恋バナ
「では、例題を参考にしてこの問題を解いてみましょう」
アイリスは数学の問題を指し示すように、テキストをレイチェルに向けた。
レイチェルは唸りつつ、ペンを握る。
当初の予定通り、レイチェルへの授業は数学と科学の二科目だけだ。そして、レイチェルはその二科目が苦手らしい。国語や音楽、古典は得意な彼女は完全に文系の頭脳なのだろう。
数学の授業を行っていると、レイチェルは問題を睨んだままだ。
ペンを持ったり置いたり。落ち着かない。彼女は考えていることがわかりやすい。
兄とは大違いね。
アイリスはこっそり笑った。
「数学の何が面白いのか、さっぱりわかんない。面積や確率なんてわからなくても困らないし、兄と弟どっちの方が先に店に着くとかそんなの興味ない!」
「そうですねぇ。わたくしもそれは関心はないんですけどね」
「そうでしょ!? だったらこんなの解いても意味なくないですか!? 数学なんて全然好きになれない」
「ふふ……正解は基本的にひとつしかないので、わたくしはそこに辿り着く気持ちよさが好きですよ」
「だって辿り着けないもの!」
数学の嫌なところをツラツラと並べるレイチェル。友人のリディアと同じようなことを言っていて面白い。
数学が苦手なひとたちの発想は似ているらしい。
学生時代の勉強会を思い出し、頬がうずうずする。
式を書きかけては、消し、書きかけては消していたレイチェルは、大きなため息をついた。
ちらりと伺うようにアイリスを仰ぎ見る。
「ねえ、先生。少し休憩しません?」
「あら、さっきも休憩しましたよ」
アイリスにあっさりと返されて、レイチェルはテーブルにつっぷした。正解の方程式には辿り着けず、限界に来たのだろう。
その様子がかわいくて、アイリスはついに吹き出してしまう。
「では、お茶にしましょうか」
「ほんと!」
「ええ。そのかわり、この一問を解いてからですけど」
「えー!」
「教師としてここにいますので、あしからず」
アイリスが微笑むと、レイチェルは表情は急降下した。
期待していただけに納得いかないレイチェルは口を尖らせる。
「でもぉ」
「そのかわり、その一問が終わったら、今日はお茶会のマナーにしましょう」
「やった!」
お茶会のマナーなど、侯爵令嬢が知らぬわけがない。
それは体のいい理由だ。
それが伝わった妹は、一生懸命数学の文章問題に取り掛かる。
集中力にいささか欠けるものの、人となりは悪い子ではない。素直な子だ。
関わりやすい子でよかったと思いながら、アイリスは彼女が一生懸命問題を解くのを見つめていた。
途中問題に行き詰ったレイチェルに、アイリスがヒントを与えながら解に辿り着いたのは、ついさっきのことだ。
数学のテキストとノートが広げられていたテーブルには、今紅茶のカップと焼き菓子が並べられている。硝子のポットにはストロベリーティーが茶葉を踊らせている。
メイドがカップに注ぐと、イチゴのほんのりとした甘い香りが鼻孔をくすぐる。
カップに口をつけたレイチェルは、ほうとため息をもらした。
勉強が終われば、女同士。甘いお菓子に癒されて、すっかりリラックスムードだ。
「お兄さまが家庭教師を連れてくるって言うから、どんな先生かと緊張してたけど。アイリス先生でよかったー」
「でも、勉強はスチュアートさま……お兄様に教えてもらった方がわかりやすいのではなくて?」
自分が家庭教師に、と声をかけられたことに疑問があった理由のひとつがこれだ。
確かにアイリスは理系科目が得意だが、スチュアートはそれ以上だ。王太子レオポルド、学友ミハイルと三人共に学業優秀だったが、その中でもスチュアートは群を抜いていた。
だから、学力からいって彼以上に適任はいないと思ったのだ。
アイリスの考えはわかっているといった様子で、レイチェルは肩を竦める。
「お兄様は確かにわかりやすいけど、こんなふうに休憩させてくれないから、疲れちゃうもの」
スパルタよ、スパルタ、とレイチェルはさらに続けた。
確かに超がつくほどの真面目なスチュアートなら、学校のようにスケジュールを組みかねない。
