47 Gを体感せよ
――人型ミノコ。
こいつが二本の足で立ち上がると、拓斗とほぼ同じ背丈があった。
一〇センチ、いや、五センチでいい。分けてほしい。
なんて羨望の目を向けてしまう高い身長以上にインパクトがあるのは、圧倒的な存在感を誇る胸部装甲だろう。
マリーさんの店にもサイズの合う女性服が無かったため、今は男物の白シャツを重ね着し、下はデニムのような紺色のズボンを穿いている。
「しぼってきた」
そんなミノコが口をほとんど動かさず、ぽそぽそと気だるげに一言発した。
この形態になったミノコが人語を喋れることに不思議はない。
なんでかって? だってミノコですもん。理由はそれで十分だ。今までのことを振り返れば、こんなの驚くようなことじゃない。
ミノコの手には、白濁液がたっぷり注がれたガラスのジョッキが握られている。遅い朝食を済ませた後、母屋でセルフ乳しぼりをしてもらってきたのだ。
「ご苦労様、ミノコちゃん。まずは第一関門突破ということね」
ミノコからグラスを受け取ったスミレナさんが、オレに目配せをした。
サキュバスのオレが生きていくためには、男のアレを食らうか、もしくは牛乳を飲まなくてはならない。前者は死んでも御免だ。
そして、この世界に牛はミノコしかいない。
人型になったミノコから、果たして乳をしぼることができるのか。
これが全ての大前提となる問題だったわけだけど、なんとかクリア。
「ミルク、まだ出そうか?」
オレが質問すると、ミノコは自分の胸を下から持ち上げ、たっぷたっぷ、と掌の上で二、三度跳ねさせた。手の中に到底収まらないそれを遊ばせる仕草は、まるでバスケットボールをハンドリングしているかのようだ。
「リーチちゃん、アナタ今、幻肢勃――」
「してませんから」
この人は隙あらば……。
でも、変に興奮していないのは本当だ。
爆乳が躍る光景を見ても「ああ、重そうだな」と、感動するよりも先に共感してしまった。そのことに、軽くショックを受けている。
ただ、それを抜きにしても、オレはミノコにあまり女性を感じていない。
そう思うのはオレだけだろう。例えるなら、血の繋がった家族に対する気持ちに近い。近いというか、まさにそれなんじゃないかな。巨乳大スキーな拓斗なんかは完全に目を奪われているし、エリムもモジモジしながら視線をさまよわせている。
ややあって、ミノコがぽつりと答えた。
「あと三杯くらい」
ジョッキ一杯が五〇〇ミリリットルだとすると、合計四杯で約二リットル。
牛乳パック二本分だ。
これを一日三食、毎食後に行うとしても、前と比べたら激減している。
そもそも食う量が違う。十人前の朝食を軽くたいらげていたとはいえ、それでも牛だった頃の半分以下でミノコは腹を満たしてしまったのだ。
オレが生きていく分には十分だけど、お店で扱うのは……。
そんな考えが顔にも出ていたのか、スミレナさんが「こら」と優しく窘めた。
「余計なことは気にしなくていいの。リーチちゃんが生きていける分を確保できるのなら、それ以外は問題でもなんでもないんだから」
「……ありがとうございます」
男前すぎるスミレナさんの言葉に、思わず感涙しそうになる。
感謝と一緒に、ぐっと涙を飲み込み、オレはもう一つの問題を提示する。
「あとは、しぼったそのミルクが牛乳と同じ物なのか……ですね」
これについて、ミノコは「わからない」と答えた。
実際に飲んでみるしかない。
「このままで飲む? それともエリムに調理してもらう?」
「あー、どうしよう。んー、できればスミレナさんが先に飲んでくれませんか?」
「構わないけど。間接キス狙いかしら?」
「はは」
乾いた笑いが出てしまった。
一番の理由は不安だからなんだけど、それとは別に、人型のミノコからしぼったミルクを飲むこと自体が恥ずかしいというか、背徳的すぎるというか、ちょっぴり抵抗がある。その点、スミレナさんは喜んで飲んでくれそうだ。
「じゃあ、一口いただくわ」
ある意味、デッド・オア・アライブの瞬間だ。
あのミルクで栄養をとれなければ、オレの人生は詰みに等しい。
「牛乳じゃなくなってたら……終わりかな」
香りから確かめているスミレナさんを見守りつつ、世を儚むようにして零すと、
「諦めないでください!」
強く、強くエリムが言った。
「生きることを諦めないでください」
「オレだって諦めたくないけど、食える物がないんじゃ、どうしようも……」
全身に力を込めたエリムが尋常じゃないくらい赤面している。そこまで怒らせてしまうようなことを言っただろうか。
なんて考えは、見当違いもいいとこだった。
「僕が、いるじゃないですか」
「僕がって……え?」
「リーチさんが、男性と、そういうことをするのを死ぬほど拒んでいるのは知っています。ですが、それでも僕は、リーチさんに生きてほしいです!」
「や、おま、何言ってるのか、わかってるのか?」
牛乳がなくても自分がいる。自分が、サキュバスであるオレの糧になる。
そう言っているようにしか聞こえないけど、本当に……そのつもりで?
