若き魔術師の惑い
―…チィーテ、チィーテク、
風に乗って届く聞いたことのない鳥の声のような物に、ふと顔を上げて空を仰ぐ。
美しい澄み通る空が限りを知らぬように頭上を覆い、柔らかく風が吹き過ぎて行く。
以前の僕なら一も二もなく家を飛び出して馴染みの丘の上に駆け上がって麗らかな日差しに微睡んだだろう。
そんな風に思うと、懐かしい想いが堪え切れない郷愁へと変わり、胸を締め付けた。
「情けない」
ぽつりと呟くと、涙が零れた。
ああ、本当に情けない。
僕は慌てて袖で顔を拭って涙を無かった事にすると、再びあてども無く歩き出した。
もうすぐ試練の旅の規定の三年が過ぎる。
このまま兆しが訪れなければ、僕は魔術師になれないのだ。
家族の、故郷のみんなの期待が、師匠の信頼が、耐え難い重石となって僕の背を曲げさせる。
失敗したら誰にも顔向けが出来ない。
いっそ旅の途上で死出の迎えが訪れて道を違えて死者の列へと身を置いたという方がいくらかマシだろう。
僕はきっと逃げ出すのだ。
失敗したと告げる事が恐ろしくて、帰る事が出来ない。
僕はほんの幼い頃、そう、まだ髪結の儀式も済まない頃に魔術師の片鱗を現した。
妖精の声を聞き、無邪気にその言葉を大人に伝えたのだ。
それからは大騒ぎだ。
魔術師が住まう地は豊かであると言われている。
貧しい故郷の村は期待に胸を踊らせ、なけなしのお金をかき集めて僕を高名な魔術師の弟子に放り込む事に成功した。
魔術師の弟子と言えば、そのほとんどは血統確かな子供達ばかり、僕は思いっきり浮いていたが、幸い、彼らからすれば僕は虐めるには幼すぎる相手だった。そしてあまりにも人見知りをしなさすぎた。
僕が世の中の身分という物を理解する頃には、彼らは消極的ながらも僕を受け入れてくれていたのである。
師匠が誰に対しても等しく厳しかったのも良かったのかもしれない。
お互いに愚痴を言い合ったり、ちょっとした手助けをし合ったりしていれば、子供にとっての身分など、仲間意識の妨げになる事はないのだから。
だが、彼らとて、僕が逃げ出したと知ったなら決して許さないだろう。
身分が高いからこそ、自らの義務を果たすという事に妥協のない兄弟弟子達だった。
途中で才能が無いとして親元に戻された者達の羨望で焼けつくような眼差しを忘れる事は出来ない。
―…ティーヤ、チィヤ、
「あ、また」
美しい声だった。
僕は、これはもしかしたら僕の兆しかもしれないと、僅かな期待を抱いた。
今までの魔術師達に訪れた兆しは様々だ。
夜に焚き火の前で微睡んでいると狼が横に座って語らって来たとか、枯れ果てた大地でただ一本立つ樹に突然水を生み出せと命ぜられたとか、人それぞれ全く違う兆しが訪れるという。
それによって新しい目が開き、世界の真の姿が見えるようになる。
それが兆しという物だ。
ほとんどの諦めの中に僅かな希望を胸に丘を下った僕は、がっくりと肩を落とす事となった。
そこにいたのは幻想の鳥などではなく、人間の少女だったのだ。
彼女の纏う肩布の色合いは僕の知る部族の物ではなかったが、彼女は地に足を付けて、両の手を広げて一心に歌っているようだった。
「ア、イヤラリチィ、ティーリ、リリ、ティーリ、ヤヤ、ニィーレイス、イーヤ、ナ」
それにしてもなんという声だろう。
先ほど鳥の声と間違ったのも仕方がないような、人の出し得るとはとうてい思えないような声だ。
どうやらかなりの古謡らしくいくつかの古語しか聞き取れない。
豊かな何かの訪れを望むという内容のようなので、恐らくは種育ての歌なのだろう。
という事は彼女は既に部族の歌い手なのだ。
豊かな黒髪に沢山の髪飾りを付け、色鮮やかな手織りの長衣、色合いからして豊穣の歌い手という所だろうか?
