中編 “淵界エレジー、恋は耐圧殻”
目を覚ました場所は、水に沈んだ夢の裏返しだった。
真上には、どこまでも深い水天が広がっている。月は逆さに浮かび、黒藍の空に垂れ下がった死神の瞳のようだった。酸素はある、なのに息苦しい。肺の中で空気が水銀になって淀み、喉を這う。
「此処は、《水鏡の裏側》。アクア・ノクティルカ。水底にしか存在しない都市だよ」
隣で、憂河暁斗が言った。どこか安らいだ声音だが、その声の裏にひび割れた緊張がある。瞳孔の奥に、私を見つめながらも見失いかけている不安の影。
私たちが立っているのは、沈んだ都市の廃駅跡のような場所だった。アーチの崩れた天井から、燐光を帯びた水泡が絶え間なく立ち昇り、漂う死藻の香りが鼻の奥で腐った蜜のようにこびりつく。
足元に敷かれたタイルの隙間からは、白骨のような手が覗いていた。握られたまま朽ちたマイク。破れた楽譜。何かを叫ぼうとして絶命した声が、そのまま化石になったような気配。
「ここに取り残された声たちは、行き場をなくしてさまよってる。誰かが彼らの代わりに“音”を捧げなきゃいけない」
暁斗の声は柔らかかったけれど、そこには選択肢のない告知のような冷たさがあった。
「じゃないと……扉は閉じない」
その言葉を聞いたとき、私の鼓動がひとつ跳ねた。怖い。怖いに決まってる。けれど、それ以上に惹かれていた。音楽が必要とされている。言葉を、叫びを、私たちの“鼓動”を……。
私はそっと手を伸ばし、暁斗の指先に触れた。
「やる。やってやる。ここに取り残された叫びごと、私たちで曲にして……ぶちまける」
彼が微かに笑い、私の額に自分の額をそっと重ねた。その体温は、水中とは思えないほど温かかった。
少し歩くと、街の中心に出た。そこには、異様な存在が立っていた。
赤黒い衣を纏い、瞳の中に魚のような縦長の瞳孔を持つ少女——澱舞瑠楓。
彼女は微笑み、首からぶら下げた貝殻のペンダントを私の胸元に下げた。
「これは共鳴膜。恋が本物なら、赤く染まる。でも……偽物なら、君の声はこの世界に呑まれて二度と帰れない」
警告なのか、試練なのか。私にはわからなかった。けれど、喉の奥で滲むものがあった。痛み、迷い、怒り、そして恋。全部を攪拌した、塩と血の混合液のような感情。
「やってみせるよ。私の声が……水に沈むか、浮かぶか、試してやる」
ペンダントが脈を打った。その脈は確かに、私の心拍と共鳴していた。
街の建造物がゆっくりと振動をはじめた。深海の地殻変動ではない、それは“音”の始まりだった。
建物の窓枠がパイプオルガンのリードのように鳴り、沈んだ教会の鐘が低く響いた。
《深哭の合唱》。
それは“こちら側”に取り残された亡霊たちの、音楽という名の鎮魂と叫び。
私はマイクを握った。いや、マイクではない。ただの骨の管。でもそれが、唯一この世界で声を通す手段だった。
暁斗がギターを構える。水流に合わせてチューニングを微調整しながら、彼の弦が震える。リバーブの代わりに水泡が弾け、サステインは湖底の静寂に溶ける。
私は目を閉じ、喉を開く。
> —水音が痛みに変わる前に
> —恋と怒りを歌にして
> —死者の心拍と重ねてしまえ
その瞬間、貝殻ペンダントが燃えるように赤く染まった。共鳴した。私の鼓動と、暁斗の旋律と、湖底の亡霊たちの叫びが。
だが、その赤は不吉なサインでもあった。背後から響く、ざわり、とした異音。肌を這う水流とは違う——這い寄る音。
私が振り返る前に、腐った風が襟元を撫でた。
黒い影。首のない者。顔が裏返った者。頭部だけの女。
無数の“声を失った亡者”たちが、水の中を歩いてくる。泳ぐのではない。歩いている。重力も常識も、彼らの足元には存在しない。
暁斗がすぐさま私の手を掴み、走り出す。私はマイクを投げ捨て、喉の奥に溜めていた絶叫を吐いた。
「なんなの、あいつらは……!」
「音を喰うんだ。生きた心拍のある音を!」
追い詰められた私たちは、街の崩れた教会の扉に飛び込んだ。その中にはステンドグラスも祭壇もなく、ただひとつ——裂け目が浮いていた。
水のような鏡。だが、これは戻るための扉ではなかった。代償を払う“選択の口”だ。
私は迷わず言った。
「帰るよ。だって……まだ伝えたい音が、あるから」
けれど暁斗は、手を離そうとしなかった。
「駄目だ、澪火……。俺が“鍵”になる。君だけは戻れ」
「は? ふざけるな……そんなの、音楽じゃない! 愛じゃないよ!」
私は彼の腕を引っ張ろうとした。が、彼の手が優しく私の手をほどいた。
「俺の心拍、君の中にもう入ってる。ペンダントと一緒に」
その瞬間、教会全体が水圧で軋んだ。亡者たちの呻きが天井を這い、出口の裂け目が淡く光る。
「帰れ、澪火!」
「やだ……やだ……!」
私が叫ぶよりも速く、暁斗が私の背を押した。
裂け目が私の体を呑み、真逆の浮力に引き上げられる感覚のなか——彼の最後の言葉が、心臓の中に焼きついた。
「お前の鼓動を……信じてる」
目が覚めると、私は湖畔の桟橋に倒れていた。
遠く、揺師太弄がベースをかき鳴らしている。
Dolorisのドラムが、血を吐くようなスネアを叩いている。
私の胸元でペンダントが脈を打っていた。彼の心拍——暁斗のそれだった。
でも、彼の姿は……どこにもなかった。
―To be continued.