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ギブアンドテイク?


 アイリスはふと窓の外に視線をやった。

 

 自宅の中庭では、長年ウィンスレット家に仕えている庭師が、樹木の形を整え刈り込んでいる。低木の花がほころび始めているから、庭の準備を整え次第、母は気心の知れたマダムたちとお茶会に興じるつもりなのだろう。

 

 そんなよくある貴族の日常は、アイリスにとって遠い他人事だ。

 

 もう何杯目かの紅茶を飲み干し、アイリスはカップをソーサーに置いた。

 何をするでもなく、アイリスはこうして時間を持て余している。日がな一日、窓の外を見ながらぼんやりしていた。

 

 本来ならば、今頃は結婚式の準備で忙しくしているはずだった。学園を卒業後すぐにエリオットと結婚する予定だったからだ。

 

 あの夜会のあと、エリオットと正式に婚約破棄することになった。エリオットの両親であるマーシャル伯爵夫妻も突然の事態に驚きはしたものの、結局は息子が可愛いのだろう。エリオットの意向を尊重してやりたいと申し出があった。すでに夜会で堂々とイザベラとの仲を披露してしまったことも大きい。

 「申し訳ない」と口にしながらも、エリオットのしたことを責める様子は最後までなかった。

 

 アイリスの両親であるウィンスレット伯爵夫妻だけが、憤慨していた。娘を蔑ろにされた怒りは相当なものだったが、これ以上娘をこの男に関わらせたくはない。

 

 結果的に婚約破棄の手続きはスピーディに進んだ。

 

 アイリスの父は「もっといい縁談をみつけてやる」と息巻いていたが、アイリスはそこに関心はなかった。

 

 一般に婚約破棄になった場合、男の不貞であったとしても悪い噂は、こと女性側にばかり向かいがちだ。女性に問題があったから、男性の心が離れたのではないか。婚約破棄に至るくらい、魅力がないのだろう、と揶揄する言葉は女性に向けられる。

 

 その状況で次の縁談が舞い込むとは、とても思えない。

 そのような声は、あの夜アイリスに直接浴びせられるはずだった。

 

 だが、こそこそ陰口はたたかれても、直接心無い言葉を聞かずにすんだのは、スチュアートのおかげだ。

 

 スチュアートはあの夜、ずっとアイリスのそばにいてくれた。入場のエスコートだけだと思っていたのに、ファーストダンスどころかラストダンスに至るまで、そばにいてくれたのだ。王太子の側近である男がエスコートしているのだ。おいそれと軽々しい言葉をかけられるはずがない。

 

 加えて、スチュアートは黙っていれば見め麗しい美丈夫だ。彼に悪印象を持たれたくない令嬢や婦人たちは一斉に口を噤んだ。

 

 おかげでアイリスは直接的な揶揄を避けることができた。

 

 アイリスはぼんやりと窓を眺めながら、その手に白いハンカチを握っていることに気づく。

 あの日借りたスチュアートのハンカチだ。

 泣いてるアイリスに、そっと差し出されたもの。

 

 もっと厳しく冷淡な男性かと思っていたのに。

 あんなふうに手助けしてくれる方だったなんて。

 今まで毛嫌いしていて悪かったな。

 

 胸を張れ、キミは悪くない、と言ってくれたのもスチュアートだ。

 

 このハンカチに触れるたび、自分を見つめる琥珀色の瞳を思い出す。気持ちが沈む度に握っていたためか、ほんのり皺がついてしまった。

 また洗い直さなければならないだろう。

 

 お礼……言わなくちゃ。

 

 ハンカチを返さなければならないが、元々アイリスとスチュアートは接点がない。

 どうすればいいものか考えあぐねたまま、時間だけが過ぎていく。

 

 普通に考えればアイリスからモンタギュー家に出向けばいい。

 わかっていても、全身が鉛のように重く動かない。身体だけではない、心もだ。

 刺繍も読書も何もする気が起きないくらい、心も重く沈んでいる。

 

 信じていた男性に突然手を離された衝撃は、アイリスの心を疲弊させた。あらゆる感情が鈍磨になるほどに。

 

 陰口を言われても、傷つく体力さえも残っていない。

 ただ毎日をぼんやりと過ごし、夜を迎える。

 困ったのは夜だ。昼間はぼんやりとしているくせに、寝台に入ると途端に目が冴えてしまう。

 何度寝返りを打っても眠気は訪れず、ただ漫然と夜を過ごしているだけ。

 気づけば朝が来てしまう。

 その繰り返しだった。

 誰に会うでもなく、毎日自室で過ごす毎日。

 

