人を殺すために生まれたノラネコ(アナザー)
2006年 8月 15日
生きてることは、くだらないことだ。
私はため息をついて、窓の外を覗いた。マンションの外を歩く人々は、スーツ姿のサラリーマンが多い。夏休みだから、学生の姿はほとんどなかった。私はもう一度ため息をついて、自分の部屋を見渡した。読みかけの小説が床に散乱している。それ以外は、なんの特徴もない部屋だった。ベッドと机、それからノートパソコンがあるくらいで、かわいらしい雑貨なんて1つもない。無駄のない部屋と言えば聞こえはいいが、18歳の女の部屋としては、面白味のない部屋だろう。
ひきこもり。世の中から見れば私はその類の人間だし、まあ間違えてはいない。実際こうやって一日中部屋の中で過ごしているし、高校も1年で通うのを辞めた。
ただ、私が高校に行かなくなったのは、いじめにあったとか人間関係がうまくいかなかったとか、ましてや成績のことで挫折したとかそんなのではない。
行かなくなったのは、くだらないと思ったから。
学校というのはくだらないものでしかなかった。
日常生活で使いもしないような知識ばかりを詰め込むだけの場所。
個性のなくなる場所。
皆で同じ方向を向いて行儀よく勉強して、協調性だの自立心だの。
――くだらない。あそこは世の中で一番くだらない場所だと思う。
こんな世界で、私はどうして生きてるんだろう。
「……なにあれ」
彼女を発見したのは、本当に偶然だった。何気なく覗いた窓の下。そこにいた12歳くらいの女の子を見て、私は眉をひそめた。
一言で言うなら、彼女はとてもかわいかった。大きな目に、少し高い鼻。フワフワした髪の毛は、肩の上で揺れていた。年齢的に、美人よりも可愛いの方が正しいと思う。
彼女は私のマンションの前で、きょろきょろとあたりを見回していた。迷子、なのだろうか。それだけなら、どこにでもいる人間だ。問題は、彼女の服装だった。
彼女は浴衣のような病衣を着ていたのだ。目を凝らして何度も確認したが、やっぱりあれは青色の浴衣ではなく、青色の病衣である。病院で、入院患者が着るやつだ。――病衣を私服代わりに着ています、なんて聞いたことがない。
私は腕を組み、マンションの3階から彼女を見下ろし考えた。
普通に。普通に考えるなら、『病院を抜け出してきました』……だろうか。だとすれば、彼女はどうして病院を抜け出したのだろう。
あちこちに顔を動かしていた彼女はやがて、地面にペタンと座り込んだ。どうも疲れているらしい。周りを行き交う大人たちは彼女のことをチラチラ見ているが、声はかけない。私は舌打ちした。面倒事に巻き込まれるのが嫌いな人間ばかりだな、と毒を吐く。そういう自分も、面倒事が大嫌いだった。
なのに私は、外に出る準備をしていた。面倒よりも興味の方が勝っていた。とりあえず彼女から事情を聴いて、場合によっては病院に送り返せばいい。
私は久しぶりに靴を履き、外へと出た。部屋にいる時は分からなかったが、外は蒸し暑くてかなり不快だった。
「どうしたの?」
私が声をかけると、俯いていた彼女は顔をあげた。頬に、涙の跡が残っている。泣いていたらしい。
「に……」
彼女は何かを言おうとして、咳こんだ。乾いた咳が、断続的に続く。私は彼女に近づきながら、やっぱり救急車を呼ぶべきなのかと考えていた。彼女は何とか咳を止めると、
「のど、かわいた……」
小さなかすれた声で、そう言った。
どうせ親は、滅多とこの家には帰ってこない。仕事と結婚している父と、不倫と結婚している母。私は笑った。「猫」を一匹拾ったところで、誰も気づかないだろう。
私は牛乳をおいしそうに飲む彼女を、頬杖をついて眺めていた。本当にきれいな顔だ。子役としてデビューしたら売れるかもしれない。
そんな彼女の左腕には、包帯が巻かれていた。怪我でもしているのだろうか。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
彼女はガラスのコップをテーブルの上に置くと、深々と頭を下げた。
「どういたしまして」
私がぶっきらぼうに答えると、彼女ははにかむように笑った。どうも喋り方が幼い気がする。私は頬杖をついたままで、彼女に尋ねた。
「あなた、名前は?」
「える、はちさんご」
「え?」
小首をかしげる私に向かって、彼女は笑顔を崩さず、
「える、はちさんご」
同じ言葉をもう一度口にした。それはどう聞いても名前ではなく、
「……L、835?」
アルファベットと数字にしか聞こえない。けれど彼女は、嬉しそうにうなずいた。
「それがあなたの名前?」
「そうだよ」
……どういうことなんだろう。彼女の言ったそれは明らかに名前ではなく、識別コードのようだ。人間モルモットという単語が頭に浮かぶ。私は何か、まずいものを拾ってきたのかもしれない。
「……あなた、どこから来たの? 病院? 保護者は? どうしてあそこにいたの?」
