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短編作品

月蝕

作者: 武田章利

 ゆっくりと、ゆっくりと、月は、欠けていくのでありました。



  回廊



 足音が甘い香りに満ちて、ゆっくりと響いている。樫は立ち止まり、息を呑んだ。扉を通った覚えはなかったが、いつの間にか庭に来てしまったようだ。目の前には低木が乱立し、数羽の蝶が銀色に照り輝きながら飛んでいる。

 しかし星も月もない。深い夜空も見えない。よく見ると、木々はリノリウムの床から生えている。見上げると高い吹き抜けの天井がある。低木たちを照らしているのは非常口表示の緑の光と、消え入りそうな電球のライトだ。

 足音がした。その繊細な重みが床に触れる度、かすかな香りが広がって低木の森を妖しく彩る。足音は数回続くとすぐに止まり、またしばらくして数歩分響く。反響がひどくて、どこから聞こえてくるのかは分からない。樫は耳を澄ます。床から、低木から、天井から、足音はぐるぐると空間を回っている。

 樫も足を踏み出した。だが冷たく沈むリノリウムの床は、樫の足音を響かせはしなかった。いくら歩いても音はならない。気味が悪くなって立ち止まると、低木の森の入口に立っている女に気が付いた。長い髪が電球のわずかな光を照り返して、暗緑色をしている。それは暗闇を流れる川のようだと樫は思った。

 樫はすぐに、女の足元を見た。夜明けに広がる星混じりの空のような色をしたヒールを履いている。そこからすっと、長めのスカートのなかに白い足が伸びている。どうしてあんなに音を響かせられるのか、自分にはなぜできないのか、女を見ていると、分かる気がした。

 女が笑いかけてきた。足音に伴う香りのように、甘く、優しく、そしてどこか物悲しい。樫は気持ちを呑まれそうになりながら、むせるように声を出した。

「病院のなかを歩いていたと思ってたんだ。そうしたらいつの間にか庭だった。いや、ここは庭なのかな。なかのように感じるけど」

「迷ってしまったのよ」

 桜の花びらが風に舞っていくように、女の口から言葉がこぼれた。それは薄暗いこの場所で、鮮やかな色を持って広がっていく。

「まさか病院のなかで迷うなんて。もうずっとここにいるのに」

「行き先に迷ってしまったのよ。気にすることはないわ。誰にでもあることだから」

「面白いことを言うね。行き先に迷っただって?」

 女が一歩、前に出た。目もとに浮かべられた感情が、樫の目の前で大きく広がっていく。見たこともない景色を前にした不安が、少しずつ消えていった。

 音が響く。吹き抜けの上まで音が伸びて、天井で向きを変え、ゆっくりと低木の茂る場所へ降っていく。

「友人の見舞いに行くところなの。よかったら一緒に行きましょう。きっと迷い道からも出られるはずよ」

 花の香りがした。数種類の匂いが混ざっていて、花の名前までは分からない。女が近付いてくる。一瞬だけ、ふっと香りが強くなり、すぐ消えた。女がすぐ側まで来ても、もう何の香りもしない。いや、ひとつだけ、かすかに甘い香りがある。

「面白いね。君のことをもっと知りたい。ぜひ同行させてもらうよ」

 女の口元がわずかに緩む。とても穏やかな笑顔だと思った。

「名前は? 僕は樫っていうんだ」

「カオリよ」

 あるかないかの、かすかに漂う香りのことを聞いてみようかと思ったが、カオリが歩く姿に見惚れて、樫は何も言えなかった。

 彼女が鳴らす足音が、幻想の森を越えていく。薄暗い景色にかすみがかかり、やがて蝶が消えた。カオリの後を追い、振り向くと、低木も姿を消していた。リノリウムが冷たい光を反射して、病院の静けさを照らしている。少しだけ不安になってカオリの名前を呼ぶと、「大丈夫よ」と温かい声がした。ずっと昔からカオリを知っていたような気がして立ち止まると、カオリも立ち止まって樫を振り返った。彼女の柔らかな目を見ると、落ち着いてくる。