 婚約破棄の話を聞きつけた親友のロゼッタとリディアはアイリスに会おうとしてくれたが、アイリスは丁重に断った。

 

 ロゼッタは王太子レオポルドとの婚姻が内定し、お妃教育に忙しい。

 リディアも縁談が持ち上がっていると聞く。

 そんなおめでたいときに、アイリスの婚約破棄で水をさしたくない。

 

 ……というのは、建前。

 本音は二人に顔を見せれば、みっともないほど号泣するのが目に見えていた。泣いて収集がつかなくなるに違いない。

 

 そんな自分を見たくないし、彼女たちに見られたくなかった。

 二人が心配してくれているのはわかっていたが、どうしてもそれだけはできない。

 

 心が深刻になればなるほど、誰にも相談できないって本当なのね。

 

 気づけば、またハンカチを握っている。握りすぎて、妙にアイリスの手に馴染んでいるのがおかしかった。

 とはいえ、いつまでもアイリスが所持しているわけにいかないだろう。

 それでも手から離すのが名残惜しく、いつまでも握ってしまう。堂々巡りだ。

 

「本当に、これどうしよう」

 

 そう独り言ちたとき。

 控えめなノックの後、メイドが入ってきた。その手はワゴンを押している。ワゴンにはポットとカップ。そして平皿に溢れんばかりの焼き菓子が並べられていた。

 

 ここ最近塞ぎがちなアイリスに気を遣ったのだろう。実際頼んでいなくても温かいミルクティを用意してくれることがあった。

 配慮ばかりさせて申し訳ないと思いつつも、今お菓子を食べる気持ちにはなれなかった。

 

「悪いけど、今はいらな――」

「そうか。じゃ、これは後程食べるといい」

 

 返ってきた声に、アイリスは飛び上がりそうになる。

 聞き間違いかと思った。しかし、この声の主をわからないはずがない。

 

 顔を上げたそこには、やはりスチュアート・モンタギューが立っていた。

 

 夜会のときと違って、少しラフなボルドーのジャケットを着たスチュアートはメイドに案内され、堂々とアイリスの私室に入ってきた。

 

 扉を閉めようとするメイドに「開けておいてくれ」と伝えたスチュアートはこっちを向いた。

 

 メイドは去り際、意味ありげに笑みを浮かべていた。

 どう考えてもあれは誤解している。だから変な気をまわして扉を閉めようとしたのだろう。

 

 通常未婚の女性は婚約者以外の男性と二人きりになることはない。だから、男性と密室で二人になるのは、よっぽど親密な関係ということになるのだ。

 

 この方はそんなんじゃないのよ。だから、扉を開けておくように言ったでしょう? そう弁明しようとする前にメイドは見えなくなった。

 

 アイリスがひとりあわあわしている間に、スチュアートはすでにアイリスの目の前に来ていた。

 

 ついさっきまで思い浮かべていた男が目の前に現れ、アイリスは動揺で声が震える。

 

「ど、ど、ど」

「すまないが、何を言いたいのかわからない。とりあえず座ってくれ」

 

 うろたえているアイリスを前に、スチュアートの方が先に応接セットに腰掛けた。その上で、向かいに座るよう促してくる。

 

 ここはわたくしの家なんですけど!?

 

 心の中でツッコミつつ、アイリスはしぶしぶ向かいに腰を下ろした。

 

 スチュアートはまるで自宅のように堂々と振る舞い、優雅にカップに口をつけている。

 

 姿だけ見れば、長身で脚も長く、立ち居振る舞いも堂々として絵になる男だ。

 

 いきなりアポなし訪問じゃなければ。

 

 カップから立ち上るハーブティの香りはそそられるが、この状況で暢気に紅茶を楽しむ気にはなれなかった。

 そもそもスチュアートがなぜうちに来たのか、わからない。

 どう切りだすかしばし逡巡して、アイリスはそのままストレートに訊ねることにした。

 小手先なんて、きっと彼には通用しない。

 

「あ、あの今日はどうしてこちらに?」

「きっと暇を持て余しているだろうと思ってね。図星だったろう?」

 

 スチュアートは悪びれもせず、そう答えた。

 事実なだけに反論もできない。

 

 外に出れば噂の的になるのが嫌で、あの夜会以来引き籠っている。茶会に誘われることもあったが、その目的は明らかだ。誰の目線からも避けるようにしていた。

 その理由は彼もわかっているだろうに、なぜわざわざここに来たのだろう。

 

 静かにスチュアートのカップがテーブルに置かれる。そのままスチュアートの手は彼の膝の上で組まれた。

 

 アイリスは何を言われるのか、と身構えながらハッとした。これはハンカチを返すチャンスなのでは?