成績上昇のためのカリキュラムを組み、それに則って授業をするだろう。
それはこの妹には厳しいかもしれない。
厳しい口調のスチュアートを想像して、アイリスは渇いた笑いをこぼした。
レイチェルは上目遣いでちらちらとアイリスに視線を送る。
「ねえ、アイリス先生」
「ん?」
「先生って結婚していらっしゃるの?」
「……」
何も言えず、つい言葉が詰まってしまった。
レイチェルが疑問に思うのは、当然だ。
通常家庭教師というのは、すでに子供が大きく手が離れた中年女性か、夫に先立たれた未亡人が多い。これから結婚を控えた未婚女性が家庭教師につくことは珍しい。
だから、アイリスを既婚者かと思うのは自然なことだった。
適当に答えてもよかったのかもしれない。だが、今のアイリスには酷だった。
本当なら、今頃は妻になっているはずだった。
自分がいるはずだった場所は、今はもうない。
エリオットの隣は、すでにイザベラのものだ。
二人が並んでいる光景が瞼に浮かび、アイリスの胸の奥が冷たく冷える。
前を向こうと思っているのに、気づくとエリオットのことを考えてしまう。
未練たらしいとわかっていても。
今目の前にいるレイチェルより幼い頃から婚約していたのだ。その頃からともに過ごしてきた。
初めてデートをしたのも、エリオットだった。
初めて花をもらったのも。
初めて手を繋いだのも。
エリオットの隣で神に誓うのだと思っていたのに。
彼の妻になり、いずれ彼の子を生むのだと漠然と描いていた未来予想図。
それはいとも簡単に崩れ去ってしまった。
いつの間にか他の女性に視線を奪われたエリオット。
気づいてはいたけれど、一時的なものだと思っていた。
浮ついたことがあっても、最後に戻ってくるのはわたくしのところだと。
完全に心変わりしてしまっていたなんて。
別れ話を持ちかけられるなんて、微塵も想像していなかった。
エリオットの両親は、彼を咎めることも止めることもなかった。
愛し合う二人を引き割くことが悪なんだと。
邪魔者はわたくしなのだと、周囲から言われた気がした。
思い出すと胸の奥がまだ痛い。ひりついて、じくじくと病む。
生々しい傷は、未だアイリスを支配していた。
「決まった相手は、今は……まだ、いないの」
そう答えるのがやっとだった。
「そうなんだ。アイリス先生美人だから、てっきり婚約者か旦那様がいるのかと思ってた」
無邪気に笑うレイチェルに、アイリスは安堵した。こうして会話をする相手が彼女でよかった。
まだ幼さの残る彼女は、裏を探ろうとすることもない。
心配するフリをして嘲笑することもない。
裏表のない人間関係は、こんなにも安心するものだったのか、と実感する。
胸の痛みが遠退き、アイリスは焼き菓子に手を伸ばす。
すると、レイチェルがワクワクした様子で目を輝かせた。
「じゃあ、先生はどんな男性と結婚したい?」
「え?」
「私は、穏やかで優しくて、頼れる方だったらいいな」
きっと幸せで素敵な未来予想図を想い描いているんだろう。一点の曇りもないグリーンアイズは、理想を夢見ている。恋に恋するお年頃。
そんな彼女を見ていると眩しい。
かつて自分もそんな話で盛り上がっていた。親友のロゼッタとリディアの三人で、お菓子とお茶を囲んでおしゃべりに勤しんだ。
ロゼッタはフィクション限定で甘い恋愛ストーリーが好みだった。たったひとりを愛する運命のひと。そんなストーリーに夢中になっていた彼女。現実は政略結婚を甘んじて受け入れると言っていたけれど。そんな彼女は結果的に王太子レオポルドに見初められて今や王太子妃内定。
対してリディアは、ふんわりした少女風の見た目に反してリアリスト。フィクションでも現実でも求めるのは安心できる男性。妙な投資話に乗らないような堅実な人がいいのだ、と言ったときには、私もロゼッタも彼女は人生二度目なのではないかと疑ったほどだ。彼女も今は王太子のご学友であるミハイル・カークライトとの縁談が進んでいるらしい。現国王の覚えめでたい公爵家だ。彼女の望む安定は約束されている。
