バレンタイン・デー・ミッション
中学二年生、高梨 詩凪はバレンタインデーを一週間前に控えたある日、四年間の付き合いを経てついに恋人関係になって半年の彼、牛輪 篤生に言われた。
「俺、バレンタインデーにチョコいらないから」
なんと言ったのだこいつは。
そう問いただすことが出来ず詩凪は、怒りで震える体をなんとか制し、一言だけ叫んだ。
「あんたなんかにあげるチョコレートなんて…ないわよ、バァカッ!」
溜めてから放った言葉をバネに、詩凪はその場から駆け出した。
本当は、付き合い始めてから初めて訪れるバレンタインデーに、どんなチョコレートを作ろうか、あげようかと楽しみに悩んでいたことを隠しながら。
「あのバカ。絶っっ対にチョコなんてあげないんだから」
ドン。と力任せに紙コップを置くと、中の氷たっぷりのオレンジジュースが音をたてて揺れた。
ここは詩凪行きつけのファストフードショップ。座りなれた窓際のカウンター式の椅子に、親友二人と三人並んでいる。
左に座る親友のリヨが、自慢のストレートをくるくる弄びながら、詩凪に言う。
「あんた、あんなに楽しみにしてたのに?今さら?ってか、買ったもんどうすんのよ」
「そだよ、そだよ、詩凪ちゃん。せっかく用意したんだし、作ろうよ。牛輪くんだって、貰って嬉しくないわけないと思うよ」
すると、右隣に座っていた親友、カノコもぶんぶん頷きながら言葉を添えた。
リヨとカノコに言われ、僅かに冷静さを取り戻した詩凪だったが、不貞腐れ気味の表情はまだとれない。チューチューと音をたてまくりながらストローを吸う姿は、機嫌の悪い子供そのものだった。
リヨは髪を弄ぶのをやめ、溜め息をついて自分もブラックコーヒーに手を伸ばした。
「だいたい詩凪、牛輪くんが恋人間行事に不慣れっていうか、疎いっていうの、知ってて付き合ったんじゃなかったわけ?」
「それはさぁ、確かにさぁ、そうなんだけどさぁ」
今度はブクブクと泡音をたてる詩凪。泡のように消えてくれないモヤモヤした気持ちを胸に、煮えきれない返事をリヨにした。
それを見て、クスクスと静かに笑うカノコ。大人しめで、幼さが強いカノコのその笑いは、悪意が見えず、逆にこういう雰囲気を和らげてくれる。
「カノコ、笑いすぎだよ」
そう言ってグリグリとカノコの肩に額を擦り当てる詩凪は、普段と変わらない調子になっていた。
まだ楽しそうに微笑むカノコが謝りながら指を数えた。
「生チョコ、ショコラ、ホワイトチョコ。形はハート、キャラもの、シンプルタイプ。ラッピングはどんなのが良いか。楽しそうに考えてたもんね」
「…………うん」
肩に額を当てたまま、詩凪は小さく答えた。
その様子を、頬杖をついたリヨが眺めながらもう一度、溜め息をついた。
「だったらあんた、やっぱりチョコ、作んな。んで、渡した方がいいわ、絶対」
「でも…いらないって」
「ってかさ、関係なくない?そんなの。あげたいから、あげる。それでいいじゃん」
「いい、かな?でも、あげないって言っちゃった」
「それこそ関係ないよ、詩凪ちゃんっ。本当にあげたくないの?」
「…………あげ、たい」
だって楽しみにしてたんだもん。か細い声で詩凪は呟いた。
親友二人は、詩凪越しに笑いあった。
「なら、決まりだね、詩凪ちゃん。作ろうっ」
カノコが詩凪の肩を掴み、視線を合わせて言った。
親友の言葉を噛み締めながら、瞳に強い意志を取り戻した詩凪は、小さく首を縦に振った。
「うん。作る。あっと言わせてやる」
それからいつも通り、とりとめのない話をしたあと、ふと、リヨが思い出したように尋ねた。
「でも、大抵の男はバレンタインデーに彼女からチョコ貰って嬉しくないわけないと思うんだけど…根本的に甘いもんが嫌いとか?」
「ん?デート中にクレープ、パフェ、ケーキなんかのスイーツバイキングにはよく行ったよ」
「うげ、甘党じゃん」
「甘いのが苦手って線は消えちゃったか」
