も出席する朝会とは4つの課の課長たちの提唱で各課の若手有志を集め、月一回第3月曜日の始業前8時から30分行うミーティングのことで、町の問題点の整理や、活性化のためのアイデアを課長級以上の幹部職員を交えず若い職員に忌憚なく発言・提言させることを目的として5年ほど前に設立された。
もともとは有志ではなく課長からの指名で主任の中川を始め、4課4人でスタートしたらしいが、いくつか画期的な施策を実行した後に参加者が増えたと聞いている。参加4課は町民課・企画政策課・観光産業課と税務課からで、出席者は10名。会議室に長机を四角く囲んでいる。
職員数の少ない美吉町役場の〟若手〟と言われる職員全員が集まっているように思える。
町民課に在籍する健太は入庁当時、課長から他部署との交流と民間での経験を活かしてはどうかと打診され参加することになった。
役場に入りたてで断れないことなど分かりきっていたのだが、健太は全く乗り気がしなかった。ミーティングは前の会社でも毎週のように行われていた。しかし、このミーティングに生産性があると思ったことは一度もなかった。議題は始まるまでわからない、いつ終わるのかも上司の気分次第。
最初は朝会も似たようなものだろうと溜息をついたのを覚えている。
会議には二つの鉄則がある。一つは議題はあらかじめ決めておき、参加者全員が答えを持って公平な討論の場にする。そうしないと発言力の弱いものが上位者の意見を迎合するからだ。もう一つは時間を決めておくこと。これで中身が濃くなり会議が意味のあるものになる。
朝会に参加して驚いたのが、この二つの鉄則が為されていたことだ。健太は昔から朝が弱いのでそれだけが辛いのだが、〟始業前〟ということで時間は30分間に限られている。
議題は毎月3週目に翌月のメインテーマとサブテーマ、各人の役割を記したメールを参加者に送っているのだ。この作業は中川が買って出ている。送られてくるメールのおかげで責任が明確になり、無駄な時間を省いている。また、誰かの提案に緊急性があれば議題を変えるという柔軟性を併せ持っているのも朝会のすごいところだ。
前の会社のミーティングはいきなり出された議題に意見を求められたり、いつ終わるか分からないことに苦痛しか感じなかったのがウソのように健太は今楽しくてしょうがなかった。
皆の賛同が得られればメインテーマを自分の意見にすることが出来るし、その内容が煮詰まれば企画として通せるのだから。
今月のメインテーマは〟廃校になった学校を有効利用できないか〟。
少子高齢化に過疎化が重なり10年前までは町内に8つの小学校と2つの中学校があったのが、現在は小学校が2校に中学校が1校に減ってしまっている。
この日は8月3回目の朝会なのだが先週はこれといったアイデアが出なかった。
「校舎を使うって、公民館みたいな使い方ですかね。校庭だったら町外まで募集エリアを広げたスポーツ施設とか。んー、整備費がかかりそうだなぁ。」
優貴人の発言に頷くものも多い。
「しかも、交通の便の悪い山間の地区ばかりだしね。」
優貴人の言葉を補足するように税務課の松阪早智子が口を開いた。
廃校になった学校は全て過疎化の著しい奥美吉の集落にあり、それらの学校へは役場から車で30分以上かかるところもある。
いくつかの案が出た後、それまで書記役をしていた中川が方向性を示すように意見を言った。
「町の財政を考えると、かなりの費用が伴うものでは議会に諮れないと思う。ただ、ベースになるのは今日の意見の中にあるだろうから各自来週までに骨子と具体案を考えるということで。いいかな?」
会議室の掛け時計は8:27を指している。
中川がまとめの言葉を発したのを機に一人、二人と席を立ちだす。真剣な議論の場が終わった解放感からか、あちらこちらで片付けをしながら雑談が始まっている。
健太も優貴人に目配せされ立ち上がろうとした。そのとき、
「あの、ちょっといいですか?」
おそるおそるという感じで口を開いたのは久井歩美。優貴人の直接の先輩だ。
「ん?」
ホワイトボードに書かれた字を消していた中川が振り返り声の主に目をやった。
「久井?どうした?」
健太も立ち上がったまま久井のほうへ顔を向ける。
「町内で行方不明になってる人がいるって話、聞いたことあります?」
え?久井の言葉に会議室が一瞬で静まり返る。誰かが息を呑むのがわかった。
久井は周りに目を配りながら続けた。
「言おうかどうか迷ってたんです。この会ですべき話じゃないとも思いました。でも、何か出来ないかって思って。」
久井は思いつめたような表情でそれだけ言うと視線を落とした。
今度は皆の視線が中川に集まった。この会の仕切りは彼なのだ。中川も急に深刻な話を振られ困惑の顔になったが、
「わかった。ちょっと考えさせてくれ。とりあえずみんな業務に就こう。もう半を回ってる。」
中川に促され健太は皆と同様退室した。1階の役場玄関の正面に町民課はある。多くの役所がそうであるように住民の利用頻度が高い部署が一番わかりやすい場所にある。美吉町もそうだ。
健太は自分の席に腰を下ろしパソコンを立ち上げ仕事を始めたが、久井の言葉が頭から離れなかった。
「町内に行方不明者がいる」
少し現実離れしている。何百万人と人が住む都会でならともかく、こんな田舎町で。少なくとも健太の人生においてはまったく関係のないような出来事だ。背もたれに寄りかかり腕を組んで考えてみる。
なぜ久井はそのことを知っているのか。
そもそも警察の仕事ではないのか。
たかが10人程度の集まりで何か出来るのか。
色んな考えが頭に浮かんだが、今この段階ではどうにも出来ないことはよくわかっている。
昼休み、多くの職員は休憩で離席するが健太は当番で席に残っていた。町民課には他には1人しかいない。向かいの席でモニターを見つめている葛城さくらに意を決して健太は尋ねた。
「なぁ、今朝の久井さんの話って知ってた?」
ふいに声をかけられ驚いたのか、さくらの肩が震えたように見えた。左耳にかけた髪が滑り落ちる。ややあってから顔を上げモニター越しに健太を見たが、その顔には一瞬ではあるが明らかに狼狽の表情が浮かんだ。
すぐにいつもの顔になったが、それと同時に視線をモニターに戻し、
「知らないです。」
と言った。
その言葉に健太も
「そっか。」
とだけ答えた。
町民課は再び沈黙に覆われた。隣の税務課はもとより一人しか残っておらず、キーボードを叩く音しか聞こえてこない。古民家の掛け時計みたいだ、と健太は思った。
健太は雰囲気に耐え兼ね、立ち上がった。普段、役場の月曜日は一週間で最も来庁者が多いのだが、この日に限ってフロアは閑散としているばかりか電話も鳴らない。特に用事があるわけではなく、庁舎裏手で一服しようと歩き出したときだった。今度はさくらから健太に話しかけてきた。
「青山さん、お昼どうするんですか?」
「外に食べに行こうと思ってるけど。」
独り暮らしの健太は弁当など持っていない。役場内には食堂もないから昼食を持参していない職員は出前か外食になる。忙しくて満足に休憩時間が確保出来ない日以外、健太は外食が圧倒的に多い。
さくらは少し考える仕草を見せたあと、
「わたしも行っていいですか?」
と、予想外のことを言った。