42 死ぬくらいなら……
~前回のあらすじ~
エリムが触手に後ろからブスリとやられました。
パシャ、と。
川に小石を投げ入れたみたいに呆気なく、遠くでエリムが海に落ちた。
「た、助け……ないと」
そう思っているのに、手を前に伸ばすのに、足が命令を無視して動かない。
この期に及んでもまだ、こんなのは悪い夢だと思い込もうとしている。
目を背けてしまいたい。目を瞑ってしまいたい。――無理だ。足下に点々と飛び散っているエリムの赤い血が現実に引き戻し、そんな逃げを許さない。
早く、早く早く飛び込まないと。泳いで助けに行かないと。
エリムが、今この瞬間にも海の底へと沈んで行ってしまう。
「リーチ様、後ろを!」
太ももに爪を立てて震える足を黙らせていると、パストさんが逼迫した声を張り上げた。落ちていた視界の中に、先端を尖らせた触手のシルエットが蠢いている。
振り返り、そして悟った。
あ……死ぬ。
槍のような触手が鞭のようにしなり、既に喉元まで迫っていた。
間に合わない。一呼吸もしないうちに、触手はオレの喉を貫くだろう。
確実な死を予感したことで研ぎ澄まされた神経が、刹那をゆっくり、はっきりと知覚させた。一度の瞬きですら数秒に感じる。
閉じた目蓋の奥で思う。
オレがドジを踏んだせいで、エリムが……。
身を挺して助けてくれたのに、逃げるチャンスさえみすみす手放してしまった。
死への恐怖よりも、申し訳なさが先立った。
「ごめん」
今際の言葉が謝罪。
情けない。結局、生まれ変わっても、オレはまるで成長していない。
悔しさも加わった感情が渦巻く中、皮膚を突き破り、肉を抉ってくるおぞましい感触を覚悟した。そうして、今生の見納めとなる光景を、絶命するその時まで焼きつけるべく目を開けた。
しかし。
だけど、しかし。
焼きつけることはできなかった。
鋭敏になった感覚でさえ、この瞬間に起こったことを目で追い切れなかった。
それでも、かろうじて断片的に捉えたものがある。
「――させねェよ」
止めていた。
船から跳躍してきたのか、拓斗がビーチフラッグもかくやの飛びつきで、オレを貫かんとしていた触手を、間一髪、危機一髪、紙一重のところで捕えていた。
オレが見えたのはここまでだ。
ここからのことは、本当に何が起こったのかわからない。
「【跳梁跋扈】!!」
一時も目を離してはいなかった。それなのに、オレは拓斗の姿を見失った。
その場には、ひらり、と拓斗が穿いていた海パンだけが舞っていた。
いつの間にやったのか、触手は捩じ切られていた。
ズドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド!!
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド!!
一直線――ではなく、二直線に、エリムが落ちた地点に向かって水柱が立った。
まるで、何かが海面に着弾したかのように。
または、何かが海面を走った軌跡のように。
「――カハッ! ゼハッ! ハァッ!」
ぱさり、と海パンが落ちたのと同時に、背後から荒い息遣いが聞こえた。
「え、拓斗? え!?」
どうやって回り込んだ? いや、回り込むどころの話じゃない。
一体どんな魔法を使ったのか、髪の毛までズブ濡れになった全裸の拓斗が、海に沈んだはずのエリムを脇に抱えていた。
精も根も尽き果てたように、拓斗ががくりと崩れそうになった。
「拓斗、お前……」
「利一!」
一瞬、失態を怒鳴られたのだと思い、オレはビクリと体を強張らせた。
そうではなく、拓斗がオレにエリムを押しつけてきた。
「わ、と」
「まだ息がある! お前に任せる! お前しかいねェ!」
拓斗が慌てる理由の一つは、もちろんエリムが瀕死の状態にあるからだ。
そしてもう一つ。拓斗が引きつけてくれていた触腕が、全てを薙ぎ払おうとするかのように、こちらに照準を合わせて振り被っていた。
「急げ! パストさんと、早くここから脱出しろ!」
「で、でも、拓斗が」
一人なら、問題無く抱えて飛べる。二人は、短い距離なら多分なんとか。
でも、三人は無理だ。特に、拓斗を抱えて飛ぶなんて……。
「俺のことはいい! さっさと行けえッ!!」
エリムをオレに託した拓斗はもう、触腕だけを見据えてこちらを一瞥もしない。
凄まじい負荷のかかる技を使ったんだろう。立っているのもやっとの状態だ。
それなのに、オレたちを逃がそうとしてくれている。
そんな拓斗に言われた。
お前に任せると。お前しかいないと。
周囲に触手は無い。オレは拓斗の背を見つめたまま翼を展開させた。
謝罪も、反省も、そんなものは全部後だ。
「パストさん、オレに掴まってください!」
「は、はい、失礼します!」
翼の動きを妨げないよう、パストさんは腰にしがみついた。
エリムを正面から抱きかかえ、オレは垂直に飛び上がる。
「んぎ……ッ」
重い。翼を一回動かすごとに、肩から背中にかけて広がる毛細血管がブチブチと切れていく。この感じ、ノーブラで走った時と似ているなと思った。
上へ――。上へ――。とにかく攻撃の射程外へ。
無我夢中で十メートルほどの高さまで避難したところで、
轟ォォォウッ!!