 本来ならアイリスの方から出向かなければならないところだが、これを逃せばもうスチュアートと関わることはないだろう。

 

 「あ、あの先日はハンカチを……」

 

 ありがとうございましたと続けようとしたが、自身の手もとを見て動転した。何度も握りしめていたからか、もうすっかり皺が深くなっている。くしゃくしゃだ。とてもこんな状態で返せるわけがない。

 その事実に恥ずかしくなり、声がか細くなっていく。

 

「ああ、あのとき渡したハンカチか」

「あ、あの、これ、は……」

「キミに渡したのだから、好きにしてくれてかまわない。……それより、話があってきたんだ」

「え?」

 

 話?

 あのスチュアート・モンタギューが、わたくしに話なんてある?

 

 考えれば考えるほど、わからない。

 スチュアートが長い脚を組み直す。その仕草が視界に入るだけで、アイリスの背中に緊張が走った。脳内によぎるのは、生徒会室で他生徒を詰問するスチュアートの姿だ。自分は一体何を言われるのか、と身構えた。

 

「キミに頼みたいことがあってきた」

 

 想定したいたのとは、違う方向性の言葉が返って来て、アイリスは目を丸くする。

 

 てっきり、「引き籠ってどうする」だの「逃げるな」だの説教されるのかと思っていたのに。

 身構えていただけに、アイリスはどこか拍子抜けした。意図がつかめず小首を傾げるしかできない。

 

「頼みたいことって……なんでしょう?」

「わたしの妹の家庭教師をお願いしたい」

 

 これまた想定外の話だ。

 このひとに妹なんているのか。

 いや、それよりもどうしてわたくし?

 

 疑問符がいくつも顔の周りに浮かんでいたのだろう。

 スチュアートはこらえきれないといった様子で、噴き出した。「失礼」と言いながらも肩を震わせている。ちっとも悪びれない様子に、アイリスは思わず口をへの字に曲げそうになった。

 

 何がおかしいのよ。そんなに笑うことないでしょう?

 

 想定外の展開に、緊張感など蒸発してしまった。

 

 聞けばスチュアートには12歳になる歳の離れた妹がいるのだという。いずれ彼女も王立学園に入学する予定だが、それまでに困らないよう学力を伸ばしておきたい、とのことだ。

 

「両親も遅くに生まれた末娘だからか、甘やかしていてね。恥ずかしながら勉強嫌いで手を焼いている。年の近いキミなら言うことを聞くかもしれないと思ってね」

「でも……」

 

 侯爵家の令嬢の教師だなんて、学園卒業したての自分に務まるとは思えない。

 どう考えても分不相応な役目だ。

 だが、そんな考えもお見通しらしい。

 

「キミは数学と科学が得意だったろう?」

 

 見透かすようなスチュアートの視線に、アイリスは瞠目した。確かにアイリスは理系科目が得意だ。その二科目だけは学年で常に五番以内に入っていた。男に生まれていたなら、科学者を目指したかったくらい。

 

 しかし、スチュアートと同じ学園に通っていた時期もあるが、それはたった一年間。学年も離れているのに、どうしてそんなことを知っているのか。

 

 アイリスが疑問を口にする前に、スチュアートは先に答えた。

 

「キミの担当だった先生は私の恩師でもある」

 

 切れ長の瞳を持つ教師の姿が瞼の裏に浮かんだ。宿題が多く、大抵の生徒は彼のことを苦手にしていた。

 

 理系科目が苦手なリディアは毎回頭を抱えていたっけ。

 ロゼッタと三人で宿題をこなそうと集まったものだ。

 確かあの先生は生徒会の顧問もしていただろうか。

 

「その二科目だけで構わない。どうだろう、引き受けてもらえないだろうか」

 

 得意科目だけ。それなら確かにアイリスにも務まるかもしれない。

 それでもまだ学生を卒業したばかりの自分には荷が重いだろうか。

 

 迷っているアイリスに、スチュアートはさらに続けた。彼の形のいい眉毛が下がる。

 

「これで先日の夜会の件はチャラになると思うのだが」

「あ……」

 

 そう微笑まれては断れない。

 

 つまりは、あの夜会のエスコートのお礼は家庭教師で手を打とうというのだ。

 あの一件を持ち出されたら、こちらに拒否権はない。

 

 アイリスは「よ、よろしくお願いします」と震えるしかなかった。

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