お前は『おかえり』と言うだけだろう」と婚約破棄されたので、もう殿下の帰りは待ちません
「お前は毎晩、城門に立って『おかえり』と言うだけだろう。そんな女を王妃にはできない」
婚約者のエドガー王太子は、私が七年間続けてきた仕事を、たった一言で片づけた。
「ですから婚約を解消する、と?」
「ああ。新しい聖女なら、もっと立派な魔法で兵を守れる」
謁見の間には貴族たちが並んでいた。王太子の隣には、金の髪をした聖女がいる。彼女の手の上には、昼の日差しにも負けない光球が浮かんでいた。
「承知しました」
私は頭を下げた。
「では殿下のお名前を、今夜から灯さないことにします」
「……好きにしろ。そもそも私は、あんな薄暗い灯など必要としていない」
私はもう一度礼をして、王城を出た。
泣かなかったのは、悔しくなかったからではない。
日が暮れるまでに、しなければならないことがあったからだ。
*
この国の北の国境には、帰り道を奪う霧がある。
霧に入った者は方角を忘れ、足跡を見失い、最後には自分の名前さえ思い出せなくなる。昔は戦争から生きて戻れた兵士のうち、半数近くがその霧で行方不明になったという。
それを防ぐのが『迎え灯』だった。
小さな硝子の灯籠に、帰ってきてほしい人の名前を書いた札を入れる。そして毎晩、火を点す。その人の帰りを心から願っている者が灯せば、光は霧の中に一本の道を作る。
大層な魔力は要らない。
ただし、願いを偽ることはできなかった。
私は十六歳のとき、戦に出た兄のために初めて灯をともした。兄は右足を失って帰ってきたが、生きていた。
『お前が待っていてくれたから、帰る方角だけはわかった』
そう言って泣いた兄は、翌年、傷がもとで亡くなった。
それから私は、帰りを待つ者のいない兵士の名も灯すようになった。身寄りのない人。家族と縁の切れた人。手紙を書く相手さえいない人。
王太子がその話を聞き、私を婚約者に選んだ。
『国のために尽くす、素晴らしい令嬢だ』
あのときは、そう褒めてくれた。
七年間で、灯籠は二百三十七個になった。
毎夜、その一つひとつの札を確かめ、名前を呼び、帰る人を思い浮かべる。帰ってきた兵士の札は外し、新しく出征した兵士の札を入れる。
ただ、それだけだ。
王太子の言うとおり、私の仕事は誰にでもできる。
けれど、一度だって、どうでもいい仕事だと思ったことはなかった。
*
城門に着くと、見張りの老兵が私の姿を見て顔色を変えた。
「ソフィア様。殿下が迎え灯をすべて撤去するようにと……」
「聞いています。ですから、引き取りに来ました」
「しかし、王家の備品です」
「硝子と金具は置いていきます。中の名前だけ、返してください」
老兵は黙って門の脇へ案内してくれた。
二百三十七枚の札は、木箱に放り込まれていた。
私は一枚ずつ拾った。端の擦り切れた札。字を覚えたばかりのころに書いた、曲がった文字。裏に小さく『甘い菓子が好き』と記した札。
知らない人の名前なんて、一つもなかった。
最後の札を見つけたところで、老兵が言った。
「何か、お手伝いできることはありませんか」
「……それなら、灯籠を作れる職人を紹介してください」
「二百個も?」
「いいえ」
私は札の束を胸に抱いた。
「一個で十分です。そこから始めます」
その夜、私は王城の外にある小さな宿屋の窓辺で、一つの灯をともした。
紙を細く切って書き直した二百三十六の名前を、ひとつの大きな灯籠に入れた。殿下の名前だけは入れなかった。
炎は弱々しく揺れた。王城から離れれば灯は届かないと言われていたのに、火は青い筋を夜空へ伸ばしていた。
二百三十六人分の道を、一人の願いだけで支えるには、少し無理があった。
それでも消さなかった。
窓辺に頬を寄せて、私は小さくつぶやいた。
「どうか、帰ってきて」
*
三日後、北方から急使が届いた。
国境の守備隊が、霧に呑まれたのだ。
新しい聖女の光は大きく、遠くからでも見えた。けれど、霧の中に道は現れなかった。彼女は兵士の顔も名前も知らなかったのだから、当然だ。
王太子は腹を立てているらしい。
『あの女に責任を取らせろ』
宿屋までやってきた使者は、そう書かれた命令書を差し出した。
「今すぐ城へ戻り、迎え灯を再開せよとのことです」
「お断りします」
「殿下のお命令ですよ」
「私はもう、殿下の婚約者ではありません。それに――」
私は窓辺の灯を指した。
「やめていません。ここで、ずっと続けています」
使者は弱い炎を見て鼻で笑った。
「そんな小さな火で、兵士が帰れるものですか」
そのとき、宿屋の女将が階段を駆け上がってきた。
「ソフィア様! 下へ来てください!」
一階の食堂には、見知らぬ人たちが集まっていた。
粉で白くなった手のパン屋。洗濯物を抱えた女。杖をついた老人。小さな子供までいる。
「兵士の名前を呼んで灯をともしてくださっている方は、あなたですか」
洗濯女が尋ねた。
「はい」
「私の息子も、北へ行っています。いままで城では家族は灯を置けないと言われて……。私にも、手伝わせてください」
「俺の弟もだ」
「うちの父ちゃんも!」
私はうまく返事ができなかった。
迎え灯は王城でともすもの。そう教わって、私も疑わずにいた。けれど、城外の宿屋でともした灯は、ちゃんと霧へ届いていた。
