トクオカさん【夏のホラー2012参加作品】
俗に言う『訳あり物件』には大きく分けて二種類存在する。
雨漏りや部屋の窓向きや騒音被害など、生活に実際に支障が出る部屋は物理的瑕疵。以前の入居者の自殺や、宗教団体が以前出入りしていた、などの生活に支障はないがいわゆる『いわくつき』の部屋は心理的瑕疵と言う。
私が入居を希望した『太陽荘』の103号室は後者であった。
「……本当にこの部屋で良いのかい?」
頭の禿げ上がった丸眼鏡の中年不動産屋が、今更そんな事を宣った。
「勿論」
私はそう答えた。
畳の六畳間とコンロが二つ並んだ1K部屋。トイレと風呂は別。洗濯機は他の入居者と共用。最寄りの駅まで徒歩十分。都内郊外の物件で、これだけの好条件が揃っているにも関わらず家賃が三万を切ると言うのだから、これは尋常ではない安さである。
この物件を何故誰も手に取らないのか、私は不思議で仕方が無い。
「あのねぇ、小山さん」
不動産屋は脂にテカる顔を私に近づけて、声を小さく潜めた。誰も他に聞いている訳でもないのに。
「アンタ、本当に分かってるの? 不動産屋がこんな事言っちゃぁマズいんだけど……この部屋ね、出るのよ?」
「幽霊ですよね?」
「そうそう、それもトビっきりのが。お払いしても出てってくれないような、強烈なの」
「えぇ、知ってますよ」
承知の上で私はこの物件を選択し、嫌がる不動産屋の背中を押して物件の下見をし、今まさに入居申込書に捺印したくてポケットの中の実印を指で弄っている。普通なら厄介な物件を欲しがる私の様な男にさっさと契約させてしまえばいいものを、この不動産屋ときたらきっと私の心配をしてくれているのだろう。
残念ながらその優しさが今はわずらわしい。
私にはそれ程広い選択肢が用意されている訳ではないのだ。この部屋の好条件を逃せば、今後の人生設計に重大な支障が現れる可能性がある。
「隣の音も聞こえないし、畳も綺麗だ」
「雨漏りもありゃしませんし、怪しい業者が出入りしていた過去もありませんがね、でもね小山さん」
不動産屋は先程から胸に抱えた部屋の資料ではなく、手首に引っ掛けた健康祈願のお守りに視線を注いでいる。
「……以前の入居者の話はホントなら御法度なんですけど……前の前の人も、前の前の前の人も、そりゃ酷い目にあったんだから」
「例えば?」
「前の前の人は車の事故。鳶職の人だったんだけど、足がやられちゃって。更にその前の人は病気。健康診断でオールグリーンだったって自慢してたのに、急な不整脈で」
「なるほど」
それが全て幽霊の仕業だと。不動産屋の主張はそれだ。
恐らく肝の太い私は『タダの偶然でしょう』などと無神経な言葉を吐いて笑うと、不動産屋に思われているだろうが、それは違う。
こんな事をわざわざ言いたくはないが、私は霊の存在を否定していない。そして実際、以前の入居者達が酷い目に遭ったのも霊の仕業だと信じている。
だがそれでも、私はこの部屋を選ぶのだ。勿論、みすみす霊なんぞに呪われて人生を棒に振る馬鹿な真似はしない。
「それで、不動産屋さん。例の……前の人のノートってのは、一体どこに?」
控えめに聞いたつもりだったが、少し声が大きくなってしまった。自覚はある。だが、これがこの商談の肝。ノートこそが、私がこの部屋を借りる決意を固めた切っ掛けなのだから。不動産屋は口を妙な角度に曲げていた。笑っているようにも臍を曲げているようにも見える。
「……これですね」
手渡された大学ノートは、湿気を吸ってぱりぱりに萎びている。
タイトル欄に書かれた『幽霊のルール』と言う胡散臭い文言が私の眼を引いて止まない。