「冗談でこんなことは言えません。リーチさんのお腹次第ですが、時間はもう少しだけあると思います。その間に考えてください。僕は、いつでも大丈夫ですから」
「エリム……」
「あ、これ牛乳だわ」
張り詰めた雰囲気の中、口元についた白いミルクをぺろっと舐め取ったスミレナさんが、そう結論づけた。
オレとエリムの間に、なんとも言えない空気が流れていく。
「うふふ、なーに? エリムったら、ここぞとばかりに攻めていたわね。がっかりした? ねえ、がっかりした? どんな気持ち? ねえ、今どんな気持ち?」
もうやめたげてください。エリムのライフはゼロよ。
スミレナさんにいじり倒され、エリムはツノを突かれたカタツムリみたいにバーカウンターの陰に隠れてしまった。
ともあれ、これで一安心か。
でも、もし牛乳じゃなくなっていたら、オレはどうしていただろう。
――男とそんなことをするくらいなら死んだ方がマシだ!
サキュバスに転生させられる時、オレはそう迷いなく即答していたのに。
「リーチちゃん、よかったわね」
「……はい。これからは、ミノコに自分でしぼってもらうことになりますね」
乳しぼりはオレだけができる仕事だった。それがなくなるのは少し寂しいけど、人型ミノコの乳をしぼるなんて無理ゲーすぎる。いくらミノコが血の繋がった身内同然だとはいえ、普通、姉や妹の乳を揉んだりはしない。義姉やら義妹ならまだし――ああいや、なんでもない。義姉でスミレナさんの顔も浮かんでいない。
などと思考が脇に逸れそうになっていると、
「断る」
ミノコがぼそりと言った。
聞き違えたかと思い、きょとんとしていると、ミノコが少しだけ声量を上げた。
「断ると言った」
「な、なんで?」
「こそばゆかった。もうやりたくない」
「こそば……て、そんな理由!? 牛乳が飲めなくなると、本気で困るんだけど!?」
詰め寄ると、ミノコがふるふると首を横に振った。
「自分ではしぼりたくない。だからこれまでどおり、お前がしぼれ」
オレを指差し、命令口調で端的に告げた。
唖然としていると、スミレナさんが何に納得したのか、「なるほど」と呟いた。
「乳しぼりにかけては、リーチちゃんの右に出る者はいないわ。これまでだって、ミノコちゃんはリーチちゃん以外の人にしぼられるのを嫌がっていた節があるし」
「だからって……」
「何か問題あるの? 前とやることに変わりはないじゃない」
「問題あるでしょ! ダメでしょ! 前と今とじゃ全然違うじゃないですか!」
「違うって、おっぱいの形が?」
「それもありますけど!」
「おっぱいの形が違うくらいでうろたえないの。女性のおっぱいはね、人それぞれ形が違って当たり前なの。アタシとリーチちゃんを比べてみて。本当に同じ女なのかと疑わしくなるくらい違うでしょ? むしろ男子寄りだと思わない?」
「それにオレはどう答えりゃいいんですか!?」
「たとえ同じ人であっても、おっぱいの形は不変ではないわ。大人になるにつれて大きくなっていくこともあれば、痩せたらおっぱいから萎んでいくタイプもある。リーチちゃんはまだ十代だし、将来的には、ギガンテス級からヘカトンケイル級になるのも夢じゃないわね。楽しみだわ」
全然楽しみじゃない。これ以上重くなるとか考えたくもない。
「結局、何が言いたいんですか?」
「つまり、いろんな形のおっぱいに対応できる術を身につけてこそ、真の乳しぼりマスター。もしくは、おっぱいマイスターと呼べるようになるのよ」
「呼ばれたくないんですけど!? 特に後者! というか、人にしぼられる方が絶対こそばゆいですってば!」
「それこそ人それぞれだと思うけど」
「譲れません! 人にしぼられる方がこそばゆいです!」
「じゃあ、試してみましょう」
ぱん、と手を打ったスミレナさんが、にこやかにそんなことを言った。
「試すって?」
「揉み比べてみるのよ。自分でするのと人にされるの、どちらがこそばゆいか」
揉み比べ……だと?
