夜会は針のむしろ
ドレスの裾を踏まないよう、先を蹴るように歩く。
一見優雅に見える足さばきも、ドレスの内側はこうだ。
見た目と実状が違うことは、多々ある。
アイリスとスチュアートが寄り添っていても、実際は付け焼刃なペアであることのように。
スチュアートは威風堂々、臆することなく背筋を伸ばして正面を見据えていた。
隣に立つ長身の男をこっそり仰ぎ見て、アイリスは人知れず息をつく。
どうしてこんなことになったのだろう。
婚約者は他の女を選び、自分は全く別の人にエスコートしてもらうなんて。
寄りにも寄って、それが最も苦手としているスチュアートだなんて。
学園に入学したての自分が知れば、卒倒するに違いない。
それくらい、今夜自分に起きたことは全て想定外の出来事だ。
「では、行こう」
「は、はい」
スチュアートに促され、アイリスはおずおずとその腕に手を添える。
目の前には、豪奢で重厚な扉。
この向こうには、招待された国内の有力貴族たちが連なっているだろう。この社交界の海を自分は泳がなければならない。
当然、そのなかにはエリオットたちも含まれる。
想像するだけで胸の奥が冷えた。
未だ混乱の最中、扉の前に立った。細かい彫刻が施された重厚な扉が開かれると同時に、楽団の演奏が流れ込んできた。
とうとう、来てしまった。
一瞬息を呑み、アイリスは扉の向こうに足を踏みだした。
眩いシャンデリアに、揃いの衣装を着て演奏している楽団たち。女性たちが着飾ったカラフルなドレスたちは、会場を彩る。
盛況したダンスホール。
その中で真っ先に飛びこんできたのは、周囲の視線だった。名前が紹介された途端、会場のあちこちの人間が振り返る。
みんな、こっちを見てる。
きっと、知られているんだ。
婚約破棄されたんだって。
名を呼ばれ、お辞儀をするが、膝がドレスの内側で小刻みに震えた。
「ねえ、やっぱりアイリスさまのエスコートは婚約者じゃないのね」
「婚約破棄じゃないかって噂本当?」
「だってさっきエリオットさまは別のご令嬢と」
「え? 別のって?」
「子爵令嬢のイザベラさまよ。前からご一緒だったもの」
「やっぱりね。デキてると思ってたのよ。あの二人の方がしっくりきていたもの」
「じゃあ、アイリスさまはどうしてスチュアートさまと?」
「こっちもこっちで鞍替えってことなのかしら」
一歩一歩踏み出すたびに、あちこちから口さがない言葉が聞こえてくる。
それだけでアイリスはここから消えたくなった。
元々社交界というのは、噂が独り歩きしやすい。そんななか、婚約破棄だなんて格好のネタだろう。他人事である彼らには、暇つぶしにすぎない。
伯爵令嬢として、当たり障りない会話に興じることも、ときには嫌味を言われることにも慣れていたはずだったが、婚約破棄という事実はアイリスにとってセンシティブすぎた。
会場を進む度に、人々の好奇な視線が刺さる。それはまるで針の筵だ。
やっぱり帰ればよかった。
徐々に伏し目がちになるアイリスは、スチュアートの横で俯いていた。
しかし、低い声が頭上から降りてくる。
「胸を張れ。キミは何もやましいことなどないのだから」
反射的に彼を仰ぎ見ると、スチュアートは前を向いたまま、続ける。
「キミは後ろ指さされるようなことは、何ひとつしていない。違うか?」
「で、でも……」
そうはいっても、人々の口さがない言葉や嘲笑うような視線は、耐え難い。スルーしろと言われても、今のアイリスには難しい。
「そもそも不貞を働いたものが堂々と社交界に顔を出して、裏切られた側が身を縮めているなんておかしな話だろう」
「それは、そうですけど……」
「それに、あいつらも見ている」
スチュアートは顎で促すように左前方を指した。
視線をやった瞬間、アイリスは息を呑んだ。
そこにはエリオットとイザベラの姿があったからだ。
スチュアートとともに入場したアイリスを見て、二人は驚きのあまり呆然としている。
それは当然かもしれない。
婚約破棄を言い渡したのは今夜だ。彼らだってアイリスが夜会に参加するとは、思っていなかっただろう。ましてや、エスコートする相手がいるなんて。
どんな顔をしたらいいのかわからず、アイリスは視線をそらす。
「見ろ。二人ともそれぞれ面白くないって顔をしているだろう?」
「え?」
スチュアートの声が耳朶に響く。
屈むようにして耳元に囁かれ、アイリスは内心飛び上がりそうになった。
ついさっき別れ話をされたばかりの婚約者を見たくなくて視線をそらしていたが、スチュアートの言葉に思わず彼らに顔を向けた。