詩凪の返答に、露骨に顔をしかめたリヨを余所に、カノコが冷静に言った。
詩凪自身も、思い当たる節はなかった。少なくとも、好みは把握しているつもりだった。
「んじゃ、なんだ…はっ」
衝撃の事実にたどり着いたように、口元を覆い、目をかっ開くリヨ。急な親友の態度に、訝かしむように二人は注目した。
「何々、どうしたの?」
「なんかわかったの?リヨちゃん」
二人の問いに、何故だか気まずそうに視線を宙に浮かすリヨ。ますます不審そうに詰め寄ると、リヨはあくまでも想像ね、と口を開いた。
「別の女が、いる…とか」
いや、ほら、その相手がどうしてもバレンタインデーに会いたいからとかワガママ言ったのかも、とか、そんなはずないって、牛輪くんに限って、とか二人が何か喋ってくれていたが、そんな二人を何処か遠くに感じながら詩凪は呆然と口からオレンジジュースを溢した。
ようやく出た言葉は。
「あいつ。絶対にバレンタインデーにチョコを渡してやるんだからっっ」
怒りか憎しみか、はたまた純粋すぎる愛情の高まりか。一時的に虚無を写した瞳は、一気に燃え上がる力を見せた。
親友の二人は、手を合わせて、うん、そうだね、それがいいよ、と同意するのが精一杯だった。
バレンタインデーまで、あと六日。
放課後を告げるベルの音を合図に、三人は詩凪の家に集まった。位置的にここが一番ちょうどいいのだ。
今回集まった目的は大きく二つある。
一つは、詩凪の部屋の唯一のテーブルに広げられた、色とりどり様々な形をした「チョコレート特集」と書き込まれた雑誌。これを参考に、どう作るか、どう飾り付けるか、を話し合うのだ。
正直、詩凪の好みとしてはホワイトチョコベースのシンプルハートがいいと考えている。星形が好きだが、今回は見送った方がいい気もした。
しかし。しかし、だ。
相手の好みを考えるなら形はともかく、甘さを強調させるチョコ・イン・チョコの、ショコラベースが捨てがたかった。
「どっちがいいと思う?」
特集ページから目を離さず、二人に問いかける。二人もそれぞれの雑誌のページに目を落としていた。
そして、差し出された煎餅をかじりながら、ぽつり。
「好きなんで、いいんじゃない」
興味浅そうにリヨは言った。
「そんなんじゃ集まった意味ないじゃかぁっ、考えてよ。ねぇ、カノコ」
「う、うん。そうだね。でも、リヨちゃんの言うことももっともだと思うよ。詩凪ちゃんが作りたいのが、きっと一番だとも思うから」
詩凪に同意の助け船を求められて、慰めながらもリヨの意見も受け入れた。
なるほどね、と詩凪も納得したように引き下がった。
「それにさ、作る時間はあるし、幸いにもあんた、お菓子作りは得意だしね。なんでもいけるっしょ?」
「まぁ、ねぇ。それなりに自信はありますよぉ、はい」
照れたように頷く詩凪。
「それなら直前まで悩んで、悩み抜いたものが一番ってことでいいんじゃない?」
「そうかも。時間もあるし、まだ考えよう、詩凪ちゃん」
「おし、だね。そうする。…じゃぁ」
と一度雑誌を閉じて二人を見渡す。
二人も顔を見合わせながら、視線を合わせた。
今回集まった目的、その二つ目。何故、彼こと牛輪篤生は、「チョコレートをいらないって言ったのか」だ。
甘いものが好きな彼のことを含め、まさか彼女にたいしてそんな言葉を言うなんて、といまだに怒りは解けない。
その上、リヨによる疑惑、「他の女」容疑がかかったため、炎は勢いを衰えさせることはなかった。むしろ、当日、是が非でも会って渡してやる、とさえ思っていた。
しかし、本当に何故、彼は断ったのか。真意が知りたかった。
「聞けばいいじゃん。そうすれば話が早い」
「リヨちゃん。それはそう簡単にはいかないから、難しいんだよ」
「だよねぇ、カノコ。それがわかんないからリヨにはいまだに彼氏が出来ないんだよ…って、ごめん。そんな顔しないでよ、悪かった」
カノコの影に隠れるように謝る詩凪。何気ない軽口から、リヨの地雷に触れたようだ。壁役のカノコは苦笑する。