「前の入居者さんは霊感が特別強い人だったみたいでね。かなり……ええっと、『霊障』って言うんだっけ? それに悩まされたんらしいよ。でも、霊能者ってのはまぁ、何て言うか、凄いね。霊感が強いのを良い事に、幽霊と話し合ったそうだよ、前の入居者さん」
「それで出来たのが、このノート……と」
「私は眉唾だと思いますがね」
不動産屋の本音を聞き流しながら、私はノートのページを捲る。
「幽霊が人を呪うのは、幽霊が不快な思いをした時。だったら不快な思いをさせないように、上手く幽霊と付き合っていけば呪われたりはしない」
丁寧な文字で、冒頭にそう書かれている。
「霊は、名をトクオカと言うらしい。会話の中で些か頑な印象を得た。マナーに五月蝿いらしく、昨今の日本人の礼儀を欠いた立ち振る舞いには辟易気味である……」
霊の特徴を記した堅苦しい文言はしばらく続き、そしていよいよ、本文である。
「1、挨拶を欠かす事なかれ。部屋に入るときは、例え誰も居なくても『ただいま』を言い、出ていくときは『行ってきます』を言う。部屋で目を覚ましたら『おはよう』、寝るときは『お休み』、メシを食うときは『いただきます』、食べ終えたら『ごちそうさま』。これらを怠ることはトクオカにとっては許し難い事である。くれぐれも注意すべし」
ノートから一文を抜粋したものである。このように、この部屋に住まう亡霊トクオカの機嫌を損ねないためのルールが大学ノートの半分程まで延々と書かれているのだ。
「ホントにこんなの信じちゃっていいの、小山さん?」
「えぇ。利には適っていると思いますよ。……ちなみに、このノートを作った人は?」
「さあねぇ。元々ちゃんとした職に就いた人じゃなかったみたいで、フラッと出ていっちゃったよ」
「無事だったんですね?」
「ん……うん。そうだね、多分」
それだけ聞けばもう十分過ぎる程だ。
「それじゃ、この部屋に決めますよ」
満面の笑顔でそう言った私に、不動産屋は引き攣った微笑みを向けていた。
*
引っ越し作業を終えて、業者とトラックを見送ると、達成感と疲労が同時に襲ってきて、私は真新しい緑の畳に身を投げた。
幽霊のルールには『ごろ寝してはいけない』の文はないので、問題はあるまい。
ただし「13、北枕は避けるべし」の一文を思い出して、私は一度起き上がった。部屋は南向きで、玄関側が北。今寝転んだ私は東に頭を向けていたので、問題なし。
ちなみに、両隣の住人はそれぞれ、私とそう歳の変わらぬサラリーマンと、冴えない風貌の大学生であった。彼らはこの部屋の噂を知っていたらしく、103号室に越してきた小山です、と告げると渋い顔ではばかりもせずに呻いた。腫れ物を触るかのような態度に些か腹が立ったが、「7、ご近所付き合いは大切にすべし」とある。仕方なしに引っ越し蕎麦の代わりに用意しておいた、遠方から足を伸ばす客も居ると噂の近所の蕎麦屋の蕎麦券を受け取って、それなりに満悦のようだった。
時計を見ると、午後五時半。夏のこの時間はまだ日差しが強いが、昼を抜いた私は早くも空腹であった。そう言えば「3、夜の八時以降は部屋の中で食事をしてはいけない。ただし、風呂上がりのデザートは可」なんてルールもあった。家賃が安いのは幸いなのだが、これは思っていた以上に面倒臭いかも知れない。ルールを破れば、待っているのは死に近い恐怖なのだから。
ここは良い方向に考えてみよう。
ルールをざっと眺めて思ったのは、規則正しくマナーの良い誠実な生活をしていれば、霊はヘソを曲げたりはしないと言う事だ。良い機会である。一人暮らしであるために荒れ気味だった私の生活リズムを正すチャンスだ。ちょっと度の過ぎたスパルタ教育だと思えば良い。