三人の中で一番恋に夢を抱いていたのは、アイリスだった。
愛し愛され、いつまでも仲睦まじく、互いに寄り添って生きていく夫婦。そうなりたいと思っていた。お互いだけを見つめていけるようなそんな二人に。
三人がそれぞれ結婚して、夫人と呼ばれるようになっても集まろう。
夫の話や子どもの話、楽しく語らい合おう。
そんなふうに夢見ていた頃もあったのに。
きっと、そんなふうに憧れることはもうない。
男性に期待をすることもこわい。
信じても裏切られる気がして。
いっそこのまま、独身のままいられればいいのに。
それなら、もう浮気に怯えることもない。
自分のそばから離れていく背中を見ることもない。
去っていくエリオットの背中を思い出しただけで、胸の奥がちくちくと痛む。
もう……終わったことだというのに。
ぬるくなってしまった紅茶を喉に流しこんだ。
喉の奥に苦みが残る。
考えごとをしていたアイリスは、目の前のレイチェルがどこかうずうずとした顔をしていることに気づかなかった。
「ねえ、もしかしてアイリス先生、お兄さまと恋仲なの?」
突然飛び込んできた言葉に、アイリスは盛大にむせた。
「な、ちょ、ど、な」
「ちょっと、先生、大丈夫?」
大丈夫ではない。
紅茶が一気に気管に流れ込んできたのだ。目が潤むほどむせている。
そうなるのも当然だ。
突然スチュアートと恋仲、なんて言葉が聞こえてきたのだから。
あのスチュアートと。
あるわけがない。
茶会のマナーなど全て吹き飛んで、アイリスは呼吸を整えるのに必死だった。
「そ、そ、そんわなけ」
「なんだあ。違うんだぁ。アイリス先生がお兄さまと結婚したら、本当のお姉様になると思ったのに」
ああ、なんだそういうことか。
つまりは懐いた年上の女性と一緒にいたいというだけ。
幼い子が大人に「帰らないで」と願うのと同じだ。
次期宰相とも言われているスチュアート。
自分とそんなことになるはずがない。元々接点などなかったのだから。
あの婚約破棄の現場に出くわさなければ。
彼がエスコート役を買って出てくれなければ。
今モンタギュー家で家庭教師をすることもなかっただろう。
それくらい、関係は薄いのだ。
恋仲であるはずがない。
そこへ、ノックとともに扉が開いた。
「レイチェル、どうだ。捗っているか」
部屋に入ってきたのは、今話題に上がったスチュアート本人だった。
彼は自分の妹に声をかけながら、遠慮なく近づいて来る。
まさか、今話していた本人が来るなんて。噂をしたら影って本当ね。
家庭教師をと言われて来たのに、呑気にティータイムだなんてまずかったかしら。
サボっているのがバレたことにヒヤヒヤしているのは、どうやらアイリスだけらしい。
レイチェルは堂々と背筋を伸ばした。
「お兄さま。今日は数学のあと、お茶会マナーについてアイリス先生からご指導いただいてるの」
よどみなく答えるレイチェルはさすがと言おうか。末っ子の要領の良さがうかがえた。
「ほう」
琥珀色の瞳は、じっとりとアイリスを捉える。まるで視線で尋問されているような気になり、アイリスは縮こまった。
「では、わたしも参加しようか」
アイリスはあやうくカップを落とすところだった。
どうしてこのひとも参加になるのよ。
彼と顔を合わせることに幾分慣れたとはいえ、苦手であることに変わりはない。
まして隣に座られるなんて聞いてない!
妹の隣に座ればいいものを、なぜかスチュアートはアイリスの隣に腰を下ろしたのだ。
ダンスもしたとはいえ、距離が近すぎて落ち着かない。
「せっかくだ。男女の茶会のマナーにしようか」
「いいわね! 賛成!」
ちょっと待った! 何がせっかくなのよう!
スチュアートのとんでもない提案に、アイリスはまたむせた。
男女の茶会って、つまりデートじゃないの!
それをこのひととやれ、と言うの!?
視線でレイチェルに助けを求めるが、なぜか彼女はにこにこしているだけだ。
アイリスはあきらめて肩を落とした。