年頃は僕と同じぐらいに見える。
才能に溢れ、若さに輝いている彼女は、世界の愛を一身に受ける存在ゆえの堂々とした姿で歌いきり、ふと、僕に気付いた。
「あ、」
拙い、と思った。
部族の若い娘、しかも歌い手である。
彼女を驚かせたという理由だけで処刑されてもおかしくはないのだ。
そもそもこんな所に一人でいて良いはずもない相手だ。
万が一僕が拐かしたとでも思われたら大変な事になる。
「こんにちは」
しかし、彼女は僕のそんな懸念など全く気付く事なく朗らかに挨拶をして来た。
だが、その屈託の無さは今の僕にとって凶器も同然だった。
なんという酷い娘だろう。
挫折に苦しむ僕の前に成功に輝く姿を見せ付けるとは。
一瞬、僕は彼女を踏みにじる自分を幻視する。
幸せそうな顔が悲痛に歪むのを見るのはさぞかし心をすっとさせるだろうと。
「くっ、なんて事だ」
僕は負け犬どころか人間のクズに成り下がったらしい。
他人を貶めて自分の情けなさから目を逸そうなどと考えるとは。
「どうなさったの?」
はっと気付くと、少女は僕のすぐ側まで来ていた。
まるで罪を知らぬ純粋な眼差しに、僕は自分の罪を見る思いで飛び退いてしまう。
「僕に近付かないで!僕は、」
「分かった、お腹が空いているのでしょう?だからそんなに辛そうなのね。分かるわ、空腹程辛い事はないもの」
彼女は得心したかのようにそう言うと、傍らに置いたバスケットから小さな燻製肉を取り出した。
「どうぞ、こんな物しかないけど」
それはおそらくカエルの足だろう。
湿原地帯のこの辺りには大きな動物は少ない。
肉として大量に捕れるカエルは大事な食料だ。
「いや、良いよ。君の食事だろう?」
近年この辺りは不作が続いている。
気軽に他人に何かを分け与えようとするのは平原の民の気質ではあるが、それでもこの気軽さは彼女が特別に飢えを知らないからかもしれない。
ああ、でもさっき彼女はなんと言っていただろう。
「ひもじい思いをした事があるのかい?」
「ええ、ここ最近はずっとそう。だから豊穣の歌を歌って天に捧げているのだけれど、最近はもうあまり効果がないの」
「そうなんだ」
「大魔術師様のお話によると、連なった大地と空とを巡って原因の一つ一つを解きほぐしながら全てを癒さないと、一つの因果だけでは解決しないのだという事だったわ」
なんだって、彼女は今、なんと言った?
「大魔術師様?」
僕の問いに彼女は無邪気に答えた。
「ええ、とても大きなお力を持っていらっしゃるの。そういえばあなたも魔術師様?」
僕は慌てて手にした杖を隠したくなったが、どこに隠す事も出来る訳もない。
観念して僕はそれの封印布を示す。
「いや、見習いさ。布が巻かれているだろう?」
「そっか、素敵ね。魔術師なら私なんかよりもっとずっと沢山の事が出来るもの、頑張って」
いや、と僕は胸の内で呟く。
僕はもう失敗しつつある。
何も兆しを得られずに旅が終われば、僕はただの農民に戻るしかない。
多くの失望と嘲笑を見る事となるだろう。
だが、嘲りだけなら耐えられる。何よりも耐えられないのは、きっと僕を責めないで庇ってくれるであろう人達の優しさなのだ。
「その、大魔術師様の事なんだけど」
僕はそれがなんであろうとすがろうと思った。
自分が嫉妬した少女にすがり、見知らぬ偉大な魔術師にすがる。
だが、僕自身のプライドなど砕けて永遠の沼に沈んでしまっても構わない。
「うん」
「どうにかして会えないかな?」
図々しい願いだとは分かっている。
他所の部族の魔術師に会うには沢山の手土産が必要だ。
僕にはもう目ぼしい手持ちの財は無いし、ここ数日大きな獲物を狩る事も出来ずにいた。
彼女がさっき奇しくも言い当てたように、実際腹ペコだった。
「まあ、それならちょうど良いわ。あなたはきっと良い星が巡っているのだわ」
「え?」
「今夜は祭事があるの。偉大なる大地への祈祷祭。かの魔術師様もおいでになるのよ」
偶然か幸運か、いや、これこそが兆しなのか?
僕は危うく歓喜の声を上げかけて自分を落ち着かせた。
容易く感情を揺り動かすようでは魔術師として失格なのだ。
聞けば彼女はその為もあってこうやって歌っていたのだと言う事だった。
「それにね、お祭りの時はごちそうが出るの!」
輝くような笑顔で言った彼女は、その時だけ神秘のベールを脱いだ普通の少女のように見えた。
その何一つ陰りのない笑顔と声に、僕の胸はまたずきりと痛む。
光に影あれと望む雲のように、僕は彼女に告げた。
「そんな風に僕を信用して良いのかい?」
「え?」
「僕は君と大地を等しくしない、違う部族の人間だ。君を騙したり、祭りを汚したりするかもしれないよ」
その無邪気さは罪なのだと、僕は彼女に毒を注ぎ込む。
しかし、僕の意に反して、彼女の顔は曇りはしなかった。
「それならそれでも良いんです」
「どうして?」