体を起こす。今日は疲れているので、外食してこよう。蕎麦券を配ったときの隣人の反応を見るに、あの蕎麦屋は中々の腕前らしい。しかし幸か不幸か、私は蕎麦屋への道のりを思い出す最中で「8、外食の際はあらかじめ予定を立てておく事」のルールも一緒に思い出してしまった。コンビニで済ませよう。幸いにも、出来合いのものを買うのに関してはルールは制定されていない。
やはり、面倒臭いかも知れない。
*
入居を終えて、ルールに常に目を通しながら生活をし始め、既に三ヶ月が経過しようとしている。急な転勤で都内を訪れた私は、元々は田舎民であるため、都会の喧噪に揉まれるのが好きではないので、少し都心を遠ざかった、俗に言う都内近郊周辺の散策をここ最近の休日の趣味としていた。
今日も今日とて、数日前に発見した個人経営の古本屋で、カバーが崩壊しかけたボロボロの文庫本の山を片手に自宅に帰宅する。まさか『出る』部屋に人を招く訳にもいかないので、ここ最近は専ら一人で過ごす時間が長くなり、自然と暇潰しの手段を模索すると本の一つでも読みますか、と相成ったのだ。入居当時空っぽだった背の低い本棚も間もなく一杯になるだろう。それらの処分をどうすべきか、と頭を悩ませながら帰宅する。
「ただいま」
一人暮らしでこの言葉を口にするのには、初めこそ違和感があったものの、今は慣れたものだ。いつもならばただ口にして、何の感慨も抱かずに夕食を用意しながら文庫を斜め読みするのだが、今日は少々勝手が違った。
部屋の真ん中で、私が先週購入した文庫本の一冊が表開きになっていた。出ていく時にはこうなっていなかったのに、と思ってそれを眺めていると、風も吹いていないのにページが一枚、ゆっくり捲れた。
しばらく観察すると、またゆっくりと捲れる。まるで、誰かが読んでいるかの様に。
「……ただいま」
何となくもう一度口にすると、文庫本は弾かれるように音を立てて閉じ、なんと私の目の前で宙に浮かび、そのまま本棚に吸い込まれていった。思わず目を疑ったが、不思議な事に今しがた起きた怪奇現象に恐怖は覚えなかった。恐らくは、亡霊トクオカの仕業なのだろうと、私は見当をつけていたからだ。怪奇現象が恐ろしいのは、なぜその現象が起きたのか理解出来ないからだ。
理解出来れば、なんら恐怖も感じない。
「……トクオカさん、読んでていいですよ」
私はごく自然にそう告げた。すると、今しがた棚にひとりでに飛び込んだ文庫本が、控えめにのそのそと棚から引き出され、再び畳の上に落下し、表開きの状態で止まった。
ページがまた捲れ始めたのを目視して確認した私は、なんだか少しだけ笑ってしまった。
*
こんな事もあった。
私は嗜む程度には飲酒をし、また喫煙もする。
その休日は、天気こそ良かったのだが昼過ぎに起きてしまったせいで何もやる気が起きず、ひたすら自室に篭っていた。何となく一本タバコを吸ってから、遅めの昼飯兼早めの晩飯でも食うかと腰を上げると、いつも買いだめしているレトルトのカレーが切れている。買いに行くのも面倒だが、今日唯一の食事が白米のみなのも嫌なので、私は重い腰を引き摺るようにしてスーパーに向かった。
そして何事もなく帰ってくると、部屋の中が異様に濃い気配に満ち満ちているではないか。私は武芸の達人でもなんでもないのだが、部屋の中から漂う異様な人の気配は、疑う余地はなかった。
「……た、ただいま」
控えめに呟きながら居間を覗き込む。
気配のわりに人は居ない。
それ以上に、畳の一ヶ所が水浸しになっているのが目についた。その中心にはタバコの潰れた吸い殻。
畳に僅かに残った焦げ後が、大惨事の寸前であった事を物語っている。水をかけていなければ、恐らくはこの古い木造アパートの事だ、こんなチンケなタバコの火種でもすぐに全焼してしまっただろう。
私が常用しているグラスが、濡れた状態で畳の上に転がっている。なるほど、これに水を汲んで、かけたのだろう。
……誰が?