「一人目はすぐそこの部屋よ」

 カオリが指したのは個室の扉だった。名前が書かれた札は付いていない。代わりに、暗闇のなかでも分かるほどの真赤な色で、扉に大きく『月』と書かれていた。



  月:まるで想いのように満ち欠けするもの



 扉を開けると、樫はばりばりという物音を聞いた。ベッドには、ぼさぼさの長い髪をまとめもせずに、血走った眼で壁をじっと見つめている女が座っていた。大きいが薄い煎餅を持っている。樫とカオリが部屋に入っても、女は特に気にする様子もなく、じっと壁を凝視していた。そして時々、持っている煎餅にかじりついて、ばりばりと激しく音を立てながら口を動かす。

「ああ、今日は大きな音が聞こえるよ。カオリ、カオリ、カオリだろ。それともう一人変なのがいる。今日はよく聞こえるよ。どんどんって聞こえるよ。月の音が。月を叩いている音が、はっきりと聞こえるよ」

「目が、見えないのか」

「ええ、それと、あなたの声も聞こえないわ」

「カオリの声は聞こえるのか」

 樫の隣で、カオリが頷く。するとベッドの女が顔を動かして、カオリと向き合った。

「どうしたんだい、今日は変なやつまで連れてきて。あたしを笑いものにする気かい」

「迷子なのよ。折角だから一緒に見舞いに行くことにしたの」

 ベッドの女は高らかに笑い、見えないという瞳をぐるぐる回した。そしてまた煎餅にかじりつき、ばりばりと音を立てる。

「ほら、そこのあんた。月の音は聞こえるかい?」

「月の音? 何のことだい」

「耳を澄ませてごらんなさい。体に響く鼓の音があるでしょう」

 樫は目を閉じてみた。真っ暗ななかにカオリとベッドの女の気配が吸い込まれていく。はっきりとした孤独感が樫の体の奥で生まれ、冷たい慄きに驚いて目を開けようとすると、「大丈夫よ」と花びらのようなカオリの声がした。樫はぐっと目を瞑り、もう一度暗闇のなかに音を探す。遠くに、太鼓を叩くような音を見つけた。それは三拍子で繰り返され、不規則に五拍子となり、また三拍子に戻る。だがその音は、けして樫の心を休めたりはしない。聞けば聞くほどに、彼は不安を感じ、湧き出る悪い予感に当惑した。

 目を開ける。ベッドの女が煎餅をかじりながら、樫のほうを向いていた。光のないどんよりとした眼球に驚いて、樫ははっと息を呑む。それは有機のガラス体ではなく、岩石のようだった。

「失礼なやつだね。あたしを見て驚いただろ」

「あなたを見て驚かない者はいないわ」

「はっはっは、カオリ、カオリ、あんたも随分と失礼なやつだね」

 ベッドの女は大口を開けて笑い、足に掛かっている布団をばんばんと手で叩いた。持っていた煎餅が半分に割れ、片方が床に落ちる。カオリの足音よりも鋭く、リノリウムが放つ冷たさよりも凍てつく音がして、部屋全体に反響した。ガラスででもできているのかと思ったが、落ちた煎餅は食べ物にしか見えなかった。

「もったいないね。半分も落としてしまったよ」

「痛いくらいの音がしたけど、あれは本当に煎餅なのか?」

「煎餅? そう言われるとそうも見えるわね。あれは月よ」

 カオリはベッドの側まで行くと、女が落とした片割れを拾った。カオリの動作ひとつひとつに、花の香りがある。カオリが行けば、月にも花が咲くのだろうかと思いながら、樫は彼女が拾った月と、ベッドの女を交互に見た。

「その月、あんたが食べるかい」

「わたしはいいわ」

「じゃあ、連れにあげとくれ」

 カオリの腕が伸びてくる。その先に半月がある。よく見ると、その表面は凸凹していて月のように思えなくもない。

「汚い床ではないから大丈夫よ。もし食べてみたいのなら、かじってごらんなさい」

 樫は半月を受け取り、端を口に入れた。舌の先で触れた月は、ほんの少し甘くて砂糖菓子のようだった。一度口から出して、もう一度くわえ直す。思い切って噛んだら、月の固さに顎が震えた。立ち眩んでよろめくと、ベッドの女が大声で笑った。