鋭い目付きのリヨに、カノコが言う。
「でも、本当に、そう出来たら、簡単なのにねぇ」
普段、調停役のカノコのしんみりとした口調に、何となく二人は黙りこんだ。
微妙な空気の中、気まずそうに最初に口を開いたのは、リヨだった。
「まぁ、私もさ、それなりに調べてみるよ。もちろん直じゃなくて、男子に聞いてみたり」
「…………うん、ありがとね」
「私も様子を見てみるね。同じクラスなの、私だけだし。女子からも何か聞けるかもしれないし」
「うううう…ありがとぉ、二人ともぉ」
がばぁ、と詩凪は二人まとめて抱きしめた。しかめっ面ながらもされるがままのリヨも、よしよしと頭を撫で返してくれるカノコも、詩凪は大好きだと思った。
バレンタインデーまで、あと五日。
二日後、三人は詩凪の教室に集まって放課後会議を開いた。カノコの委員会仕事の都合と、現時点での調査発表だ。
「あいつ…牛輪は、本っっ当に、女受けしないやつだな。いわゆる、お友達以上はあり得ないタイプだ。…あんた、よく付き合ってるね」
「喧嘩うってんの?真実はオブラート方式で伝えてよ」
カノコでさえ、あはは、と渇いた声を出すのが精一杯だった。
調べてみた、聞いてみたところによると、つまりは男子受けがいい男子であり、そのぶん女子から距離を置くような人物なのだ。
素っ気ない。というか、愛想がないというか。
とにかく、嫌われているわけでもないが、別段好かれているわけでもないのだ。
なんと言うか、自分の彼氏に対する世間の評価の微妙さに詩凪は眉間を寄せた。
「あいつ、かっこいいわけじゃないけどさ、いいやつだよ」
強くない声は、自分でも迷っているのだろう。二人は、静かに受け止めた。
「とにかく。女の線は薄いな。学校外って言われると辛いが…この評判だしなぁ」
「リヨちゃんっ」
「…あっ、悪い」
リヨの謝罪に詩凪はううんと首を振った。
「しょうがないよ。昔っから無愛想だったし」
同意するように呟いた。
そう、昔からだ。昔から篤生は無愛想だったんだ。
人付き合いが苦手で、四年前、転校して初めて会ったときなどどこの親分猫だと思っていた。目付きは刺々しく、誰とも仲良くなる気配がなかったからだ。
よくもまぁ、付き合い始めたものだ。思い出を回想するように目を閉じて、記憶を確かめるように机に突っ伏した。
初めて会ったのは四年生の頃、牛輪篤生が高梨詩凪のいる小学校に転校してきたのがきっかけだった。
たまたま同じ学校、同じ教室、隣の席だった彼は、自然と詩凪と話すことが多くなった。
無愛想はこの頃からだったが、不慣れなところを教えてもらったことを嬉しく思ったのか、気がつく頃には妙に詩凪になついていた。
負けん気の強かった詩凪が、無愛想な上にぶっきらぼうな態度の篤生に、我慢強く接したからかもしれない。
だんだんと軽口が増え、喧嘩らしい喧嘩をするようになってから、互いに意識し始めた、はずだった。
少なくとも、詩凪はそう思ってる。
そして、時は満ちたと言うか、なんと言うか、紆余曲折を経て詩凪の方から告白したのだ。そのとき、彼はなんと言ったか。
「俺も」
その瞬間、嬉しかったと言うよりも、彼のはにかむような照れたような顔を見て、卑怯だ、と思ってしまったのは秘密だ。
まさか、あの無愛想がそんな顔を見せるとは、と驚愕したからだ。
そして、そんな顔を知っている自分を、そんな顔にさせられる自分を、誇らしく思ったのだ。
それから半年。
デートを重ね、それなりにイベントをこなし、幼いながらと愛し恋してる日々を過ごしてきたと実感していたと言うのに。
「悪いやつじゃ、ないんだよ。ちゃんと律儀にクリスマスプレゼントくれたし、無愛想だけど。新年も一番始めに連絡くれたし、無愛想だけど」
「ぷはー、想像できるは」
「うん、うん」
気がつけば三人とも笑っていた。
「で、どうすんのよ」
一頻り話が済んで、もうカノコが行く時間になった。リヨが、現段階での決意を促す。