誰がどこで待っていても、帰ってほしいという願いに違いはないのだ。
私は木箱から、名前の札を取り出した。
「皆さん。帰ってきてほしい人のお名前を、教えてください」
その夜、宿屋の窓は、大小さまざまな灯籠で埋まった。
翌日には隣家の窓にも。その翌日には市場にも。
子供たちは紙の代わりに木片を使い、字を書けない人は職人に名前を刻んでもらった。
ひとりの兵士を待つ灯が、十になり、百になった。
灯は霧の中で重なり合い、太い道になった。
*
最初の兵士が帰ってきたのは、七日目の朝だった。
泥だらけの軍靴で宿屋に転がり込んできた若い男は、食堂で母親の顔を見た途端、膝から崩れた。
「……母さんの声が聞こえた」
「馬鹿ね。声なんて届くわけないでしょう」
「でも、ずっと聞こえたんだ。帰っておいでって」
女将が泣き、パン屋も泣いた。
私は嬉しくて、泣くのを忘れた。
そのあとも帰還者は続いた。
二人、五人、十二人。
その中に、私がずっと待っている名前は、まだなかった。
ルーカス・フェルナー。
北方守備隊の隊長。孤児院で育ち、帰郷する家もない人。
七年前、私が彼の札を作ろうとしたとき、彼は困ったように笑った。
『私の名はいい。待ってくれる者などいないから』
『なら、私が待ちます』
あのとき彼は、私の手の中の灯を見つめていた。
『……それは、帰らなければなりませんね』
それから出征のたび、彼は必ず城門で私に礼を言った。
婚約者がいた私に、それ以上のことを言う人ではなかった。
私は毎晩、灯に願った。
帰ってきてほしい、と。
けれど、八日目。戻った兵士が重い知らせを持ってきた。
「フェルナー隊長は、最後尾に残りました。橋が崩れて、もう……」
食堂が静まり返った。
私は札の束から彼の名前を見つけ、両手で握りしめた。
ここで諦めたら、きっと霧の中の彼まで帰り道を失う。
「まだ、灯を消さないでください」
私は皆に頼んだ。
「私も消しません。帰ってくると、信じていますから」
*
十日目の夜、王太子が宿屋へやってきた。
「ソフィア。王城に戻れ。お前の迎え灯は国の財産だ」
その後ろには、肩を落とした聖女がいた。
「私、知らなかったんです」
彼女が震える声で言った。
「灯を作れば、誰でも代わりが務まると思っていました。帰ってほしい人の名前を覚えることが、こんなに大変だなんて」
私は首を振った。
「名前を全部覚えなくてもいいんです。一人でいい。あなたが、本当に帰ってきてほしい人を」
彼女は涙をこぼし、小さくうなずいた。
王太子だけが、いら立った顔で腕を組んでいた。
「話は済んだか。戻るぞ」
「戻りません」
「またその話か! 私の兵を見捨てるつもりか」
私はまっすぐ彼を見た。
「婚約が終わっても、私はあの人たちの帰りを待っていました」
「何を言っている?」
「殿下。私が見捨てたのは、あなたとの婚約だけです」
食堂の奥で、誰かが小さく拍手した。
王太子は怒鳴り返そうとして、やめた。
窓の外に、何百もの灯が見えたからだ。
パン屋の窓にも、職人の工房にも、貧しい家の屋根裏にも。
王城の大魔法陣とは比べものにならない、小さな光だった。
「……あれを、全部お前が?」
「いいえ。みんなで灯したんです」
そのとき、宿屋の扉が開いた。
冷たい風が吹き込み、泥と血の匂いがした。
「失礼。ここに、ソフィア・アルベルト嬢はいらっしゃいますか」
私は振り返った。
扉のところに、右腕を包帯で吊った男が立っていた。
ルーカスだった。
「……どうして」
「橋の下の岩場に落ちました。霧で何も見えなくなりましたが、一つだけ、消えない光があったので」
彼は私の手にある、擦り切れた名前の札を見た。
「約束を守りに、帰ってきました」
私はとうとう泣いた。
ルーカスはぎこちなく片腕を広げ、私はそこへ飛び込んだ。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
それだけで、七年間の夜が報われた気がした。
*
春になり、王国では新しい習慣ができた。
出征する兵士の家族や友人が、それぞれの家の窓に迎え灯を置く。帰る場所のない兵士には、街の誰かが灯す。
聖女は王城を出て、字を書けない人のために名前札を作る手伝いを始めた。
王太子は、軍の帰還制度を独断で廃止した責任を問われ、北方の復旧事業へ送られたという。
私も城には戻らなかった。
小さな宿屋の隣に、迎え灯を作る工房を開いた。
ある夕方、店じまいをしていると、戸口にルーカスが立っていた。
「今日は、報告があります」
「また北へ行くんですか」
「いいえ。守備隊を退きました。それで……」
普段は落ち着いた人なのに、彼はひどく緊張しているようだった。
「これから先、私が帰る場所を、あなたの隣にしてもいいでしょうか」
私は答える前に、奥から新しい灯籠を持ってきた。
硝子の内側には、二つの名前が並んでいる。
ルーカスと、私の名前。
「もう、作ってあります」
彼は目を丸くしたあと、笑った。
私の額にそっと触れた手は、戦で傷だらけだったけれど、温かかった。
「では、ただいま」
「おかえりなさい」
何百もの人のために、私はこれまで灯をともしてきた。
今夜からは、一つだけ、私自身のためにも灯すことにする。
私の帰りを待ってくれる人が、この家にいるのだから。




