知らない顔、知らない表情
正門を過ぎると石畳の小路が続く。両サイドには丸くカットされた低木で囲まれ、路の先には涼し気な音を立てている噴水がしぶきを上げている。その背後にそびえたつのは、シンメトリーな白亜の城だ。
「ついに来てしまった……」
モンタギュー邸を前にして、アイリスは鞄を抱えたまま立ち尽くしていた。
自身も伯爵家で何不自由なく育ってきたが、侯爵家となると、そこはさらに別格だ。屋敷というには立派過ぎる。スチュアートが上位貴族であることをまざまざと見せつけられ、アイリスは背筋が伸びる思いだ。
さすが名門モンタギュー侯爵家。
やっぱり王太子のご学友に選ばれるような家は格が違うわね。
本来ならば花嫁修業にあけくれ、式の準備に追われていたはずの自分。こうして侯爵令嬢の家庭教師になるなんて、誰が想像しただろう。
人生は一寸先もどうなっているかわからないものだ。
伯爵令嬢の顛末としては、褒められたものではない。貴族が働くのは、外聞が悪いのはわかっている。まして未亡人でもない、独身の若い女性が働くのは、もってのほかだろう。
それでも家で引き籠っているよりはいいのかもしれない。
両親に家庭教師の話をしたら、反対するよりもホッとした顔をしていた。
男に捨てられこのまま枯れはてるのではないかと、心配していたのだろう。
そんな両親の様子に、心配をかけて申し訳なかったなと思う。
アイリスの婚約破棄の話は社交界に知れ渡っている。
きっとしばらく縁談なんてないだろう。
それなら、こうやって何か別のことをしていた方が気が紛れる。
あれこれ考え事をしながら、荷物を持ってくれているモンタギュー家執事の後ろで立ち止まった。
……もしかして、スチュアートはそのつもりで、私に家庭教師の話を?
引き籠っていることもわかっているようだったし。
そう考えて、アイリスは顔を横に振った。
ないない。ありえない。
これはあくまでもギブアンドテイク。あの夜助けてもらった分のお返し。
彼もそう言っていたではないか。
そもそも大して関わりのなかったただの後輩に、そこまでするほどお人好しではないだろう。生徒会の仕事だって効率重視。無駄を省くことを第一に考えるひとだ。
利益にならない相手に手を差し伸べるほど、ヒマではない。
……想定していたよりは、配慮のある男性だったけれど。
胸を張れ、と言ってくれた声は今も覚えている。
「あの、どうかされましたでしょうか?」
立ち止まったまま考え事をしているアイリスに、前を歩いていた執事は怪訝顔だ。慌ててアイリスは後に続いた。
今そんなこと考えても仕方がない。
まずはできることをしよう。与えられた役目はしっかりこなさなければ。
エリオットのことは忘れるんだ。前に進もう。
スチュアートに言われたように、胸を張って。
「よく来たね。待っていたよ」
来賓室に通されると、スチュアートとその妹に出迎えられた。
スチュアートは、夜会で会った時よりも、先日ウィンスレット家を訪れたときよりも、いくらかラフな格好をしていた。開襟シャツにベストを合わせただけの姿は、彼のプライベートを垣間見たようで、アイリスは心なしか落ち着かなかった。
やだ、なんだか直視できないわ。
普通の格好しているだけなのに。
いつもかっちりとかしこまった姿しか見たことなかったからかしら。
「ほら、お前も挨拶しなさい」
目のやりどころに困っていたアイリスは、スチュアートの声で顔を上げた。
促された妹は、スチュアートの背後からこっそり顔を出した。おずおずとアイリスを仰ぎ見た少女は、グリーンアイズに緊張を忍ばせている。巻き毛のブロンドは、ふわりと揺れ、大きな瞳はくりくりと丸く愛嬌があった。まるで童話から飛び出してきたリトルプリンセスだ。想像していたよりも童顔で、あどけない。
「レイチェル・モンタギューです……。はじめまして」
スチュアートの背後からこっそり顔を出した少女は、緊張した面持ちでこっちを見ていた。
とんでもないワガママお嬢様だったらどうしようと想像していただけに、アイリスは安堵した。
年長者として、自分から一歩踏み出す。
スチュアートのことはできる限り視線に入れないようにして、背筋を伸ばした。
「初めまして、アイリス・ウィンスレットと申します。今日からよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……」
おずおずと手を出す、レイチェル。
アイリスよりひとまわり小さい手は、華奢で温かい。
よかった。いい子そうだ。
様子を窺っていたスチュアートは、レイチェルの頭に手を置いた。
「アイリス先生に迷惑をかけないようにな」
「しないもの!」
「どうだか。我儘を言い出したら、遠慮なくわたしに報告してくれ」
スチュアートは視線をアイリスに移し、眉を下げた。それは学園で生徒を詰問していたときの顔とはまるで違う。
優しい兄、の顔だった。
こんな顔もするのか。
「だからしないってば! お兄さま!」
ころころと表情の変わるレイチェルは、頬を膨らませて兄の袖を掴んだ。そんな妹の頭をスチュアートの大きな掌がくしゃくしゃに転がす。
そんな兄妹の光景を、アイリスは微笑ましく眺めた。
いつもツンとしていた黒猫のようだったスチュアート。妹の前だとこんなに気安いものなのか。
想定外の顔を見ることができて、アイリスはなんだか得をした気になっていた。
スチュアートのこんな表情知らないひとは大勢いるだろう。
きっと彼と近しいひとしか、知らない表情。
それをわたくしは今見ているんだわ。
なんだかじわじわと胸の奥が疼く。
なんだろう。この胸の落ち着きのなさは。
夜会のときといい、会いにきたときといい、今まで違う顔をみるたび、鼓動が速くなる。
エリオットと二人で会っていたときだって、こんなふうにはならなかったのに。
今まで苦手意識が強かったから、余計に思うんだろうか。
アイリスはこっそり視線をそらした。