「馬鹿だね、普通に噛みつきやがった」

「鉄の入れ歯でもしているのか」

 見ればカオリまで、くすくすと笑っている。樫は手にした半月に惨めな音を聞いたが、カオリの無邪気な笑い方を見ていると、いつの間にか消えていた。

「月は気持ちで食べるのよ。ほら、見てみなさい」

 カオリは窓辺に寄って、暗く反射するガラスの向こう、空の伽藍の頂点を指差した。樫も側まで行き、カオリの白い指の先を見上げる。そこには赤黒い月があった。

「ずっと見ていてごらんなさい。少しずつ欠けていくのが見えるはずよ」

 カオリの指がすっと引いた後も、樫は月を見つめた。赤黒い月は右上から暗黒に呑まれていき、震える吐息を出しながら、ゆっくり、ゆっくりと欠けていく。

「あれは何? 月蝕とも違う。初めて見た」

「ここから見える月蝕よ。蝕しているのは、地球ではないけれど」

「ここには月がたくさんあるのさ。あたしの眼球だって月。食べているのも月、窓からはいつでも月が見える」

 ばりばりと音がした。ベッドの女が月をかじっている。目を閉じると、月の音が聞こえた。

「月はどうして欠けるのだろう」

「さあ、どうしてでしょうね」

 カオリも月を見上げている。赤黒い月はもう半分以上体をなくしている。あの月を覆っている真っ黒な闇の正体を、きっと彼女は知っている。無表情で月を見つめるカオリを見て、樫はそう感じた。

「そろそろ月も終わりだよ。あんたらも出ていっておくれ」

 ベッドの女が静かに呟く。いつの間にか月も全部食べてしまったようで、彼女の手は何も掴んでいない。目を閉じても、月の音はしなかった。女も目を閉じ、全ての音が遮断されたかのように、静寂が部屋に満ちた。

 カオリが女に微笑みかける。女は眉ひとつ動かさない。「行きましょう」と言った彼女の後ろについて、樫は部屋を出た。



  回廊



 カオリは何も喋らない。光が遠くなり、リノリウムの床がほとんど見えない。カオリの後ろ姿が闇のなかに消えていかないように、樫は目を見開いてついていった。

 廊下は延々と続いた。病院がこんなにも広いことを樫は知らなかった。そしてよく音を反響させる。カオリの足音が響くたび、樫は水面に落ちる水滴を想像した。闇のなかに音が落ち、波紋が景色を揺らす。はね返った音が樫に当たり、存在を呑みこまれそうになる。

 闇が深くなる。すぐ前を歩いているはずのカオリの姿が見えない。足音がなければ完全に見失ってしまうだろう。道はまっすぐ続いている。この直線の先を考えて、樫は震えた。

 ぼんやりと浮かぶ光が見えてきた。だが床や壁が見えるわけではない。すぐ近くまでたどり着いてやっと、カオリの顔が見えた。その横顔に、樫は敬虔さを感じた。

「次はこの部屋」

 見ると扉には、青く発光する『光』という文字がある。今何よりも、樫が望んでいるものだった。



  光:すべてを打ち消すもの



 部屋の中央に灯りがぼんやりと浮かんでいる。樫には灯りしか見えなかったが、カオリが指差したのでじっと見てみると、老人の丸い顔があった。ちりちりの白髪に小さな眼鏡をかけて、ゆっくり、ゆっくりと、安楽椅子を揺らしている。灯りは老人が手にしているカンテラの火だった。虚ろな瞳を見て、これもまた月なのだろうかと思ったが、そこには確かに命の光があった。淀んでいて、白く濁っているが、有機の躍動があった。

「誰だ」

「道に迷ったみたいなの。だから案内がてら一緒に来たのよ」

 老人の頭が動く。ゆっくりと、亀のように。その瞳の色ははっきりと見えないが、樫に焦点が合っているのは分かった。

「どこから来た?」

 老人の質問の意味が分からずに戸惑っていると、カオリが前に出た。彼女は老人のすぐ側にまで行き、カンテラの光を手で遮り、部屋に闇を生んだ。そのなかに、一瞬だけふっと桜の匂いが流れる。

「命はみな、この闇から来るでしょう。彼も例外ではないわ」

「そうだ、そうだったな」

「カオリも闇から来たのかい」

 樫はわずかな香りを追い、姿が見えないカオリに話しかけた。何も見えないのに、彼女が笑う気配を感じた。

「ええ、例外なく全ての命が闇から生まれるのよ」

 カンテラの火がカオリの手から漏れて、彼女と老人の顔が暗闇に浮かんだ。カオリが手を動かしたわけではない。カンテラの火が大きくなったのだ。部屋の壁に影が揺れる。明かりがあり、老人もカオリも見えるのに、樫は胸騒ぎを感じて落ち着かなかった。大きな不安がある。光が大きくなっていくとすれば、その最後はどうなるのだろうか。考えると背筋が冷たく痺れる。