「比べてみて、自分で揉む方がこそばゆくないってこの場で言えるなら、アタシが代わりにしぼってあげるわ。ミノコちゃんがOKしてくれるならだけど」
スミレナさんが確認すると、少しだけ考えたミノコが頷き、これを了承した。
「というわけで、早速揉ませてもらおうかしら」
「いえ、それには及びません。スミレナさんが毎日揉んでくるんで、人に揉まれた時のこそばゆさは知り尽くしています」
「あら残念。じゃあ、自分で揉んだことは?」
「着替えや風呂で触れることならありますけど、意識して揉んだことはないです」
「変わってるわね。本当に前世で男の子だったの?」
「なっ!? そうは言いますけど、自分の胸なんて触ったって、いいことなんか!」
「はいはい、そういうのはいいから」
くっ、本当なのに。
「とりあえず、アタシがいいと言うまで、この場で自分の胸を揉んでみなさい」
「オレの主観でいいんですよね? オレがこそばゆくないって言っても、他の人はそうじゃないから、やっぱりナシにとか言いませんよね?」
「言わないわ」
「……わかりました。やります」
「あ、待って。服の上からじゃダメよ。乳しぼりを想定しているんだから」
「直接揉めってことですか?」
「ええ。というわけで、ブラジャーを外してくれる? 預かっておくわ」
メイド服はワンピースになっているので、脇のところから手を差し込み、背中にあるホックを外す。もう完璧に慣れちゃったな……。
そうして、するりと抜き出したブラジャーをスミレナさんに手渡す。
「あら、温かいわ」
「顔に当てないでください。匂いもかがないでください! スカートのポケットにしまおうとしないでください!」
「うふ。つい」
つい、と言いつつ、オレのブラジャーはポケットにしまわれてしまった。
よほど自信があるのか、スミレナさんはにこにこと笑顔を崩さない。
その余裕、すぐに消してあげますよ。
豪快に右手を胸元に突っ込み、左の乳房を鷲掴みにした。
いやはや、自分の胸ながら、くっそ柔らかいな。
もみ。
もみもみ。
もみもみもみ。
……ん、これは意外と。自分で揉んでも、それなりにくすぐったいんだな。
だけど、スミレナさんに揉まれている時ほどじゃない。
勝った。
勝利を確信し、静寂の中、二十秒ほど揉み続けたところで一旦手を止めた。
「ほらね? 自分で揉んだ方がこそばゆくないんですよ」
「ダメダメ。リーチちゃん、そんな揉み方じゃ、いつまで続けても意味がないわ」
「というと?」
「リーチちゃんが一番よく知っているはずよ。思い出して。いつもミノコちゃんのミルクをしぼる時、どういう揉み方をしていたのか。そんな風に、乳房をむにむにするだけではないはずよね?」
確かにスミレナさんの言うとおりだ。こんなやり方では、ミルクは一滴もしぼり出せないだろう。
オレは手順を一つずつ確認しながら、自分の胸で乳しぼりを再現していった。
まず、親指と人差し指で乳頭の付け根を押さえ、乳が逆流しないように――
「――ひゃうっ!?」
きゅっ、と乳首をつねるようにして締めた瞬間、背筋に電流が走った。
体が勝手にくの字に折れ、腰が抜けそうになる。
「利一!?」「リーチさん!?」
拓斗とエリムが駆け寄ろうとしてくれたが、スミレナさんがそれを許さない。
「手を貸しちゃダメよ。まだ終わっていないわ」
……も、問題無い。こんなの、ちょっと驚いただけさ。
「ふふ、少しずつ開発していた成果が出たようね」
「今、なんて言いました?」
「何も言っていないわ。さ、続けて」
咄嗟に手を離してしまったので、また最初からだ。
ああもう、恥ずかしい。うっかり変な声が出ちゃったじゃないか。
けど、あの感覚……触手にヘソを責められた時と、ちょっと似ていた気が……。
できる限り刺激を与えないように、そ~っと、親指と人差し指で輪っかを作り、乳首を掴んだ。
「う」
マジかよ。こんなにも慎重に触ってるのに、まるで体中の神経がそこに集中しているかのように、乳首に感じる刺激が事細かに脳へと送られてくる。