と。すぐ真下を、新幹線でも通過したかのような振動と風切り音が上ってきた。
前世で自分が死んだ時のことを思い出し、ゾッとする。
恐る恐る下を向くと、そこには誰の姿もなかった。車のワイパーが水滴を切ったみたいに、マザークラーゲンの触腕は、傘の上にあった異物を排除していた。
「拓……斗……」
そんな。
ついさっきまで勝ちムードだったのに。
マザークラーゲンの周囲には、聖神隊の人たちがぷかぷかと浮かんでいる。
パストさんの魔法がかかっているとは言え、マザークラーゲンが暴れたら。
それに拓斗は……。
死んでいない。あいつが死ぬはずないけど、もし気を失っていたら。
だけど、エリムは今にも死にそうになっている。町までは絶対にもたない。
岸に戻って、そこでどうすればいい?
応急処置の仕方だって満足に知らないオレに何ができる?
ピークに達した焦りは絶望と変わらず、ガチガチと歯が鳴り出した。
そうだ。岸に向かうよりも、船にいるカリィさんに助けを求めた方がいい。
カリィさんは騎士だ。手当ての仕方だって心得ているはず。
応急処置でどうにかなるとは……思えないけど。
「リーチ様、ご覧ください!」
パストさんが指差したのは、船とマザークラーゲンの中間辺り。
なだらかだったはずの海面が、ぽっかりとヘコんでいた。
「な、なんだ、あれ」
そのヘコみはみるみる大きく、深くなっていく。
巨大な渦潮――とは違う。
まるで海の底が抜けたかのように、周囲一帯が大穴へと流れ込んでいく。
「カ、カリィさん!!」
反射的に船に降りようとしたが、首部で揺れと戦っているカリィさんが、浜辺に向けて何度も手を振った。――「来るな」と。
やがて、大穴の直径は五十メートルほどにも達した。たゆたうクラーゲンばかりじゃない。蟻地獄を思わせる凄まじい光景に、例外は無かった。
聖神隊の人たちを。カリィさんと、その船を。
そして、マザークラーゲンさえも穴の中へ引きずり込んでいく。
降りても何もできない。
奥歯が欠けそうになるくらい強く噛みしめ、オレはエリムとパストさんを連れて岸へ飛んだ。千切れそうなほど翼を酷使しているはずなのに、無力感がでかすぎて痛みを感じる余裕なんて無い。
「これは、何が起こっているのでしょうか」
「……ミノコです」
パストさんの呟きに、オレは確信を持って答えた。
あれはミノコが、海水ごと全てを飲み込んでいるんだ。
「ミノコ氏の怒りを買ったということですか? あれでは他の者たちまで」
「いえ、違うと思います」
ミノコは海水を口にするのを嫌がっていた。
目的がマザークラーゲンを倒すことなら、こんな手段に出るとは思えない。
オレはミノコに絶対の信頼を寄せている。
拓斗や、カリィさんや、聖神隊の人たちを悪いようにはしないはずだ。
「ぐ、がふっ!」
「エリム!?」
オレの肩にアゴを乗せていたエリムがまた血を吐いた。
即死を免れたのだとしても、この致命傷では訪れる死に変わりはない。
どうすればいい。どうすればいいんだ。
刻一刻と、腕に抱いているエリムが死に近づいている。
何も手立てが思い浮かばないまま、岸に辿り着いた。
「……一つだけ、方法があります」
着地姿勢に入ったところで、不意に、パストさんがそんなことを言った。
なんの方法かを、この場で、このタイミングでわざわざ尋ねる必要は無い。
エリムを助ける手段がある。それ以外にあろうか。
「教えてください!」
浜辺に降り立つと、傷口が砂に触れないよう、オレの体にもたれかからせるようにしてエリムを座らせた。触手に貫かれ、穴の開いた胸と背中を手で押さえるが、ドクドクと溢れ続ける血を止めることはできない。
「パストさん、早く! お願いします!」
何を悩むことがあるのか、表情を暗くしたパストさんが重々しく口を開いた。
「絶対に助かるという確証はありません。それに助かったとしても、エリム君の、これからの生き方を大きく変えることになってしまいます」
「それは、後遺症が残るとか、そういうことですか?」
だとしても、死ぬくらいなら……。
これに対して、パストさんは首を横に振り、そしてこう言った。
「霊酒を使います」
【跳梁跋扈】
全裸&勃起で最大強化(レベル30)になった時だけ使える拓斗の特技。
効果は意識の神速化と、それに耐えうる肉体強化。使用時間は数十秒。
解除後は、極度の疲労と五日間のEDペナルティーが課されてしまう。
>凄まじい負荷のかかる技を使ったんだろう。立っているのもやっとの状態だ。
アソコはもう勃ってないだろ(笑)
とツッコんでやってくださると幸いです。
第43話は3月1日(水) 12時頃更新予定でよろしくお願いします。