「カオリ、悪いけれどもう一度その灯りを隠してもらえないかな」

「私がいくら隠しても、光はどんどんと満ちていくのよ。たとえこの火を消したとしても」

 カオリの手が光を浴びて白く滲んでいる。樫は彼女の右小指に指輪がしてあるのを見つけた。ハートの形をした小さな指輪だ。

「彼にはまだ、酷だろうな。この光は」

「あなたはぜんぜん眩しくなさそうね」

「年をとると、鈍感になるんだよ」

 老人の手が動き、カンテラが音を立てて揺れた。影が大きく部屋を巡り、光に圧倒されて小さくなる。樫も圧迫されて息が詰まりそうだった。火がカンテラのなかで轟々と燃えている。カオリも手を引いて、細めた目に翳した。老人だけが、その熱い光を直視している。

「もう会えないかもしれないわね」

「そんなことはない。それは君も、よく分かっているだろう」

「今日のことを覚えているかどうかはあやしいわ」

 老人の口元が笑う。カオリも手で目を遮ったまま笑みを浮かべた。つられるように、樫も眼尻で笑う。だが光が痛くて、すぐ目を閉じた。それでも光は瞼を貫いてくる。

「カオリ、悪いけれど先に出るよ」

「ええ、私も行くわ」

 カオリの足音がしたが、響くことはなく、すぐに消えていく。もう一度彼女の名前を呼ぶと、「大丈夫よ」と声がした。同時にドアが開けられて、吸いこまれるように樫は部屋を出た。



  夜の回廊:闇、闇、闇、唯一の休息所



 満ち足りた闇だと樫は思った。何も見えない。だが音を感じ、呼吸を感じ、命を感じる。樫は自分の足元を何かが素早く通り抜けるのを感じた。カオリの名前を呼ぶと、「感じるでしょう」と声が返ってきた。

「ここは本当に病院かい? この闇のなかにいろんなものを感じるよ」

「さっき少しだけ光が差し込んで、みんな騒いでいるのよ」

「そのうち静かになるだろうか」

「ええ。静まりかえったら、行き先も見えてくるはずよ」

 行き先という言葉が引っ掛かった。樫は自分が向かうべき場所を思い出すことができないまま、カオリの体に触れようとして手を伸ばし、空を切ってよろめいた。カオリの名前を、二度続けて呼ぶ。返事はない。気配も感じず、真っ暗な伽藍のなかに自分ひとりがぽつんといるようだった。だが不安は感じない。何も感じられないが、けしてひとりではないのだと思うことができたからだ。樫は何も見えない廊下を真っ直ぐ歩いた。しばらく歩いて、前方にきらりと光るものを見て、そこが窓だと知った。ガラスにゆっくりと手を当て、その外の広大な世界を覗いた。

 星が点在している。月を探したが、どこにもなかった。次に現れるのはいつだろうかと考えていると、首筋に吐息を感じた。カオリではない。また別の匂いがした。深い闇が沈む地上の香りだ。

 からん、と、グラスのなかで氷が踊る音がして、かすかに酒の匂いがした。「いつでも飲みに来るといい」そんな声が聞こえたので振り返ると、暗闇のずっと向こうに妖しく艶やかな無機の赤い光が揺れていた。ヴァイオリンか何かを奏でる音がしたので耳を澄ますと、パッヘルベルのカノンだと分かった。ゆっくり、ゆくりと、カノンが流れる。

 しばらくするとカノンの上に小さな羽音といななきが重なり、くるくると方向を変えてそれぞれの持つ時間に消えていった。

 月が、満ち始めた。

 カオリの名前を呼ぶ。返事はない。だがまたきっとどこかで会えるような気がした。同時に、樫は自分が行くべき場所を理解して、涙をこぼした。たくさんの匂いとたくさんの色に囲まれ、それらは収束し、拡散し、ちりぢりになってまた違う形を創る。

 風が吹いた。闇が少しずつ飛ばされて、目の前に薄暗い光が広がった。いくつかの声が交差し、温かい手に引き寄せられ、柔らかな温もりに抱かれた。何が起こっているのか分からず、過去を思い出すこともできなかったが、ただ、彼は心の底から安心することができた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 幻想的な世界観が素敵ですね、好みなので惹かれて読みました。 文が落ち着いていましたので、安心して読めました。
2012/04/20 09:01 退会済み
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