苦手な男の助け舟
廊下からエリオットたちが立ち去り、ホッとしたのも束の間。
イチャつく二人に割って入ってくれた男、スチュアートはなぜかアイリスのいる控室に入り込んできた。
「大丈夫か?」
涙で滲んだ顔を見られたくなくて、アイリスは咄嗟に顔をそらす。
婚約破棄の話は聞かれていないかもしれないが、もしかしたらエリオットの婚約者がアイリスであることを知られているのかもしれない。
学園でもアイリスとエリオットの関係は隠していなかったから。
ああしてエリオットが他の女性と親密でいるのを見て、不審に思ったのかもしれない。
まして、こうして女がひとり控室に残されているなんて。
話は聞いていなくても、察しているかもしれない。
男に打ち捨てられた女。
そんな姿を、寄りにも寄ってこの男に見られたくない。
だから顔を逸らしているのに、彼は遠慮なく近寄って来る。
アイリスがソファに座ると、なぜかスチュアートまで隣に腰を下ろした。
嘘でしょ!?
ここで隣に座る!?
状況からいって、わたくしがフラれたことくらいわかるでしょう!?
泣き顔を見られたくないのよ!
それくらいの女心、わからない!?
そう詰め寄りたくなったが、アイリスは無理やり呑み込んだ。
この男に言っても無駄だろう。
スチュアート・モンタギューという男はアイリスが通っている王立学園の卒業生だ。
スチュアートが四年生のときにアイリスが新入生として入学した。だから在籍期間が被っているのはたった一年間ではあるが、その間アイリスはできる限り直接関わらないようにしていた。
きっかけは学園の生徒会だ。
アイリスの所属しているクラスではなかなか委員の立候補者が出ず、それならとアイリスが挙手した。裏方の仕事をアイリスは得意としていたからだ。
生徒会は当時生徒会長を務める王太子レオポルドを筆頭に、その学友である公爵令息ミハイル、そして次期宰相と名高い侯爵令息であるスチュアートが執行部を務めていた。
未来の国王とその側近たちということで、学園内では有名だった。
尊い身分でありながら成績も明るく見め麗しい彼らは、どこにいっても注目の的。それは周囲の女生徒たちも同様だったが、アイリスはそれほど興味がなかった。
すでに婚約者がいたことも大きな理由だが、何より華々しい立場の人間は、アイリスには眩しすぎた。遠くから眺めるだけで十分。
実際のロマンスはもう少し等身大でこじんまりしている方がいい。
そう、子どもの頃からお互いを知るエリオットのような。
穏やかで優しいエリオットは、アイリスにとって安心できる男だった。威張ることも怒ることもない。むしろ困ったら「アイリスどうしよう」なんて相談してくる。弟を持つアイリスにとって、甘えられることは苦ではなかった。だからこそ、彼を支え手助けする存在であろうと思っていた。
だが、スチュアートは違う。
彼は生徒会執行部において、会計監査を務めていた。
課外活動への予算委員会では、かなり厳しく該当生徒を詰問する様子が幾度も見られた。使途不明金など決して許さない次期宰相は、一部の生徒からは恐れられている。
もちろん、それは必要な厳しさだ。
わかってはいるが、顔を合わせるたび眉根を寄せた表情ばかり見ていると、気が引けてしまう。
そもそも誰かと気安く会話をしているところなど、ほとんど見ない。報告も少しでも長くなれば、「簡潔明瞭に報告せよ」と叱責される。
その近寄り難い空気に、憧れは徐々に恐れに変わっていく女生徒が増えた。
極めつけは、アイリスが役員会議後の執行部に紅茶を配っていたときだ。
スチュアートの手元の資料に視線がいった。図書室に蔵書予定である書籍のラインナップが載っていたのだ。読書が好きなアイリスには興味深く、そばを離れるのが遅れた。
途端に。
「なんだ。まだ用があるのか」
ぴしゃりとあの低い声で指摘され、アイリスは飛び上がりそうになった。
ひとを射抜くような琥珀色の瞳。
まるで獲物を見るような眼差しに、足が竦む。
「も、申し訳ありません!」
そうまくし立てて、慌てるようにその場を逃げ出したのを覚えている。
あれ以来、アイリスはスチュアートを避けるようになった。必要最低限の関わりだけにして、なるべく間に誰かを通すようにしていた。
「何か水でも飲むか」
まだ居座るスチュアートは、そう勧めてきた。
もしかして、具合が悪いと思われていたのか。なるほど、冷たいと思われている男でも体調を崩した人間を放置することはしないということね。
せっかくだからその誤解を利用させてもらおう。
どうせこのまま独りで夜会に出席するわけにはいかない。
体調を崩したことにして、折を見て帰ろう。
そう考えたアイリスは、伏し目がちのまま口を開いた。
「恐れ入ります。体調を崩してしまったようで、もうしばらくここで休んでいこうと思います。どうか、お気になさらず……」
会場入りなさってください。そう続けようとしたところ、目の前に白いものが差しだされた。
突然視界に入ったそれは、清潔そうなまっさらなハンカチ。
「……大丈夫か」
スチュアートはもう一度そう訊ねてくる。
それでアイリスはようやく彼の意図を理解した。
ああ、やはりこの男は聞いていたのだ。
あのみじめな別れ話を。
わかった上でエリオットを追い払ってくれたのだ。
気遣いのありがたさと全て知られている恥ずかしさがない交ぜになり、アイリスはますます泣きたくなった。
じわじわと涙が滲み、鼻の奥がツンと痛む。
男に捨てられて泣いているなんて、みっともない。なのに涙がこみ上がってくる。
堤防が決壊するように、抑えきれなくなった涙が頬を伝った。