私の矢継ぎ早の質問に、彼女は困惑した顔を浮かべた。「ほごしゃ?」と首をかしげている。「お父さんとお母さんのこと」と言い直しながら、この子は何歳なのだろうかと考えた。
お父さんとお母さんは知っていたらしい。彼女は悲しそうに、首を振った。
「おとーさんとおかーさんは、いないの。せんせーが、わたしをつくったんだよ」
「せんせー?」
「せんせー、私をいっぱいつくってるの。くろーんって、言ってた」
子供の冗談、なのだろうか。最近そういう映画でも流行っているのかもしれない。近頃の流行を知らない私には、分からなかった。けれど、「保護者」は知らないのに「クローン」という単語を知っている彼女に、興味を持った。
嘘に付き合ってみるのも、面白い。
「その、せんせーっていうのはどんな人?」
「白い服きてるの。いっつもこわい顔してる。しっぱいはきらいなんだって」
「失敗?」
「からだがグジグジになるの。赤くなったり黒くなったり」
彼女は自分の左腕に巻かれている包帯を取って見せた。包帯の下に隠されていたそれを見て、私は息をのんだ。
彼女の左腕には、ほとんど皮膚がなかった。露出している赤と黄色の混ざった肉には、カビが生えたようにところどころ黒くなっている。
腕から目を離せない私に、彼女は言った。悲しそうに、笑いながら。
「私は『しっぱいさく』なんだって。だから、すてられたの」
彼女の話をまとめると、こうだ。
彼女は「先生」に作られた「クローン人間」だ。識別コードは「L-835」。「先生」は彼女と同じ顔のクローンをたくさん作っている。理由は分からない。彼女は「特殊な薬」であっという間に大きくなった。ただ、知能はそれに追いついていないらしい。
実験に失敗したクローンは、身体が腐り始める。腐る、という表現は適切ではないのかもしれないが、彼女の腕を見る限り、その単語が一番しっくりくる気がする。
失敗したクローン人間を、先生は「失敗作」と呼ぶ。そして「失敗作」になってしまったら捨てられ、「処分」される。
具体的にどのような処分がされるのかは、彼女も知らないそうだ。しかし、失敗作はトラックに乗せられ、遠い所へ運ばれるらしい。殺されるんじゃないかと思った彼女はトラックに乗り込むふりをして逃げ出し、一晩中走り続けた。
そして、私の家の前でへばっていた、と。
私は、目の前でおいしそうに安物のプリンを食べている彼女を見た。左腕の包帯は彼女自身で巻き直していたが、みっともないくらいガタガタになってしまっている。その下にある傷は、「消毒して絆創膏」なんてレベルではなかった。普通なら、泣き叫ぶくらいに痛いはずだ。……というか、それくらい痛そうに見える。
「それ、痛くないの?」
私が尋ねると、彼女はぱっと顔をあげた。口の端にプリンがくっついている。
「いたくないように、せんせーがしてくれたんだって」
それだけ答えると、彼女の視線はプリンへと戻った。
彼女の話が、嘘だとは思えなかった。嘘だとしたらかなり壮大だし、下手すぎる。話が現実離れしている分だけ、かえって本当のことのように思えた。
彼女の話が本当だとして、私はどうすればいいのだろう。
「おねーちゃん、名前なんていうの?」
プリンを食べ終わり、手を合わせている彼女にそう訊かれて、
「……唯」
私は久しぶりに、自分の名前を口にした。
L-835だと呼びにくいので、下二桁をもじって「さんご」と呼ぶことにした。
病院に行こうと私が勧めると、さんごは首を振った。
「せんせーが、もうなおらないって、言ってた」
「分かんないよ。もしかしたら治るかもしれないし、それに」
「ううん」
彼女は自分の左腕を見ながら、
「せんせーはね、すごい人なの。なおせる子ならなおしてくれるの。すてられたってことは、私はもうなおらないんだよ」
残酷な言葉を、明るい声で吐き出した。
彼女は自分の命を諦めているわけではなかった。
だからこそ、逃げ出した。
けれど、自分の命がもうすぐ「終わる」ことも知っていた。
彼女はそれを受容したうえで、生きようとしているんだ。
最期まで。
彼女が生きたがっているこの世界は、そんなに素敵なものではないと私は思っていた。
むしろ、くだらないものだと。
この世界も、現実も、彼女が思っているほど綺麗なものじゃない。
けれど彼女は、些細なものを拾いあげては綺麗だと言った。
それは青空だったり、飛んでいる鳥だったり、プリンの光沢だったり。
青空も鳥も、これまで見たことがなかったのだと彼女は笑った。
私にとっての「普通」は、彼女にとっての「普通」ではなかった。
私の「くだらないもの」は、彼女の「綺麗なもの」だった。
私は、馬鹿だ。
さんごと暮らし始めて2週間が過ぎようとしていた。
くだらないと全てを一蹴していた私は久しぶりに、真剣に物事に向かい合っていた。
彼女を治す方法を、私は懸命に探した。探すといってもインターネットで調べるくらいしかできないし、頭の隅では分かっていた。
彼女の身体は、治らないのだと。
「ゆいちゃん! みてみて、かまきり!!」