「あの……もしかして、トクオカさん」
私の控えめな声に反応するかの様に、グラスにヒビが入ったかと思うと、そのまま爆散した。驚愕に声も出ない私だったが、やがて本棚がガタガタ音を立て始めた時に、自然と私はその場に正座した。
何故か『そこに座れ』と言われている気がしたのだ。
「す、すみませんでした!」
そのまま土下座をする。本棚を揺すっていたポルターガイスト現象はそのまま収まり、肌で感じられる程の人の気配も徐々に薄れていき、そのまま消えてしまった。
なにはともあれ、トクオカさんのお陰で火事にならずに済んだ事に間違いない。その日私はグラス二つにビールを注いで、一つは自分で飲み、もう一つを窓際に置いてみた。翌日、グラスは空になっていたのを確認して、私はまた複雑な気分にさせられる。
とにもかくにも、私はその晩以来タバコを吸っていない。
*
強制立ち退きのお知らせが来たのは、私が越してきて丁度三年経った頃であった。建築基準法やらには私は疎いのだが、どうやらこのアパートは地元消防署から再三に渡って防災上の管理体制に厳重注意を受けてきたそうだ。大家もそれに応じて改修修理などを行なってきたようなのだが、すでにその改修工事にも耐えられない程建物全体が激しく老朽化していたらしい。
結果、安全管理上の問題から、アパートの取り壊しが決定された次第である。
取り壊しまでは半年程の猶予期間が与えられ、その間に私は新居を決定しなければならない。
それは同時に、この部屋の真の主であるトクオカとの別れを意味していた。
「……なんか、寂しくなるねぇ」
独り言とも付かぬ言葉を吐き出す。
グラス二つに焼酎を注ぐ。今日は奮発して、近所の酒屋に置いてある中で、最安よりワンランク高価なものを選択した。
酔いたい気分なので、私はそれをロックで水のように煽っていた。フラついた頭でも、幽霊のルール「19、晩酌のツマミは枝豆かチータラ」はしっかり守っている。
こんな生活を三年もしているのだ、自然とルールは身に付いていくものである。もはや、気兼ね無しに生活を送るのとなんら変わりない日常である。頑固ながらも気の良い、姿の見えぬ同居人がいるのは、ある意味ではむしろ幸せと言えるかも知れない。
私は最近になって、そんな事まで考えるようになり始めていた。
「そうだ、トクオカさん。この機会に成仏したらどうだい?」
私の言葉に呼応するように、私が手を付けていない方のグラスの焼酎の液面が少し揺れた。この揺れ方は、怒ってはいないらしいようだが、あまり肯定的ではなさそうだ。多少の心情の機微は私にも読み取れるようになっていた。下手な霊媒師よりも凄いのではないだろうか。
「ここ壊して、行く所はあるのかい?」
亡霊トクオカは、このアパートに取り憑いている、いわば地縛霊だ。
心霊関係にも私は疎いのだが、地縛霊と言うのは文字通り、土地に縛られた霊である事くらいは知っている。もしもアパートが無くなっても、トクオカさんはこのアパート跡地から逃げる事は出来ないのではないか。
私が尋ねても、トクオカさんは返事をくれなかった。
代わりに、グラスの液面が少し減った。亡霊にも酔いたいときはあるのだ。
「明日は仕事も休みだ、飲もうや、トクオカさん」
私がそう言うと、トクオカさんのグラスの液面は一気に底をついた。少し笑ってしまいつつも、目の端から涙が零れた。
*
それから何年経っただろうか。
私は……いや私達は今1LKのマンションに居を構えている。太陽荘からの引っ越しを期に、どうも一人で暮らすのが寂しく思えてしまい、当時付き合っていた恋人と同棲を始め、数年後結婚。
今日までに三人の子宝にも恵まれた。
仕事でもトラブルを抱えてはいないし、最近は責任ある仕事も任せられるようになってきた。まるで幽霊と同居していたなんて突飛な過去が嘘のように、人生は絵に描いたような平々凡々の順風満帆であった。
「ねぇ貴方。そろそろこの部屋も限界じゃないかしら」
控えめに、ではあるが妻の言葉は力強い。
かれこれ半年近くその言葉を聞いては、「まだいいんじゃないか」と誤魔化してきたのだが、そろそろ限界だろう。妻の腰にまとわりつく、七つになる長女が「引っ越し引っ越しー」とかかる費用に頭を抱える私の苦労など露知らぬと言わんばかりにはしゃいでいる。