見れば、確かにエリオットは目の前の光景が信じられない様子で、目を瞬かせている。
イザベラはあからさまに眉根を寄せていた。
「女の方はキミを貶めてマウントを取るつもりだったんだろうに、あてが外れたって顔だな」
スチュアートはさもおかしくたまらない、と肩を揺らした。
「マウントって……」
「キミは逃げ帰ると思われていただろうからな。不在をいいことに、自分たちの不貞を正当化するつもりだったんだろう」
胸の奥がすっと冷える。
確かに、あのままアイリスが屋敷にとんぼ返りしていたなら、ここは一方的にエリオットたちからの話だけを聞くことになる。
婚約破棄の流れを都合よく話すことは簡単だ。
そのままアイリスが引き籠ってしまえば、それが真実として受け取られただろう。
まさか……そこまで見込んでこのひとは私をエスコートしてくれたのだろうか。
アイリスが会場に現れたことで、ひとの興味をより惹くことになってしまったが、それでも皆はエリオットの話だけを鵜呑みにすることはないだろう。
しかし、この状況ではアイリスとスチュアートが新たに親密になっていると思われてもおかしくない。妙な巻きこみ方をするのは、申し訳ないことだ。
「確かに一方的な話にはならないかもしれませんが、それにスチュアートさまが巻き込まれるのは……」
「別に構わない。親からは浮いた話もないのかと言われているくらいだからな。それに、ここで私と噂になっておけば、婚約破棄のことなど、皆すぐに忘れる。毒を持って毒を制すというだろう」
「毒って」
毒呼ばわりされて、さすがのアイリスも眉をひそめた。
しかし、隣に立つ男はなぜか口角を上げている。まるでその反応を待っていたかのように。
「その調子だ。俯いているより口を尖らせている方がいい」
「尖らせていません」
アイリスが言い返すと、スチュアートはまた肩を揺らした。
揶揄われた。
そのことを気恥ずかしく思いながらも、アイリスは前を向いた。
本当に、このひとの優しさはわかりづらいわ。
普通に励ましてくれればいいのに。
気づけば、ワルツの演奏が始まった。今までであれば、まずはファーストダンスは婚約者であるエリオットと踊っていた。ファーストダンスとラストダンスはいつも彼と。
それがアイリスの日常であり、それがこれからも続くのだと思っていた。
「踊っていただけますか」
かしこまるスチュアートの声。
今夜はまるで違う夜だ。
苦手なはずの男にエスコートされ、今ファーストダンスも踊ろうとしている。
「……はい、喜んで」
まるで知らない人生が始まってしまったようだ。
アイリスはスチュアートの誘いのまま、ファーストダンスを踊った。これまで夜会で彼に近寄ったことはなかったけれど、やはり彼はリードがうまい。
初めて踊っているにも関わらず、次のステップが驚くほどスムーズに出る。
まるで今まで何度も踊ったことがあるかのように。
彼のリードがあまりにも完璧で、周囲の女性たちの視線はスチュアートに注がれた。おかげでほんの少し視線から逃れることができた。
ターンの瞬間、不意にエリオットが視界に映る。
彼はファーストダンスをイザベラと踊っていた。
かつてアイリスの手を握った優しい手はイザベラの手を握る。
アイリスの腰に添えられていた手は、イザベラの腰を支えている。
かつてはアイリスのものだったどれもが、今は全てイザベラのものだ。
もう、時間は戻らない。
エリオットとはお別れ、なのだ。
エリオットと、一瞬互いの視線が絡む。
「……エリ……」
思わずその名を呼びそうになるが、寸ででアイリスは飲み込んだ。
一瞬の一瞥後、エリオットに視線を逸らされたからだ。
それ以降、エリオットの視界にアイリスは映らない。彼の黒褐色の瞳は、イザベラだけを映している。
ときおり柔らかい笑顔を向ける。
その相手は、もちろんイザベラだ。アイリスではない。
その表情に、アイリスは胸の奥がつきりと痛んだ。
「……アイリス」
名を呼ばれて、ハッとした。
いけない。今、わたくしはこのひとと踊っていたのに。
「すみま――」
「謝らなくていい」
ダンス中に余所見をしていたのだ。きっと叱られる。
そう思った瞬間、背中をさすられた。
スチュアートの大きな手が、そっと労わるように背中をさする。
それだけで、一気に胸の奥からこみ上げてくる。声が漏れないよう、アイリスは唇を噛みしめた。
自分の恋はこの瞬間に終わったのだと自覚した。




