表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

中編 “淵界エレジー、恋は耐圧殻”

 目を覚ました場所は、水に沈んだ夢の裏返しだった。


 真上には、どこまでも深い水天が広がっている。月は逆さに浮かび、黒藍の空に垂れ下がった死神の瞳のようだった。酸素はある、なのに息苦しい。肺の中で空気が水銀になって淀み、喉を這う。


 「此処は、《水鏡の裏側》。アクア・ノクティルカ。水底にしか存在しない都市だよ」


 隣で、憂河(うか)暁斗(あきと)が言った。どこか安らいだ声音だが、その声の裏にひび割れた緊張がある。瞳孔の奥に、私を見つめながらも見失いかけている不安の影。


 私たちが立っているのは、沈んだ都市の廃駅跡のような場所だった。アーチの崩れた天井から、燐光を帯びた水泡が絶え間なく立ち昇り、漂う死藻(しそう)の香りが鼻の奥で腐った蜜のようにこびりつく。


 足元に敷かれたタイルの隙間からは、白骨のような手が覗いていた。握られたまま朽ちたマイク。破れた楽譜。何かを叫ぼうとして絶命した声が、そのまま化石になったような気配。


 「ここに取り残された声たちは、行き場をなくしてさまよってる。誰かが彼らの代わりに“音”を捧げなきゃいけない」


 暁斗(あきと)の声は柔らかかったけれど、そこには選択肢のない告知のような冷たさがあった。


 「じゃないと……扉は閉じない」


 その言葉を聞いたとき、私の鼓動がひとつ跳ねた。怖い。怖いに決まってる。けれど、それ以上に惹かれていた。音楽が必要とされている。言葉を、叫びを、私たちの“鼓動”を……。


 私はそっと手を伸ばし、暁斗(あきと)の指先に触れた。


 「やる。やってやる。ここに取り残された叫びごと、私たちで曲にして……ぶちまける」


 彼が微かに笑い、私の額に自分の額をそっと重ねた。その体温は、水中とは思えないほど温かかった。


 少し歩くと、街の中心に出た。そこには、異様な存在が立っていた。


 赤黒い衣を纏い、瞳の中に魚のような縦長の瞳孔を持つ少女——澱舞(おりまい)瑠楓(るか)

 彼女は微笑み、首からぶら下げた貝殻のペンダントを私の胸元に下げた。


 「これは共鳴膜(きょうめいまく)。恋が本物なら、赤く染まる。でも……偽物なら、君の声はこの世界に呑まれて二度と帰れない」


 警告なのか、試練なのか。私にはわからなかった。けれど、喉の奥で滲むものがあった。痛み、迷い、怒り、そして恋。全部を攪拌した、塩と血の混合液のような感情。


 「やってみせるよ。私の声が……水に沈むか、浮かぶか、試してやる」


 ペンダントが脈を打った。その脈は確かに、私の心拍と共鳴していた。


 街の建造物がゆっくりと振動をはじめた。深海の地殻変動ではない、それは“音”の始まりだった。

 建物の窓枠がパイプオルガンのリードのように鳴り、沈んだ教会の鐘が低く響いた。

 《深哭(しんこく)の合唱》。


 それは“こちら側”に取り残された亡霊たちの、音楽という名の鎮魂と叫び。


 私はマイクを握った。いや、マイクではない。ただの骨の管。でもそれが、唯一この世界で声を通す手段だった。


 暁斗(あきと)がギターを構える。水流に合わせてチューニングを微調整しながら、彼の弦が震える。リバーブの代わりに水泡が弾け、サステインは湖底の静寂に溶ける。


 私は目を閉じ、喉を開く。


 > —水音が痛みに変わる前に

 > —恋と怒りを歌にして

 > —死者の心拍と重ねてしまえ


 その瞬間、貝殻ペンダントが燃えるように赤く染まった。共鳴した。私の鼓動と、暁斗(あきと)の旋律と、湖底の亡霊たちの叫びが。


 だが、その赤は不吉なサインでもあった。背後から響く、ざわり、とした異音。肌を這う水流とは違う——這い寄る音。


 私が振り返る前に、腐った風が襟元を撫でた。


 黒い影。首のない者。顔が裏返った者。頭部だけの女。

 無数の“声を失った亡者”たちが、水の中を歩いてくる。泳ぐのではない。歩いている。重力も常識も、彼らの足元には存在しない。


 暁斗(あきと)がすぐさま私の手を掴み、走り出す。私はマイクを投げ捨て、喉の奥に溜めていた絶叫を吐いた。


 「なんなの、あいつらは……!」


 「音を喰うんだ。生きた心拍のある音を!」


 追い詰められた私たちは、街の崩れた教会の扉に飛び込んだ。その中にはステンドグラスも祭壇もなく、ただひとつ——裂け目が浮いていた。


 水のような鏡。だが、これは戻るための扉ではなかった。代償を払う“選択の口”だ。


 私は迷わず言った。


 「帰るよ。だって……まだ伝えたい音が、あるから」


 けれど暁斗(あきと)は、手を離そうとしなかった。


 「駄目だ、澪火……。俺が“鍵”になる。君だけは戻れ」


 「は? ふざけるな……そんなの、音楽じゃない! 愛じゃないよ!」


 私は彼の腕を引っ張ろうとした。が、彼の手が優しく私の手をほどいた。


 「俺の心拍、君の中にもう入ってる。ペンダントと一緒に」


 その瞬間、教会全体が水圧で軋んだ。亡者たちの呻きが天井を這い、出口の裂け目が淡く光る。


 「帰れ、澪火!」

 「やだ……やだ……!」


 私が叫ぶよりも速く、暁斗(あきと)が私の背を押した。

 裂け目が私の体を呑み、真逆の浮力に引き上げられる感覚のなか——彼の最後の言葉が、心臓の中に焼きついた。


 「お前の鼓動を……信じてる」


 目が覚めると、私は湖畔の桟橋に倒れていた。


 遠く、揺師(ゆるし)太弄(たろう)がベースをかき鳴らしている。

 Doloris(ドロリス)のドラムが、血を吐くようなスネアを叩いている。

 私の胸元でペンダントが脈を打っていた。彼の心拍——暁斗(あきと)のそれだった。


 でも、彼の姿は……どこにもなかった。


―To be continued.

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