「出会いは運命です。そして、この世には喜びと苦しみがあります。時に苦しみに出会うからと言って、出会いを避ければ喜びに巡り会う事も出来ません。その苦しみがこの身で受けるには強すぎた時には滅びるかもしれないけれど、喜びのない世界に存在しても意味がありませんから。だから出会いを避けたりはしないのです」
なんて不思議な理屈だろう。
そんな無邪気で愚かな理屈は聞いた事がない。
「愚かだな」
「そうですね、そうかもしれません」
彼女はニコニコと微笑み、僕を見ていた。
その時、僕は初めて彼女を見たような気がする。
小さくか弱い少女。
歌い手であるとか関係なく、僕は彼女に永遠に敵わないだろうと思った。
彼女は祭りへと向かう途上であったのだと言って、僕を導いた。
湿原は草原となり、木々の生い茂る森を抜けて、ゴツゴツとした岩肌の山を登り、日が暮れる頃合いに祭事の場へと辿り着く。
そこには想像したよりも遥かに多くの人々が集っていた。
山に見立てた祭壇に火が灯され、海に見立てた巨大な器に酒が満たされ、その間に様々な恵みを用いた料理が並ぶ。
かつて見た事が無いような立派な祭りだ。
人々は活気に満ちてざわめいていた。
誰からともなく足踏みが始まり、様々な楽の音が奏でられる。
各々勝手に爪弾きだしたはずの音は、やがて一つの旋律を奏で始めた。
そして、彼女を始めとした歌い手達が驚くべき歌声を披露して生きる喜びを、別れの哀しみを、大地の恵みを、慈雨の優しさを歌い上げた。
歌が終われば舞踏の始まりだ。
人の頭を超える程の跳躍を見せる踊り手に度肝を抜かれ、くるくるとまるで宙を舞うようにとんぼを切る少年達に拍手喝采して、共に声を合わせて歌い、大いに飲み、大いに食べた。
「ああ、美味しいですね、これが喜びです。願わくば、地に満ちる全ての者が喜びに満たされる事を」
彼女が僕の隣で気持ちが良い程に食べ物を口にしながらそう願いを口にした。
僕はかつてこんなに単純で無邪気で、そして尊い願いを聞いた事がない。
そして、自分も望んだ事が無かった事に気が付いた。
ああ、そうか。
僕はようやく理解した。
今の今まで、僕には僕自身の望みが無い事にすら気付きもしなかったのだ。
兆しが無い?当たり前だ。
望みを持たぬ魔術師など、誰が求めると言うのだろう。
「誰も飢えない事を望むのかい?」
「ええ、もちろん。その為に歌うのです。飢えるのは本当に辛い事ですから」
僕は、彼女にはなんの辛い事も無かったのだろうと思っていた。
飢えた事があったとしても、それはほんのちょっとしたものだろうと。
だが、それはきっと誤りなのだ。
きっと彼女は飢餓を知っている。
僕などよりずっと辛い飢えを知っているのだ。
やがてシンと場が静まり返った事に僕は気づいた。
はっと祭壇を見上げると、そこに大きな影がある。
揺らぐ炎にチラチラと輝きを返すのは、宝玉を連ねた首飾りだろうか?
しかし、その相手の放つ「気」は、宝玉の輝きなど色褪せる程の強さだった。
祭壇の炎すらその前では色褪せる。
強大な「気」の力。
彼が、かの大魔術師なのだろう。
やっと念願の最後の望みに出会えたと言うのに、僕は体の震えが止められなかった。
彼は祭壇を降りると、僕の方へと近付いて来る。
怖い。
あまりの恐ろしさに膝から崩れ落ちそうだ。
「若き魔術師よ、汝、何を望むや?」
荘厳な声がまるで鐘の音のように反響を帯びながら響き渡る。
なんという声だろう。
「ぼく、いえ、私は、未だ魔術師を名乗れぬ者ゆえ……」
そう告げた僕の手にあった杖をきつく覆っていた布が、炎に呑まれ真っ赤な輝きを残して消え去った。
僕の全身に細かくとりとめもない震えが引き起こされ、口を開く事もままならなくなる。
「魔術師よ、汝、何を望むや」
ああ、僕は、ここで死んでしまうのだ。
何の望みを口にする事も出来ず、ただ自分への失望に呑まれて死ぬのだ。
そう感じ、膝を折りそうになった僕の耳に、あの小さな美しい歌が聴こえた。
苦しみを喜びに変えて行こうとする、とても小さな、だけどとても強い祈り。
「僕は、喜びをもたらしたい」
考える前に僕の口は動いていた。
「ならば、世界を自らの目で見、足で知る者となれ。汝の世界に喜びをもたらすが良い」
ふっ、と重圧が消える。
目を上げた僕の目前には、巨大で美しい茜色の竜がいた。
「魔術師の王」
闇に光が射す。
夜が明けたのだ。
ばさりと、風を巻き起こし、巨大な竜は飛び立った。
見れば、周囲からは散り散りに動物達が森へ山へと消えて行く所だった。
僕はいったい何を見たのだろう?
はっとして傍らを見た僕の目に、微笑んで僕を見る少女の姿があった。
そして、その姿は朝の光の中で、融けるように消えて、そこに残ったのは一羽の小鳥だったのだ。
― ― ― ― ― ― ― ◇ ― ― ― ― ― ― ―
平原の地に、歴史に名を残す魔術師がいた。
彼はその生涯を旅に費やし、いくら望まれようと一つ所に留まる事はなかった。
彼は多くの枯れた地を救い、災害の多くを未然に防いだという。
その肩に常に小鳥を乗せていた事から彼は人々にこう呼ばれた。
「ミソサザイの魔術師」と。