詩凪は、ここ最近なかった落ち着いた顔つきで、
「うん。作る。私のとっておきを」
そう言った。
バレンタインデーまで、あと三日。
ラッピングを選びに来た今日は、リヨと二人だった。カノコは委員会の引き継ぎに時間がかかるということで諦めたからだ。
いくつかの店を巡り、目安をつけて買い物を済ませた。
「リヨにはドリンクタイプを用意してあげるからね」
「お、サンキュー。めっちゃ楽しみ」
バレンタインデーまで、あと二日。
「ところで詩凪ちゃん」
「何?カノコ」
昼の休み時間。詩凪の教室に来てくれたカノコはおそるおそる尋ねてきた。
「あのあとさ、牛輪くんとちゃんと話した」
「ぶっ」
カノコの予想しなかった質問に、詩凪は吹いた。口になにも含んでいなかったのは幸いだった。
「い…いや、話して…ない、なぁ」
視線を漂わせ、しどろもどろに答える詩凪に、やはりか、とカノコは肩を落とした。
「実は今日…」
言いづらそうにカノコが午前中のことを語った。
「牛輪くん、けっこう落ち込んでたみたいだよ。私に声かけるくらいだもん」
「うぅ……でも、なんで」
言いかけて詩凪はやめる。カノコは、何となくだが、その続きを察した。
なんで「詩凪じゃなくて、カノコに聞いたのか」だろう、と。
それこそ理由は容易に想像できるのだ。おそらく、彼女と仲のいい友人がたまたま同じクラスで、なんとなく彼女と気まずいからだ、と。
しかし、想像ができるのと、その気持ちを納得出きるかは全然違うのだ。何故、そこで自分のところに直接来ないのか。不満にも、不安にもなる。
例えそれが、自分のことを棚にあげたことだとしてもだ。
「難しいよね、他人と付き合うって。好きな人なのに、全部がわかるわけじゃない。知ること自体も、怖いしね」
言い淀み、黙りこむ詩凪にどう思ったのか、そう言葉をかけるカノコ。ハッとなって詩凪が顔をあげると、台詞とは裏腹にいつもの優しいカノコの表情だった。
詩凪は、なんだか力が抜けた気がした。
「そ、だね。けど、私たちはちょっと違うかな」
「そう?」
「うん。何て言うか、お互いに意地の張り合いみたいになってるって言うか…なんか、わりと最初っからそんなだった気がする」
「…そっか」
カノコは目を細めて応えた。きっと詩凪も同じような顔をしたに違いない。
「だからね、チョコレートはいいきっかけになると思うんだ」
バレンタインデーまで、あと──。
当日は、いや、学校というものは、バレンタインデーにとってなんと邪魔者が多いのだろう。去年までは考えもしなかったことに、詩凪は朝から腹をたてていた。
まずは移動教室だ。朝一から、自分の教室から物理室にまで行かなくてはならない。しかも学年末のテストが終了したと言うのに、だ。
こうなっては他の休憩時間に行くしかない。
そして、偶然にも向こうがトイレ等に行ってのすれ違いが続く。
まぁ、いいさ。昼の休み時間がある。そう踏んでいると、なんと自分が入っていた委員会の引き継ぎができていない場所がある、と教師から指摘され、それをこなす間に無情にも時間は過ぎていった。
ついに迎えてしまった放課後。
慌てたように走ってきたカノコから、
「あ、あのね、詩凪ちゃんっ。なんか、今日は、うちの、ホームルーム、早く済んじゃってっ」
と切れと切れに事情を聞いた。最後の方、帰っちゃった、牛輪くんと言ったカノコの声は消え入りそうだった。
「そっか…ありがとう。教えてくれて。でも、しょうがないよ」
詩凪は、困ったように笑った。
「もともとさ、あいつ、いらないって言ってたし。私もあげないって言っちゃってたしさ」
「詩凪ちゃん」
「あーあ。運命ってやつかなぁ」
後ろ手に腕を組み、困ったように笑ったまま────。
────その瞳から、一滴の光を落とした。
今日じゃなきゃ意味がないのに。もう、追いかける気が起きなかった。
怖かった。受け取ってもらえない可能性が。