「子供達も大きくなったら、やっぱりね……新しいお家に住みたいよねー?」
「ねー」
長女をダシにして私に迫る妻。三回の出産を経たせいだろうか、随分と強かな女になった。昔はもう少し抜けたところがあって可愛げがあったのに、と嘆く私を尻目に、妻は一枚のチラシを私に突きつける。
「ほらこれ、見てよ。最近出来た物件なんだけどさ」
「んー……」
あまり乗り気にはなれないのだが、突っ返す訳にもいかず渋々私はチラシを受け取った。妻はてっきり新しいマンションに越すつもりだとばかり思っていたのだが、どうやら私の思い違いだったらしい。
賃貸一戸建ての一枚広告を見て、反射的に突き返してしまった。
「ちょっとー」
「流石に無理だって」
「ちゃんと見なさいよ、いい家じゃないの」
妻の強引さには辟易しながらも、臍を曲げられるとこれまた厄介なので、仕方ないから目を通す。
「どれ……家賃は……え?」
思わず目を疑った。
二階建て一世帯住宅。都内近郊に建設されていると言うのに、その家賃は十万を切っている。なんだこの有り得ない家賃設定は。私が顔をしかめて妻を見ると、妻はキョトンと小首を傾げている。こういう所はまだまだ抜けているのだ。
「なんか怪しいぞ、これ。安過ぎるだろ」
「え、そうなの?」
「そうだっつの……昔そう言う所に住んでたから分かるんだよ」
「そう言う所って?」
「訳あり物件だよ。家賃が異様に安い物件ってのは、客にも言えないヤバい事情を抱えてんの」
「でも新築よ? ほら」
「新築でも前に建ってた建物が良くなかったり、地盤がおかしかったり……」
もう一度広告に目を通す。隅の方にその家周辺の地図が描かれていた。駅からそう遠くなく、その上しかも私の会社からもそれなりに近く……いや、待て。
私は家の住所に目を通した。見覚えがある! これは私がかつて住んでいた、太陽荘の住所ではないか!
「……ちょっと電話してくる」
急に目の色を変えた私を見て妻は不審に思ったようだが、何も言わなかった。
私の頭の中では既に『幽霊のルール』を書いたノートを何処にしまったか、それを必死で思い出していた。
*
例の賃貸一戸建てへの入居の話はトントン拍子に進んでいった。
言い渋る不動産屋(当時の不動産とは違う会社であった)を問いつめた所、どうやらこの家、建てたは良いものの、客が下見にやってくるなり怪奇現象が起こると言う恐ろしい曰く付き物件であったのだそうで、なかなか借り手が付かなかったそうだ。
それを黙ったままにしておくとは見下げ果てた不動産屋だが、私にとってそれはさして問題ではなかった。
兎に角、この格安物件を私は借り受けた。
そして今日が、入居日である。
私は家の玄関を前に、妻と三人の子供達に振り向いた。
「いいか、お前達。この家にはな、お父さんの古い知り合いが住んでいるんだ」
「え……?」
「そーなの?」
「恥ずかしがり屋だからな。姿は見せてくれないけど、その人はちゃんといるんだ。だから」
私はボロボロの大学ノートを取り出して、驚きに目を剥く四人の前で広げてみせた。
「これを読んで、ちゃんと失礼のないようにお行儀良くしないとダメだからな?」
「はーい!」
一番元気のいい長女が手を挙げて同意した。他の子達もそれに倣う。妻だけは未だに納得いかないと言った風で、口を尖らせている。
「貴方、私そんな話聞いてないわよ? どなたかいらっしゃってるの?」
「むしろ、我々がお客さんだよ。この土地の中では」
「お名前は?」
「トクオカさん」
私は短く答えると、玄関を大きく開いて大きな声で「ただいま!」と叫んだ。
すると、どうだ。リビングに続く扉が、風も吹いていないのにノブが捻られて自然に開いていくではないか。
これをポルターガイストと言わずに何と呼ぶ。
私のかつての同居人であり、私の親友である……幽霊との再会だ。
「久しぶりだね、トクオカさん!」
私の声に反応するように、扉が二三度パタパタと揺れた。
早く入ってこい、また酒でも飲もう。そう言われている気がした。
「……やっぱり立て付けが悪いのかしら」
妻がぽつりと呟くのを聞いて、私は笑ってしまった。