「お、お見苦しいところを」
「見苦しいのはあっちだろう」
きっぱりと言い放つ低い声。
思わずアイリスの涙が止まった。
おそるおそる顔を上げてみると、そこには仏頂面のスチュアートが見えた。
余計な私語は好まないスチュアート。こんな俗的なスキャンダルなど興味もないと思っていたのに。
彼の声音には、エリオットたちを責める様子が読み取れ、ほんの少し溜飲が下がる。
清廉潔白な彼には、エリオットたちの横恋慕は浮ついて見えただろう。
だからといって、ほとんど関わりのない令嬢を慰めようとする様子に、困惑したことに変わりはないが。
王太子らしからぬ気さくさで人気のレオポルド、その学友でフランクな陽キャ代表ミハイルに比べ、口数が少なく厳格なスチュアートはアイリスにとって苦手だった。
なのに、優しかった婚約者に手を離され、苦手な男に寄り添われている。
人生とはわからないものだ。
目のまえに差し出された、白いハンカチ。これはスチュアートの紳士としての思いやりなのだろう。
ここで無下に断るのも失礼だ。
……いや、普通に機嫌を損ねそうで怖い。
アイリスはおそるそおる、そのハンカチを受け取った。伸ばす指先が震えてしまうが、なんとか堪えて掴む。
そっと涙を拭おうとすると、ほんのり甘いムスクの香りがした。
「……すみません、あとでお返しいたしますので」
「別に構わない」
そう言って、スチュアートはそのまま足を組む。
涙をそっと拭うアイリスの横に、彼は無言で座っていた。
「……」
「……」
しばしの沈黙。
彼は横に座ったままだ。
もしや……まだここにいるつもりなのかしら。
独りにしておけないと思ってる?
いやいや、むしろ独りにしてほしいのだけれど。
しかし、ハンカチまで借りておきながら、そんなことを言えるはずもない。
親切心なら、なおさらだ。
それでも、彼と二人の空間を無言で過ごすのは、心地よいものとは言い難い。
彼は今夜も王太子殿下の傍に控える役目があるはず。それにスチュアート本人にもエスコートするご令嬢がいるはずだ。
そろそろお役目に戻っていただこう、とアイリスはさりげなく退室を促した。
「あ、あの。エスコートのお相手がお待ちなのでは」
「その心配はない。元々今夜はレオポルドのお目付け役として参加予定だったんだ。それより、キミだ」
意を決して話しかけてみたものの、自分に返ってきてしまった。
アイリスは無理やり笑顔を作る。
「ここでしばらく休憩いたします。ひとりで入場するわけにいきませんし」
事情を知られているなら、もう隠す必要も取り繕う必要もない。
正直に話した。
今夜は王太子も参加する大々的な夜会だ。婚約者や夫婦で参加する者、もしくは兄や父親など家族のエスコートを受けて参加する者ばかり。
そんな中、エスコートもなくひとりで入場すれば、悪目立ちするに決まっている。
アイリスとエリオットが婚約していることを知っている人もいるはずだ。
そんなところに、アイリスが後からひとりで入場すれば、どんな好奇の視線に晒されるか。
想像しただけで膝が震えた。
だったら、ひとりで帰る方がいい。
夜会が終わらぬうちに、ひとりで帰ってきたら、ウィンスレット家の皆は驚くだろうが、会場で注目されるよりはマシだ。
ファーストダンスが始まる頃にでも、人目を忍んでそっとここを後にしよう。
その後のことは考えたくない。このまま誰にも会わずに引き籠ってしまいたい。
そう考えていたところに、飛びこんできたのは、思ってもいない提案だった。
「わたしがエスコートしよう」
「え!?」
今、なんて?
聞き間違い?
涼しい顔で彼はなんと言ったか。
エスコートする、と聞こえたのは空耳だろうか。
だが、彼は現実逃避するアイリスを否定するよう、今度はゆっくり句切るように言い直した。
「わたしが、キミを、エスコートする」
「で、でも」
「わたしと一緒は問題でも?」
あるに決まっている。
このひとは何を考えているのだ。
たった今婚約破棄されたばかりの女をエスコートするだなんて、正気か。
どんな目で見られるか。
「も、問題あります。もうご存知でしょうが、わたくしはさきほど婚約破棄されたんです。なのに他の男性と入場だなんて」
「婚約破棄されたなら、キミはフリーということだ。それならエリオット・マーシャル以外の男と一緒に入場しても、なんら問題ない」
「で、でも、それではあなたにご迷惑が……っ」
「わたしには婚約者はいない。つまりわたしもフリー。フリーの者同士、問題ないと思うが?」
いつも通り、理路整然とした様子のスチュアート。
淡々とした物言いは、何も障壁がないと語っていた。
こうまで言いきられては、アイリスに反論の材料は残っていない。
何をどう返したらいいのかわからず、アイリスの口は、ただはくはくと空気を食むだけだ。
スチュアートはさらに続けた。
「どうせ、このままひっそりと帰って、屋敷に籠もるつもりだったのだろう?」
図星を突かれて、アイリスは言葉に詰まる。
「キミが行こうが行くまいが、社交界は一旦噂で持ち切りになるだろう。それはキミが引き籠っていても変わらない。むしろ外に出るタイミングを失うだけだ。それなら、いっそ堂々と表に出た方がいい。……違うか?」
厳しい言葉しか聞いたことなかったはずなのに、言い聞かせるようなその声は、どこか柔らかい。スチュアートは手を差し出した。
大きく厚みのある、手。
男の手だ。
「……っ」
その声と手に誘われるまま、アイリスはゆっくりと手を伸ばした。
気づけば涙は完全に引っ込んでいた。