嫌だった。このチョコレートに込めた想いまで、否定されそうなのが。
何も言わずに今日という日に帰る、ということは、そういうことなのだ。
「ううんと、また、今度。仲直りのきっかけは探すね。別にバレンタインじゃなくたっていいわけだしさ」
少しだけ鼻声になっていた。
どうしてだろう。自分を見ているカノコの方が苦しそうだ。僅かに震えている。
「ごめ…ごめん、ね。私が引き留めておけば…」
「いいって、カノコ。大丈夫、これは二人の問題だからさ」
突き放すような言葉であるため、カノコたちには控えていた言葉を使う。今にも泣き出すんじゃないかというカノコを、詩凪は抱き締める。
カノコは体を縮ませるように固まったままだ。
大丈夫だよ。
もう一度、そう言おうと思って口を開きかけたとき、思いがけず声が聞こえた。
「ちょっ、詩凪、あんた、なにしてんの?牛輪、帰ってんじゃん。まだ渡してないんでしょっ。急…」
「んー。もぉ、いいんだ、リヨ。なんか、いいんだ」
カノコをあやすように背中を撫でる詩凪は、悟ったようにリヨに顔を向けた。
穏やかな口調に、一瞬だけリヨは口をつぐんだが、しかし。
「はぁ?あんたこそ、なに言ってんの。まだ、間に合うだろっ!明日になったら、間に合わないんだよ」
廊下中に響き渡る声で、詩凪たちを震えさせた。
どうやら、怒っているらしい。二人は抱き締めあう腕の力を強めてリヨを見た。リヨはずんずんと近づいてくる。
「ほら、あんた。携帯だして。牛輪のやつ、引き留めるからっ」
「いや、あのね、だから」
「つべこべ言うなっ。ほら、カノコも。なんか浸ってないで、このバカの席から鞄…は、あとでいいか。とにかく、チョコ。チョコを持ってきてっ」
てきぱきと指示をとばす。二人はその場で右往左往する状態だ。
「早くっ」
「はいっ!!」
「わかった」
カノコは走りだし、詩凪は携帯を差し出した。手慣れたように、アドレスから篤生のダイヤルを操作する。
その間に、一言。
「いい。カノコがチョコを持ってきたら、走りな。私が学校に戻るように伝えるから」
返事は待たなかってもらえなかった。どうやら繋がったらしい。視線を外し、あんた、今どこにいんの、とせき立てるように告げている。
息が止まりそうだった。
呼吸は逆に激しい。
「はいっ!詩凪ちゃん」
「うん」
カノコが持ってきてくれたチョコをバトンのように受け取って、詩凪は走り出した。
廊下を駆ける。
どんどん駆ける。
途中、他の生徒にぶつかりかけた。後ろの方で、教師の声が響いた。だがしかし。今は、今、このときだけは違う世界のような気がした。
走り出した親友を見つめ、カノコがリヨに寄りかかりながら言う。
「リヨちゃん、ごめん。あたしじゃ、背中、押せなかった」
「そんなことないよ。あんたはあんたなりに頑張った。ただね、意地を張ってる連中を相手にするには、経験よりも勢いが大事だったってだけのこと」
今度はリヨに頭を撫でられながら、その言葉にカノコは微笑んだ。
「そうだね。リヨちゃん。私もそう思う」
リヨは満足そうに、口の端を持ち上げた。
二月だと言うのに、距離はそんなに走ってないというのに、自分の体とは思えないほど熱かった。
熱を帯びていくこの体なら、なんでもできる気がした。
玄関を飛び出し、校門を勢いのまま駆け抜ける。もう、他の音は消えたように心臓の音だけが聞こえる。
そして、その時はきた。
息を切らせながら走ってくる、篤生がいたのだ。
「あっ」
お互いに気がつき、足は止まった。息が荒れる。詩凪は空気を取り入れた。
冷たい空気が、体に染み渡る。それでも熱は冷めない。
「あ、」
「いや、なんか、お前の友だちに呼び戻された。早く来いって」
「…ごめん。ちょっと、用事があって」
遮られ、告げられた台詞に、自然と言葉が出てきた。飾ることも、偽ることもない言葉。
「あんたに…チョコ、渡そうと思って」
そう言えたとき、満足できた。今までもやがかっていた気分が、晴れ渡るようだった。
