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お前は『おかえり』と言うだけだろう」と婚約破棄されたので、もう殿下の帰りは待ちません

作者: 奈鹿村
掲載日:2026/11/06

「お前は毎晩、城門に立って『おかえり』と言うだけだろう。そんな女を王妃にはできない」


 婚約者のエドガー王太子は、私が七年間続けてきた仕事を、たった一言で片づけた。


「ですから婚約を解消する、と?」


「ああ。新しい聖女なら、もっと立派な魔法で兵を守れる」


 謁見の間には貴族たちが並んでいた。王太子の隣には、金の髪をした聖女がいる。彼女の手の上には、昼の日差しにも負けない光球が浮かんでいた。


「承知しました」


 私は頭を下げた。


「では殿下のお名前を、今夜から灯さないことにします」


「……好きにしろ。そもそも私は、あんな薄暗い灯など必要としていない」


 私はもう一度礼をして、王城を出た。


 泣かなかったのは、悔しくなかったからではない。


 日が暮れるまでに、しなければならないことがあったからだ。


     *


 この国の北の国境には、帰り道を奪う霧がある。


 霧に入った者は方角を忘れ、足跡を見失い、最後には自分の名前さえ思い出せなくなる。昔は戦争から生きて戻れた兵士のうち、半数近くがその霧で行方不明になったという。


 それを防ぐのが『迎え灯』だった。


 小さな硝子の灯籠に、帰ってきてほしい人の名前を書いた札を入れる。そして毎晩、火を点す。その人の帰りを心から願っている者が灯せば、光は霧の中に一本の道を作る。


 大層な魔力は要らない。


 ただし、願いを偽ることはできなかった。


 私は十六歳のとき、戦に出た兄のために初めて灯をともした。兄は右足を失って帰ってきたが、生きていた。


『お前が待っていてくれたから、帰る方角だけはわかった』


 そう言って泣いた兄は、翌年、傷がもとで亡くなった。


 それから私は、帰りを待つ者のいない兵士の名も灯すようになった。身寄りのない人。家族と縁の切れた人。手紙を書く相手さえいない人。


 王太子がその話を聞き、私を婚約者に選んだ。


『国のために尽くす、素晴らしい令嬢だ』


 あのときは、そう褒めてくれた。


 七年間で、灯籠は二百三十七個になった。


 毎夜、その一つひとつの札を確かめ、名前を呼び、帰る人を思い浮かべる。帰ってきた兵士の札は外し、新しく出征した兵士の札を入れる。


 ただ、それだけだ。


 王太子の言うとおり、私の仕事は誰にでもできる。


 けれど、一度だって、どうでもいい仕事だと思ったことはなかった。


     *


 城門に着くと、見張りの老兵が私の姿を見て顔色を変えた。


「ソフィア様。殿下が迎え灯をすべて撤去するようにと……」


「聞いています。ですから、引き取りに来ました」


「しかし、王家の備品です」


「硝子と金具は置いていきます。中の名前だけ、返してください」


 老兵は黙って門の脇へ案内してくれた。


 二百三十七枚の札は、木箱に放り込まれていた。


 私は一枚ずつ拾った。端の擦り切れた札。字を覚えたばかりのころに書いた、曲がった文字。裏に小さく『甘い菓子が好き』と記した札。


 知らない人の名前なんて、一つもなかった。


 最後の札を見つけたところで、老兵が言った。


「何か、お手伝いできることはありませんか」


「……それなら、灯籠を作れる職人を紹介してください」


「二百個も?」


「いいえ」


 私は札の束を胸に抱いた。


「一個で十分です。そこから始めます」


 その夜、私は王城の外にある小さな宿屋の窓辺で、一つの灯をともした。


 紙を細く切って書き直した二百三十六の名前を、ひとつの大きな灯籠に入れた。殿下の名前だけは入れなかった。


 炎は弱々しく揺れた。王城から離れれば灯は届かないと言われていたのに、火は青い筋を夜空へ伸ばしていた。


 二百三十六人分の道を、一人の願いだけで支えるには、少し無理があった。


 それでも消さなかった。


 窓辺に頬を寄せて、私は小さくつぶやいた。


「どうか、帰ってきて」


     *


 三日後、北方から急使が届いた。


 国境の守備隊が、霧に呑まれたのだ。


 新しい聖女の光は大きく、遠くからでも見えた。けれど、霧の中に道は現れなかった。彼女は兵士の顔も名前も知らなかったのだから、当然だ。


 王太子は腹を立てているらしい。


『あの女に責任を取らせろ』


 宿屋までやってきた使者は、そう書かれた命令書を差し出した。


「今すぐ城へ戻り、迎え灯を再開せよとのことです」


「お断りします」


「殿下のお命令ですよ」


「私はもう、殿下の婚約者ではありません。それに――」


 私は窓辺の灯を指した。


「やめていません。ここで、ずっと続けています」


 使者は弱い炎を見て鼻で笑った。


「そんな小さな火で、兵士が帰れるものですか」


 そのとき、宿屋の女将が階段を駆け上がってきた。


「ソフィア様! 下へ来てください!」


 一階の食堂には、見知らぬ人たちが集まっていた。


 粉で白くなった手のパン屋。洗濯物を抱えた女。杖をついた老人。小さな子供までいる。


「兵士の名前を呼んで灯をともしてくださっている方は、あなたですか」


 洗濯女が尋ねた。


「はい」


「私の息子も、北へ行っています。いままで城では家族は灯を置けないと言われて……。私にも、手伝わせてください」


「俺の弟もだ」


「うちの父ちゃんも!」


 私はうまく返事ができなかった。


 迎え灯は王城でともすもの。そう教わって、私も疑わずにいた。けれど、城外の宿屋でともした灯は、ちゃんと霧へ届いていた。