さんごに呼ばれて、私はベランダへと向かった。生まれたばかりなのか、小さくて柔らかそうな緑色のカマキリが、ベランダの隅でじっとしていた。
「きれい。かわいいねえ」
そう言って笑うさんごの後姿を、私は見つめた。左腕の『傷』はどんどん広がって、背中にまで届いていた。
あまり使いたくない単語。けれど今のさんごに一番あっているのは、「ゾンビ」という言葉だった。
私は彼女の背中にそっと触れた。包帯と服の上からでも、体温があるのが分かる。
ゾンビなんかじゃない。彼女は生きている。限られた時間を、一生懸命に。
「きれい」
綺麗なのはこの世界ではなくて、それを映し出すさんごの眼だ。
限られた時間の中を生きているのは私も同じで、けれども私は一生懸命ではなかった。
くだらないプライドで世間の全てを見下して、殻の中に閉じこもった。
それで得たものは何もない。ただ一人ぼっちになっただけだ。
私がくだらないと言ったその時間を、彼女は懸命に生きていた。
私が部屋で無駄に過ごした時間を、彼女にあげることはできない。
呪いのように広がっていく赤黒いものを、抑える術もない。
彼女はきっと、もうすぐ――
「……ゆいちゃん?」
私が泣いていることに気付いたさんごが振り向いた。私は両手で顔を覆い、その場にしゃがみこむ。
「ゆいちゃん、ゆいちゃん。どうしたの?」
彼女の言葉に、答えられなかった。
声を出したら、自分の中にある何かが崩れてしまいそうな気がした。
……違う。きっともう、崩れているんだ。
それを元に戻す方法も、力も、今の私にはなかった。
猫は死ぬ前に、人目につかない場所に移動する。
実はその話は嘘で、猫には死という概念がない。体調が悪くなったら、外敵から身を守るために移動するだけ。つまり、もうすぐ死ぬから移動するというわけではないらしい。
……この話が本当なのかどうかは知らない。だって私は、猫じゃないから。
さんごは猫じゃない。そして私はさんごじゃない。
だから彼女が、自分の死を予期したのかどうかは分からない。
はっきりしていることは、彼女が突然いなくなってしまったということだけだ。
「さんご……?」
朝起きた時にはもう、彼女の姿はなかった。彼女が大切にしていたプリンの容器が、いくつか床に転がっている。私はそれを拾い上げながら、さんごを探した。
本当は分かっていた。彼女はもう、この家にはいない。
きっと、『ここ』にはもう、いない。
――彼女はきっと、綺麗なものを探しに行ったんだ。
プリンの容器が、私の眼から零れおちたものを受け止めた。
くだらないと思っていた世界で、私は20歳の誕生日を迎えた。さわやかな青空の中に鳥のさえずりが聞こえるような、平和な朝だった。
「今日くらい休んでもいいよね」
私は独りごちてから、部屋の窓を開けた。その瞬間強い風が吹き、机の上に置いてあったプリンの容器と医学書が、床に散乱した。
「あーあー」
私は窓を閉めると、床に散らばったものを拾い始めた。
1年以上読み続けている医学書は、汚れが目立つようになってきている。
けれどこの本も、彼女なら「きれい」と言うだろう。
どこまで出来るかは、分からない。医者になれるかどうかだって、分からない。
はっきりしているのは、崩れていたものを自分で少しずつ修復しているということ。
そしてそのために、壊したものがあるということ。
それが、彼女のおかげだということ。
「――綺麗なものを、探しに行こうか」
私はここにはいない彼女に向かって笑いかけ、ゆっくりと扉を開いた。
・科学者の手記(一部抜粋)
2004年 8月13日
また腐り始めた。失敗だ。一般的なヒトの何倍もの速さでクローン人間を成長させる(倍速成長の)ためには、促進剤を投与するだけでは足りないようだ。急激な成長についていけなかった細胞たちが、死滅していく。
失敗作が増え始めたが仕方がない。実験に失敗はつきものだ。
実験体の痛覚を麻痺させることにした。そうしなければ、奴らは痛さのあまり泣き、叫び、わめき、もがく。まるで、瀕死のゴキブリのように。
文字通り「腐ったヒト」が、もがく姿。おぞましい光景だ。早く研究を成功させたい。
失敗するたびに、化け物が増えていく。
2006年 8月14日
失敗作の処分は、「裏」の奴らに任せている。金さえ払えばどんな仕事でもやってくれる連中。実にありがたい。死体を処理する方法にも長けているので、彼らに任せていれば問題ない。そう思っていた。
失敗作が一体、今日の「搬送中」に逃げ出したらしい。
連中から詳しい話を聞いたところ、どうも20倍速に失敗したクローンのようだ。身体年齢は13歳ほど。あのクローンには、脳に電磁波を流す実験も施してある。知能は8歳ほどだろうか。しかしまさかあのクローンに、逃げ出すほど体力が残っているとは思っていなかった。痛覚を麻痺させているせいだろうか。
どうせあのクローンは、すぐに死んでしまうだろう。
私の実験に支障をきたさないかどうか。それだけが心配である。