「うん、そうだ。私は、あんたにチョコを渡したかったんだ。ごめん。あげないなんて言って。あれ、嘘だから…」
なんだか目の前が滲んでる気さえする。泣く理由はなくなったはずなのに。
「いらないって言われて、悲しかったのは…本当。怒ってそれを誤魔化したのも、本当。んでさ」
相手に何も言わせないように、ひたすら言葉を紡ぐ。
「これをさ、受け取ってもらえなかったらさ、私…泣くかも。これ、本と」
最後は声になってなかった気がするが、詩凪は言いたいことを言いきった。
熱が、一気に下がるのを感じた。
「あー、あのさ」
視線を落とし、歯切れの悪そうに篤生は近づいた。
「俺、確かにいらないって言ったけどな…」
バッと詩凪は両肩を掴まれた。反射的に篤生の顔を見ると、しっかりと詩凪の顔を見ていた。
心持ち、赤みを帯ながら。
「もらって嬉しくねぇ…わけ、ねぇだろが、馬鹿」
手のひらから服越しに、篤生の体温が伝わるようだった。詩凪はまた、熱くなってきた。
何より頭がうまく働かない。
「けど、いらないって」
「あれは…ほら」
「何」
とにかく、篤生に問い返すことだけはできた。篤生は考え込むように俯いた。しかし直ぐに持ち上げた。
「あれはだから。一方的にもらうんじゃなくて、お互いに何かしようって意味だったんだよ」
「…………え?どゆこと?」
首を傾げる詩凪に、ばつが悪そうに篤生は続ける。
「だからさ、チョコをもらうんじゃなくて…いや、貰うにしても、一緒に選んだりとか、作ったりとか、食べに行ったりとか…そういうのがしたいって思ってたんだよ。一緒に、楽しめるような日にしたいって、考えてたんだよ」
だから当日までは用意しなくていいって意味で言ったんだよ、と小さく付け足した。
「何それ。意味わかんない。言ってよ、それなら」
「だってお前。あのとき、捨て台詞残して帰ったから。しかもそのあと、口も聞いてくれなかったし」
思いあたる節があり、詩凪は何も言えなくなった。それを見越したように、篤生が言う。
「正直、今日、最悪な一日になると思ってた。結局、仲直りはできねぇし、なんの約束もできなかったし」
ガックリ。そう聞こえそうなほど肩を落とした。急な落胆ぶりに、えっ、えっ、と詩凪は戸惑ったが、篤生がニヤリと顔を歪めさせたので気がついた。
詩凪の反応を楽しんでいるのだ。
「けど、今、この瞬間。俺、すっげぇ幸せになれた」
しかし、聞こえる声は優しかった。
「ありがとな」
「…………うん」
だからだろう。詩凪も素直に頷けた。
「はい、これ。あんたの好きな味を私の好きな形にしてみた」
「マジで、見ていい?」
「ここで?…まぁ、いっか」
寒空の下、包装を丁寧に剥がした篤生は、まるで宝物を手にいれたかのように瞳を輝かせた。
両手で掲げるように持ちあげた。
「やめてよ、恥ずかしいじゃん」
「星だ。すげぇ」
「…たく。そうだよ、星よ星。お星さま。スター性って言うの?そういうのを込め」
「ありがとな。本っ当に、嬉しい。理想とはちょっと違うけど」
「悪かったわね」
「だけど、やっぱり俺、詩凪が好きだ。詩凪がしてくれることなら、なんだって嬉しいんだ」
「…………バァカ。当然よ、バァカ」
無邪気に喜ぶ篤生に、今の顔を見せたくなかった詩凪は、地面を見た。
まったく、この男は。詩凪は呆れたように思った。
普段は無愛想なのに、私のことで、この程度のことで、なんと幸せそうな顔をするのだろう、と。
そして、自分も単純だと思った。
そんな幸せそうな篤生の顔を見て、蕩けてしまいそうな幸せに包まれてしまったのだから。
「じゃね、また明日。私、今度は友チョコ配らなきゃだから」
「おう、また明日な」
嬉しそうな篤生の元気な声に見送られ、詩凪は学校に戻った。
どうやら教室から覗く知った顔が、心配そうにこちらを伺っている。
詩凪は、チョコを渡すと同時に、大事な親友が、いかに大事かを伝えようかと考えた。