「あらあら、リーチちゃん、顔が赤いわよ? そんなに気持ちいい?」
「き、気持ちいい?」
「おっと間違えたわ。そんなにこそばゆい?」
「べ、別に、このくらい、なんてことないです」
そうとも。こんなところで躓いてなんかいられない。
乳しぼりなら、本番はここからだ。
中指、薬指、小指と、上から順番に指を閉じていくん……だけど……。
「どうしたの? 手が動いていないわよ?」
「わ、わかってます。すぐに……」
ほんの一滴、白い絵の具に別の色を垂らしたような違和感。
たったの一滴。されど一滴。混ざった色は、もう二度と完全な白には戻らない。
思い浮かべてしまったそれは、もう二度と頭の中から消えはしない。
これって、もしかして。
想像してしまった途端、今自分が行っていることが、とんでもない行為なのではないかと思えてきた。痺れるような感覚を知ってしまった。
スミレナさんの言葉を認めるわけじゃないが、決して不快なものではなかった。
「リーチちゃん、ギブアップ?」
「ま、まだです!」
声を張ることで気合いを入れ、その勢いで中指を閉じた。
「~~ッ!!」
また、あの電流がきた。
がくがくと膝が震え、バランスを取り続けることもままならなくなる。
歯を食いしばり、先の衝撃が収まらないうちに薬指を閉じた。
「~~~~ッッ!!」
徐々に乳首をしぼっていく感触。しぼられていく感覚。オレから乳なんて出ないと理解しながら、どちらも自分一人の手で行うという行為の意味。
「リーチちゃん、どうしたの? 息が荒いわよ?」
「な、なんでもありません!」
「そう? だけど、なんだかとっても恥ずかしそうだわ」
「――――ッ!?」
「おかしいわねえ。乳しぼりは、世の中のお母さんたちもやっている行為なのよ? 赤ん坊を育む神聖な行為なのよ? 恥ずかしいなんてことはありえないはずなのに。まさかリーチちゃん、何か別のことを考えているのかしら?」
「そそ、そんなわけ、な、ないじゃ、ないですか」
まさか、バレてる?
「そうよねー。そんなわけないわよねー。リーチちゃんは、自慰――」
「――――ッ!?」
「――じゃなくて、じぃっと見つめられているからといって、体が熱くなってくるとか、そんなことあるわけないわよねー」
「あ、あはは。ない……ですよ」
見られている。
スミレナさんに、ミノコに、カリィさんに、拓斗に、エリムに。
ごくりと息を呑む音がした。それが自分からしたのか、他の誰かからしたのか、判別できないくらい頭がぐるぐるとテンパっている。
他人の視線にさらされながら、オレはがむしゃらに最後の一本、小指を閉じた。
「~~~~~~~~ッッッ!!」
人間の胸に、牛の長さほどの乳首はついていない。ついていたら怖い。
なのに、牛の乳しぼりをするつもりで小指を閉じてしまった。
当然、そこにはもう、握れる乳首なんて存在しない。その代わり、乳首の先端を小指の腹で擦るように刺激してしまった。
まさに異次元の感覚だった。
腰が砕け、オレはその場にぺたんと座り込んでしまう。
これがワンストローク。いや、実際はここからさらに、引っ張り出すようにしてミルクをしぼり出す。それを連続して何度も何度も行う。
シミュレーションだけで身震いした。無理だ。できない。
オレがそれをした場合、そんなのはもう……乳しぼりとは別物になる。
……くそっ。
「どうも様子がおかしいわね」
全てを見通すかのように、高みからスミレナさんの声が降ってきた。
「確認するわ。リーチちゃんがそうなっている原因は、こそばゆかったからなの? それとも、ま・さ・か――」
「こそばゆかったからです! 死ぬほどこそばゆかったからです!」
「やっぱり? うんうん、自分で揉むのはこそばゆいわよね。わかるわー」
唇を噛みしめてギブアップを宣言すると、リング上の選手にセコンドがタオルを投げ入れるようにして、ふぁさ、とブラジャーが頭に落とされた。
修正しました(3/22 午前6時)