 誰がどこで待っていても、帰ってほしいという願いに違いはないのだ。


 私は木箱から、名前の札を取り出した。


「皆さん。帰ってきてほしい人のお名前を、教えてください」


 その夜、宿屋の窓は、大小さまざまな灯籠で埋まった。


 翌日には隣家の窓にも。その翌日には市場にも。


 子供たちは紙の代わりに木片を使い、字を書けない人は職人に名前を刻んでもらった。


 ひとりの兵士を待つ灯が、十になり、百になった。


 灯は霧の中で重なり合い、太い道になった。


     *


 最初の兵士が帰ってきたのは、七日目の朝だった。


 泥だらけの軍靴で宿屋に転がり込んできた若い男は、食堂で母親の顔を見た途端、膝から崩れた。


「……母さんの声が聞こえた」


「馬鹿ね。声なんて届くわけないでしょう」


「でも、ずっと聞こえたんだ。帰っておいでって」


 女将が泣き、パン屋も泣いた。


 私は嬉しくて、泣くのを忘れた。


 そのあとも帰還者は続いた。


 二人、五人、十二人。


 その中に、私がずっと待っている名前は、まだなかった。


 ルーカス・フェルナー。


 北方守備隊の隊長。孤児院で育ち、帰郷する家もない人。


 七年前、私が彼の札を作ろうとしたとき、彼は困ったように笑った。


『私の名はいい。待ってくれる者などいないから』


『なら、私が待ちます』


 あのとき彼は、私の手の中の灯を見つめていた。


『……それは、帰らなければなりませんね』


 それから出征のたび、彼は必ず城門で私に礼を言った。


 婚約者がいた私に、それ以上のことを言う人ではなかった。


 私は毎晩、灯に願った。


 帰ってきてほしい、と。


 けれど、八日目。戻った兵士が重い知らせを持ってきた。


「フェルナー隊長は、最後尾に残りました。橋が崩れて、もう……」


 食堂が静まり返った。


 私は札の束から彼の名前を見つけ、両手で握りしめた。


 ここで諦めたら、きっと霧の中の彼まで帰り道を失う。


「まだ、灯を消さないでください」


 私は皆に頼んだ。


「私も消しません。帰ってくると、信じていますから」


     *


 十日目の夜、王太子が宿屋へやってきた。


「ソフィア。王城に戻れ。お前の迎え灯は国の財産だ」


 その後ろには、肩を落とした聖女がいた。


「私、知らなかったんです」


 彼女が震える声で言った。


「灯を作れば、誰でも代わりが務まると思っていました。帰ってほしい人の名前を覚えることが、こんなに大変だなんて」


 私は首を振った。


「名前を全部覚えなくてもいいんです。一人でいい。あなたが、本当に帰ってきてほしい人を」


 彼女は涙をこぼし、小さくうなずいた。


 王太子だけが、いら立った顔で腕を組んでいた。


「話は済んだか。戻るぞ」


「戻りません」


「またその話か! 私の兵を見捨てるつもりか」


 私はまっすぐ彼を見た。


「婚約が終わっても、私はあの人たちの帰りを待っていました」


「何を言っている?」


「殿下。私が見捨てたのは、あなたとの婚約だけです」


 食堂の奥で、誰かが小さく拍手した。


 王太子は怒鳴り返そうとして、やめた。


 窓の外に、何百もの灯が見えたからだ。


 パン屋の窓にも、職人の工房にも、貧しい家の屋根裏にも。


 王城の大魔法陣とは比べものにならない、小さな光だった。


「……あれを、全部お前が?」


「いいえ。みんなで灯したんです」


 そのとき、宿屋の扉が開いた。


 冷たい風が吹き込み、泥と血の匂いがした。


「失礼。ここに、ソフィア・アルベルト嬢はいらっしゃいますか」


 私は振り返った。


 扉のところに、右腕を包帯で吊った男が立っていた。


 ルーカスだった。


「……どうして」


「橋の下の岩場に落ちました。霧で何も見えなくなりましたが、一つだけ、消えない光があったので」


 彼は私の手にある、擦り切れた名前の札を見た。


「約束を守りに、帰ってきました」


 私はとうとう泣いた。


 ルーカスはぎこちなく片腕を広げ、私はそこへ飛び込んだ。


「おかえりなさい」


「……ただいま」


 それだけで、七年間の夜が報われた気がした。


     *


 春になり、王国では新しい習慣ができた。


 出征する兵士の家族や友人が、それぞれの家の窓に迎え灯を置く。帰る場所のない兵士には、街の誰かが灯す。


 聖女は王城を出て、字を書けない人のために名前札を作る手伝いを始めた。


 王太子は、軍の帰還制度を独断で廃止した責任を問われ、北方の復旧事業へ送られたという。


 私も城には戻らなかった。


 小さな宿屋の隣に、迎え灯を作る工房を開いた。


 ある夕方、店じまいをしていると、戸口にルーカスが立っていた。


「今日は、報告があります」


「また北へ行くんですか」


「いいえ。守備隊を退きました。それで……」


 普段は落ち着いた人なのに、彼はひどく緊張しているようだった。


「これから先、私が帰る場所を、あなたの隣にしてもいいでしょうか」


 私は答える前に、奥から新しい灯籠を持ってきた。


 硝子の内側には、二つの名前が並んでいる。


 ルーカスと、私の名前。


「もう、作ってあります」


 彼は目を丸くしたあと、笑った。


 私の額にそっと触れた手は、戦で傷だらけだったけれど、温かかった。


「では、ただいま」


「おかえりなさい」


 何百もの人のために、私はこれまで灯をともしてきた。


 今夜からは、一つだけ、私自身のためにも灯すことにする。


 私の帰りを待ってくれる人が、この家にいるのだから。

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