物語を紡ごう。
10年前の話をしよう。共に過ごした最後の夏の話を。2007年夏、僕たちはあの季節の中にいた。山と川しかない、美しい自然に囲まれた町で起こった出来事を今こそ思い出そうと思う。止まってしまった時間を再び刻むために。最後まで聞いても決して悲しんだり、哀れんだりはしないで欲しい。なぜなら僕たちは、あの夏を全力で駆け抜けたのだから。きらきら きらきらと。
1、彼
彼女が玄関の向こうに消えるまで見届けるのが彼の日課だ。特別な用事がない限り彼はほぼ毎日彼女を家に送り届けている。今の彼女にだけでなく、前の彼女もそのまた前の彼女にも彼はそうしてきた。
「また明日ね。」
彼女が帰宅し、ポーチ灯が消された玄関を見つめながら彼は呟いた。
車内の時計に目をやる。23:30。普段よりかなり遅い時間だ。今日は彼女が近隣の街まで友達とご飯を食べに行っていたから会えた時間がそもそも遅かった。
彼はドリンクホルダーに突っ込んであった携帯を取り出しフリップを開け、彼女のアドレスを呼び出した。メール作成画面へと移り、文章を打ち込んだ。
『今日は遅くなったね。いつもみたいにゆっくり話が出来なかったのが少し残念。』
いつもは彼女の家から少し離れたところに車を停め、30分くらい話をしてから帰ることにしている。家族や近所に迷惑をかけないようにライトを消しエンジンも切る。夏とはいえ、この辺りは夜になれば窓さえ開けておけば心地いい風が車内を抜けていく。
〝家族や近所に迷惑をかけない〟という事に関して彼はいつも細心の注意を払っていた。
20時にもなれば車通りもほとんど無くなるのだがなにせ田舎のことだ。誰かに見られようものならすぐに噂になる。彼は職場で聞きたくもない噂話を幾度となく聞かされていた。娯楽のない田舎町では致し方のないことだろうと気にしないことにしているのだが、噂話の対象者が自分となれば話は別だ。得てしてこういう話はすぐに尾ひれがついて当の本人が驚く話に変わっているものだ。
そういった経験が彼をより慎重にさせていた。何よりそれが彼女のためでもある。ある事ない事を近所で囁かれたら彼女も暮らしにくいだろう。だから彼は駐車する位置を毎日変えているのだ。今日のように遅い日は街灯がほとんどないこの地区の夜道は危険だから。と彼女の家の近くまで来るのだが、早い時間に送れる日は少し離れたところに駐車している。もっとも、彼女が無事自宅に帰るのを見届けるため彼女の住まいが見える場所ではあるのだけど。
彼が苦笑いをし、ゆっくりとアクセルを踏みだしたとき彼女の部屋の明かりが灯り窓辺に立つ彼女のシルエットが浮かんだ。
レースの向こうの影に彼は手を振り、
「おやすみ。」
そう言って深夜の道を走り出した。
一人の女性と長く付き合ったことがない彼は、
「今度こそ上手くやる」
と、心に誓って。